相変わらず、耳の不調が治ってはぶり返しということを繰り返していました。
そして、何もしないまま、半年が経過、ですか……どーしましょ?
テレホンメッセージより
だれにでも誕生日があります。誕生について考えるとき、そこには人間の思いや力の及ばない事柄があります。それは、自分が生まれたいと願ったから生まれてきたのではなく、また自分が男か女か、兄か弟か、あるいは姉か妹か、裕福な家庭か貧しい家庭か、そのどちらかを選ぶこともできないということです。
そうであれば、今、自分という人間がここに存在していることに、いったいどんな意味や目的があるのだろうか? と疑問が湧いてくるのではないでしょうか。
聖書に次のようなことばがあります。『(神様)あなたこそ 私の内臓を造り 母の胎の内で私を組み立てられた方です。・・・私が隠れた所で造られ・・・私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。(旧約聖書 詩篇139:13、15)』
この聖書のことばは、「人間とは、私たちの思いや力の及ばない所で、創造主なる神様の御手によって形造られたものであり、また人間の思いや能力を超えたところで働きをされる神様がおられ、その神様の目的と計画の中に私たちがこの世に誕生させられた」ということを示しています。
ですから、あなたを人間としてこの世に存在させてくださった造り主なる神様と出会うことによって、初めてあなたは自分の存在、また生きることの本来の目的を知ることができるようになります。
しかし、人間である私たちは生まれながら、自分の存在の原因である造り主なる神様を知らず、造り主から離れ、自分自身が良いと思う道を行っています。そのために人間として生きるための本当の目的や意味も見失っています。
にもかかわらず、神さまはあなたが迷いの道から立ち返って、あなたの生きる本来の目的を見出し、希望に満ちた人生に進むことができる道を備えてくださいました。その備えとはイエス・キリストです。キリストは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(新約聖書 ヨハネ14:6)
『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(新約聖書 Ⅰテモテ2:5)』
あなたが自分の造り主なる神様と出会い、あなたがこの世に誕生した本当の目的を見出し、あなたの人生が希望と確信に満ちたものとなりますように。
《今週のみことば》
人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。(旧約聖書 箴言5:21)
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。(箴言3:5~6)
・・・あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。(旧約聖書 イザヤ30:20~21)
路肩の排水口から水が噴き出してて道路が冠水している光景を、初めて生で見ました。そして、危うく、その水のたまった場所で停車しそうになりましたよ。何とか通過でき、無事帰宅できましたが。
聖書箇所=旧約聖書 箴言16:20、詩篇1:1~3
植物が芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶという自然界の法則は誰もが知っていることと思います。それは人間が考え出し、つくり出したことではなく、神の定めた法則です。人間が自分の都合で実だけを得ようと試行錯誤を重ね失敗を繰り返したところで、結局は神の定めた法則に従うことでしか豊かな実は得られません。
心の問題も同じことです。
『幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。
主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。
その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:1~3)』
都合の良いことだけ取り入れて、都合の悪いことは省くということを人はよくしてしまいますが、それは単なる身勝手です。
このみことばも、聞こえの良い後半だけを実践して「実」や「栄え」を手にしようとして、うまくいかずに「このみことばは正しくないね」と言う人がいますが、それはその人が前半の神の法則を省いたせいにすぎないのです。
『みことばによく通じた者は幸いを見出す。主に拠り頼む者は幸いである。(箴言16:20)』
真理のみことばによって、人生はまっすぐにされます。
都合が悪いからと見ないふりをするのではなく、わからなくてもみことばに親しんでいくことが大切です。やがてわかる時が来るからです。
《今週のみことば》
・・・――主のことば――わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。(旧約聖書 イザヤ66:2)
主よ 私の叫びが御前に近づきますように。あなたのみことばのとおりに 私に悟りを与えてください。
私の切なる願いが 御前に届きますように。あなたのみことばのとおりに 私を救い出してください。
私の舌が あなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せは ことごとく正しいからです。(詩篇119:169~170、172)
クーラーで体が冷えることによると思われる疲れがひどい一週間だったかと。
テレホンメッセージより
『聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。眠りを愛するな。貧しくならないために。目を開け。そうすればパンに満ち足りる。(旧約聖書 箴言20:12~13)』一つの物の見方にこだわりすぎると、いつの間にか視野が狭くなり、大切なものを見失ってしまいます。
聖書に『愚かな人は心の中で「神はいない」と言う。(旧約聖書 詩篇14:1)』とあります。「愚かな人」とは、ものごとの全体ではなく、一部分しか見ない人という意味もあります。
死亡解剖に立ち会った人と医者とのこんな対話があります。解剖を終えた後で、立ち会っていた人が「人間の肋骨はずいぶん細いものですね」と感想を述べました。
すると、その医者は「ええ、細いですが、とても弾力性があります。人間のからだを見ていると実によくできているので『だれかが造った』としか思わずにはいられません」と答えました。
この医者は、人体の構造の一部分だけを見たのではなく、全体をも見ていたので「だれかが造った」と考えずにはいられませんでした。それでも人間の理解力には限界があって、「だれかが造った」とまでしか言うことができません。
しかし聖書には、その「だれか?」とは創造主なる神様であり、天と地を創造し、また人を男と女とに造られたとあります。私たちは「神様の最高の作品」で「神様によって生かされている存在」です。そこで私たちは神様によって造られた人間として生きることが求められています。
イエス・キリストが来られ、十字架で死なれたのは、あなたを造り主なる神様のみもとに立ち返らせて、人間としての本来の特権を回復し、祝福してくださるためです。
一つの物の見方だけでなく、もう一つの物の見方をもって、あなたの造り主、救い主なる神様に思いを向けませんか。それをあなたの人生の確かな土台とし、揺るがされない人生をあなたのものにしませんか。
あなたが、神様の偉大であわれみ深い御手の中に生かされていることを知るとき、あなたは迷いや不安から解放され、最善に導かれることを信じることができるでしょう。
『私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(新約聖書 ローマ8:32)』
《今週のみことば》
・・・すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。
イエスは、・・・彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。
それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。(新約聖書 マルコ8:22~23、25)
……何があったのかすら思い出せない、変化のない一週間だった気がします。
とりあえず、気温は割と低めで、これぞ北海道の夏って感じの過ごしやすい気候だった気がします。
テレホンメッセージより
私たちは少なくとも毎日一回は鏡の前に立ち、自分の姿を眺めます。それは身だしなみを整えるためであり、女性であれば自分を美しく装いたいと願うからではないでしょうか。
人のまなざしは、心の鏡と言われます。それは心の中に深く刻まれたこと、すなわちその人の過去や、現在の気持ちを映し出すからです。
まなざしには、陰険なもの、見かけは素直でも、心に悪い思いをひそめているもの、軽蔑的なものもあれば、反対に思いやりのあるやさしいまなざしもあります。
「目は口ほどに物を言う」という諺があります。それは、あわれみに満ちたまなざしは、口に出して言うよりも、深く相手の心に自分の気持ちを伝えることができるからです。または、言葉でごまかすことができても、目ではそうはできません。
主イエスさまは次のように言われました。「宝を地上にたくわえてはいけません。地上では損なわれたり、盗まれたりするからです。宝は天にたくわえなさい。そこでは価値を失うことなく、盗まれる心配もありません。目が健全ならあなたのたましいも輝いています。しかし、あなたの目が、悪い考えや欲望で曇っているなら、あなたのたましいは暗やみの中にいます。その暗やみはどんなに暗いでしょう」
目というものは、その人が最も強い関心を抱いているところに向けられます。それが卑しいものであれば、その心は卑しいものとなり、それが尊いものであれば、その心は尊く好ましいものになります。
心の眼と書いて、心眼という言葉があります。これは、常に変化する外見上の姿に惑わされず、常に変わることのない真実で価値のあるものを見定める眼力です。
主イエスさまに心の目を開いていただきましょう。そして、決して損なわれたり、盗まれたりすることのない、永遠に価値あるものに目を留めて、私たちの望みが決して失われることのないものにしましょう。
『私の目を開いてください。私が、あなた(神)のみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。(旧約聖書 詩篇119:18)』
《今週のみことば》
主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」 私は言った。「アーモンドの枝を見ています」
すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」(旧約聖書 エレミヤ1:11~12)
聞く耳と見る目は、二つとも主が造られた。(旧約聖書 箴言20:12)
クーラーの風を直撃する場所で仕事しなければならなくて、秋冬物のコートを室内で着るというような状態になったり。でもその場所を離れれば暑いという、その温度差に疲れました。
昨日、買い出しついでにちょっと足を延ばして、田んぼの中の道をドライブしてみたら、つなぎトンボが結構飛んでましたな。でも、木のある所ではアブラゼミの鳴き声もしているという。夏と秋が同居しているような景色に癒されてきました。
招 詞
主はこう言われる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、わたしはあなたを助ける。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる。
わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。
彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。
わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。
見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る」
天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。(旧約聖書 イザヤ49:8~13)
《今週のみことば》
もうしばらくすれば、確かに、レバノン(荒野)は果樹園に変わり、果樹園は森に見えるようになる。
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。
柔和な者は主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。(旧約聖書 イザヤ29:17~19)