6月 5日 (日)

 寒い一週間でした。
 一週間……何してたんだろ、自分……? ちまちま段ボールはいじっていた気がする……その程度ですな。
 GH×鬼徹夢ネタ、拍手にも載せてるはずのアレの遊戯編なら思いついたものの、それをメモすることすらままならない感じです。紙に向かっても手が動かないというか、紙に向かうと頭が真っ白になるというか。だめだめですな。

【 前のものに向かって 】

テレホンメッセージより

 主イエス様は弟子たちに、「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(新約聖書 ルカ9:62)と言われました。 (鋤=田畑の土を掘り起こす農具)
 この主のおことばは、目標をもって何かを始める時、その途中で困難や問題にぶつかる場合、疑いや不満を抱いて、うしろを見ない(後退しない)ようにとのアドバイス(忠告)です。
 どっちつかずの心構えでは、結局は何も成し遂げられず、喜びや満足を得ることはできません。不完全燃焼、これは煮え切らない中途半端な態度だからです。
 思い煩とは、あれこれ悩み、苦しむことです。こんな状態では、成し遂げるエネルギーを持っていても、分散してしまって、目標を達成する力とはなりません。
 ある人々は、神のことばを聞いています。しかし、実を結ぶまでに至りません。なぜなら、みことばが、思い煩い、富の惑わし、その他いろいろな欲望によって塞がれ(閉ざされ)てしまうためです。
 しかし、あなたの心を前向きにし、また完全燃焼させて生き生きとすることができます。主イエス様は「別の種は良い地に落ち、成長して100倍の実を結んだ」と言われました。
 「良い地に落ち」とは、正しい、良い心を持ってみことばを聞き、それをしっかりと守り(保ち)、忍耐の末に多くの実を結びます。
『・・・私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(新約聖書 ピリピ3:13~14)』
『神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので。ご自分にかけて誓い、
 「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
 このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。(新約聖書 ヘブル6:13~15)』

《今週のみことば》
 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
 これは預言者ヨエルによって語られたことです。
 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する』(新約聖書 使徒2:15~18)

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6月12日 (日)

 また、何もできない一週間でした。
 それがストレスになったのか、仕事での疲れが溜まったのか。また耳に不調が出てしまいました。片耳が常にぼわ~っとしてる感じで、反対はクリアに聞こえている気はするんだけど、指で耳の穴を塞ぐと血流音だかが聞こえるはずなのに聞こえないという有様。
 数年ぶりに病院に行ってしまいましたよ。急性低音難聴とかなんとか。正式名称はもう少し違ったはずですが。原因は未だ判明しておらず、治るけどぶり返しやすいという。これに眩暈が加わったらメニエール病とか。
 そんな一週間でした。

【 気分に振り回されない 】

テレホンメッセージより

 人はだれにでも感情の浮き沈みがあります。気分が良くて上向きの時もあれば、気分が悪くて落ち込むときもあります。気分というのは、外側の刺激によって、いとも簡単に左右されてしまい、当てにならないものです。
 消極的な気分に捕らわれると、自分だけが惨めだと思うようになり、何をやってもうまくいかない、つらい、悲しいなどといったつぶやきが出てくるようになります。
 そんなつぶやきを口にしていると、いつの間にか心までも否定的になり、さらに自分をみじめな者にしてしまいます。そうなると、喜んでいる人を見ると、ねたましく思い、あいそ笑いはできても不機嫌になっている自分を意識させられるでしょう。「どうせ俺(私)なんか」と思い始めているなら要注意です。
 人生の敗北者になるのは、自分の数々の弱点、失敗、自分に欠けているものをいつも気にかけ、それらを話題にしてしまうからでしょう。
 もしあなたが気分に捕らわれ、物事の否定的で悪い面を気にしているなら、あなたは何かにつけ消極的・否定的なことを言う人になるでしょう。
 そうなると、あなたがいつも話題にしているとおりのものを刈り取ることになります。なぜなら、人は「自分が蒔いたものを刈り取る」からです。
 しかし、もしあなたが主イエスさまの大きな愛を知り、また心理のことばである聖書から教えられて、積極的・肯定的な良いことを話題にすれば、気分に振り回されず、やがて揺るがされない安定した心を持つようになるでしょう。
『・・・心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。(新約聖書 マタイ12:34~35)』
『何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
 曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。(旧約聖書 箴言4:23~24)』

《今週のみことば》
 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れていた。・・・その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
 ・・・この水が入ると、そこの水は良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
 ・・・その水が聖所から流れ出ているからである。・・・(旧約聖書 エゼキエル47:1、9、12)
 ・・・あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり・・・
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(新約聖書 Ⅰコリント6:19~20)

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6月19日 (日)

 耳の不調、早めに治って良かったと思っていたら、早々にぶり返しましたよ、今日。
 書き作業する気力が出ないので、段ボール工作のほうに手を出したりしている近況です。

【 何にもまさって喜ぶこと 】

聖書箇所=新約聖書 ルカ10:17~24

 イエス様は福音伝道のために72人を指名して各地へと遣わしました(ルカ10:1~16参照)。彼らは帰ってくるや否や「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します」(ルカ10:17)と喜びながら報告しました。
 今まで経験したこともないことを経験したその興奮から、報告しないではいられなくなった彼らの気持ちは、誰にでも理解できるのではないでしょうか。
 まして彼らは当時の社会的に底辺として扱われてきて劣等感の塊でした。その彼らが「ほかの誰も経験したことのない経験をした」という事実は、自分が特別な人間になったかのような思いを抱くには充分すぎるものだったのです。
 それに対してイエス様は「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ力を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」(ルカ10:18~19)と、まず事実を肯定しました。それは、イエス様が授けた権威によるものであり、彼ら自身の力や努力の結果ではないことを改めて明らかにするためでした。
 そのうえで「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と戒められたのです。
 「天に名が記される」とは、神の子どもとされ御国を相続する権利が与えられるということです。このためにこそ、イエス様は地上に来られたのです。
『この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書 エペソ2:8~9)』

 恵みとは、資格なき者に与えられる賜物であり、恵みによって神の子とされたことを喜ぶことは生きていくための力となります。
 このことがわからないまま、ただ悪霊を払う働きのみを喜んだのなら、やがて自分を特別な存在だと主張するカリスマ主義に陥るなどの高慢に捕らわれます。そして、それを問題視した別の人々が、イエス様が肯定された悪霊を払う力や権威が与えられるということ自体をも否定するようになり、一面的になっていく元になるなど、トラブルメーカーとなってしまうのです。
『それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の許しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。(新約聖書 使徒26:18)』
 人間は、何かができるようになったとき、「賢い者になった」など、思い上がったり高ぶり誇ったりしてしまう弱さがあります。
 しかし、すべては神の恵みであり、賜物です。神が与えてくださらない限り、人は自分のいのちすら持つことはできません。そして、どんな力を与えられたとしても、決して「特別な」人間になることはないのです。
 何かができることよりも、いつか必ず消えてなくなるこの地から救われ、永遠の御国に属する者とされたことを喜び、その恵みに感謝することこそ大切なことなのです。

《今週のみことば》
 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。(新約聖書 ルカ10:19~20)

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6月26日 (日)

 耳の不調、治ったと思ったのに、また盛大にぶり返し中です。
 一気に30℃とか暑くなったことが原因な気がします、今回のは。

【 ゆとりと、心の穏やかさ 】

テレホンメッセージより

 「穏やかさ」とは、「落ち着いて気持ちが安らか」なこと。だれでも、イライラして、落ち着きのない自分でありたいと願う人はいないでしょう。むしろ「心穏やかに生きたい」と願うでしょう。
 にもかかわらず、ある人はイライラ気分を解消し、穏やかな心を得ようとして、自分の周りにある問題や困難をなくそうと一生懸命になります。
 そのことにエネルギーを注ぐことで、自分の周りにある問題や困難をなくすことができるのでしょうか。それはできません。だとすれば、心穏やかに生きることができないのでしょうか?
 そんなことはありません。大切な教訓を学ぶ機会チャンスとして、その問題・困難を受け止められるように、心にゆとりを持つことです。
 心にゆとりがあるときは、「意地を張って」自分を窮屈にすることから自由になれます。ゆとりがなければ、心が狭められて何かにつけ突き放そうと身構えるようになります。
 しかし、心にゆとりがあって、心が開いているときは、落ち着いて、新しい何かを学ぼうとします。そこではストレスも軽くされ、思慮深くなります。
 そんな受け止め方ができるようになれば、どんな経験も自分を生かす大切な糧となります。そして異なる意見に反対して、自分を正当化しようとする思いからも自由にされるでしょう。
 なぜなら失敗に終わった冒険も、成功した冒険と同じように貴重なものだからです。自分は、人は「成功」とりも、「失敗」から多くのことを学びます。
 そこには、私たちの理解を超えた、天の神さまの知恵に基づく「ちょうど良い取り合わせ」があります。ですから、良いことだけでなく、悪いと思えるようなことでさえも、大切なことを学ぶ機会チャンスとなります。
 人生のつらい側面、失望、喪失感、病気であっても、視点を変えて、自分の学びと成長のための機会チャンスとして柔軟に受け止めましょう。
『苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなた(神さま)のおきてを学びました。
 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にもまさるものです。(旧約聖書 詩篇119:71~72)』

《今週のみことば》
 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」・・・(旧約聖書 イザヤ30:15)
 「やめよ(静まれ)。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる」
 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:10~11)

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