夕闇の迫る町の外門前に、一人の旅人が立った。
「宿場町、トレイユ……」
手持ちの地図と門に刻まれた名を確認して、地図をたたんだ。そして、商人や他の旅人たちに混じって門をくぐる。
荷運びの召喚獣を休ませておく門前の広場を抜けて、流れに乗って大通りを進めば、程なくして商店や宿屋が立ち並んでいるのが見えてきた。
夜の顔を見せ始めている街中は、酒場を兼用している宿屋が最も賑わっていた。
目深にかぶったフードの下からその様子を眺めていた小さな旅人は、溜息をひとつこぼしてそこを通り過ぎていく。
周囲を観察しながら進めば、水を大量に湛えた池に出て、まだ遊び足りない子供たちが駆け回っていた。
すれ違った子供たちを見る旅人に、笑みが浮かぶ。ただ、それは微笑というよりは苦笑に近いものだったが、それを見る者はその場にはいない。
子供たちも別の場所へ移動し、静けさが訪れた貯水池のほとりに佇んで、旅人は俯く。
「……見つかるだろうか……」
呟かれた声は、ひどく弱々しい。
それは幾度となく期待し、それが叶わなかった者の声だった。
「この町で見つからなければ……」
水面に映る己の顔を見つめて――笑った。それは、自嘲。
「諦めるのも、いいかもしれないな」
絶望に歪んだ自分の顔から目を背けるように、高く天を仰いで。
小さな旅人は、再び歩き始めた。
今夜の宿を求めて――……
――カラン、カラン。
店の扉についたベルが、来客を告げた。
カウンターで店番をしていたフェアの反応が遅れたのは、滅多にない来客だという以上に、現れた人物があまりに怪しげだったためだ。
防寒用のマントに身を包んだ様は、一般的な旅人の姿。けれどその人物は、更にフードを目深にかぶっており、性別すらわからない状態だったのだ。
大して寒くもないこの時期に、だ。
お尋ね者――という単語が脳裏をよぎったフェアの元へと、その人物はゆっくりと歩み寄ってきた。
歩きながら店内を見渡すように首を動かし、カウンターの前で立ち止まると同時にフェアへと目を向けて。
「君が、ここの主?」
問われたのは、半信半疑とも受け取れる言葉。
その言葉が癇に障ったが、何とか表情には出さずに答える。
「……そうですけど」
「そうか……」
子供というのは、生きていく上でかなり不利だ。大人にとって生きてきた年数の足りなさは、そのまま信用度の低さとなるから。
今までも、あった。子供が店主だとわかると、決して宿泊しようとはしない。それどころか、冷やかし目的でわざわざやってくる旅人も――いたのだ。商店街からかなり離れた、町外れにあるこの宿屋に。
目の前の旅人は、その身長から大人ではなさそうだということがかろうじてわかるのみ。恐らく自分と近い年齢だろう。――でも。
やはり、また宿泊客はお預けかな――と。
「一部屋借りたいんだが、空きはあるか?」
そんなことを考えていたフェアは、旅人のこの言葉にすぐに対応することはできなかった。
「……女将?」
不覚にも立場を忘れて思い切り目前の人物を凝視してしまっていたが、旅人の怪訝な呼び掛けで我に返り、宿帳等を取り出した。
「あ、はい! あります。宿泊料金はこの表のようになってますが、これで宜しければこちらにお名前の記入をお願いします」
料金表にざっと目を通した旅人はひとつ頷き、フードを外して宿帳へと筆を走らせた。
初めての宿泊客、という喜びも安堵感も、今はフェアの中にはなかった。それよりも大きな衝撃が、それらの感情を脇へと押しやってしまっていたから。
その原因は、もちろんというか目の前の客。その、顔だ。
鳶色の長めの前髪の隙間から見える、伏目がちな――宿帳を見ているのだから当然ではあるが――赤茶色の瞳。静かな物腰のためか、憂いを秘めているように見えるその顔には、不思議な魅力を醸し出している気がした。
声を聞いて男かと思っていたのだが、この顔は、もしかして――
「お、女の子だったの……?」
「男だよ!!」
思わず呟いてしまった言葉はばっちり相手に聞こえたらしく、即答で訂正された。
「あ、ご、ごめんなさい……」
彼にとっては不快なことのようで、かなり鋭く睨まれてしまい、顔が引きつりつつ謝罪を何とか口にして。
置かれたペンと宿帳を引き取ったものの、かなり気まずい空気に二の句が出てこなかった。
その、背に。
「フェア!」
掛けられた声は、まさに天の声で。
「その人、お客さん?」
「あ…………ライ……」
勝手口のほうからやってきた少年少女の名を唇に乗せた。
すると、フェアの様子にか、それとも場の雰囲気にか。少年・ライが訝しげに眉を寄せて。
「……どうかしたのか?」
「ううん! なんでもないよ」
疑問にぱたぱたと片手を振って答える。
それから、自分を落ち着かせるために、呼吸をひとつ。
「えっと、宿泊のお客さんだよ」
「宿泊? 珍しいな」
初めのの問いに答えると、ライは素直な感想を洩らし、は大きく目を瞠って。
「そっか。宿泊のお客さんね」
旅人を見つめて確認するように呟いた。
「君たち二人も、この宿の人?」
会話が一段落したのを見計らったように出た旅人の言葉。
その声音に、不快感を感じさせるような響きがないことに僅かばかり安堵して、フェアは答えを返す。
「そうです。わたしの兄のライと、妹の」
「この宿は、私たち兄妹三人でやってるんです」
「へえ……」
付け加えられたの説明を聞いた旅人は、目を細めて彼女を見つめている。
その、不思議な眼差し。
表情に変化はないのに、その瞳だけが微かに揺れている気がした。
「ようこそいらっしゃいました。……えっと……」
「だよ」
「はい。さん」
「いらっしゃい、」
挨拶を交わす間も、それは変わらなくて。
――何故だろう、と。疑問を抱いた矢先、その瞳が、己を映して。
「あ……」
心臓が、跳ねた。
逃げるように、思わず視線を逸らして。
「あの……でも、本当にここでいいんですか? 商店街から離れてるんですけど……」
震えそうになる唇を叱咤して、現状に差し支えのない――彼が宿泊を決めた時から気になっていたことを口にした。
フェアの動揺は気付かれなかったのか、旅人・は初めて現れた時の様相でさらりと答える。
「オレ、静かなほうが好きだから。それに、長くいるなら落ち着けるところのほうがいいだろ?」
「長くって……」
疑問と共に顔を向けると、今度はのほうが俯いて荷物を漁っていて。
「とりあえず、ひとつの町に最低一週間は滞在することにしてるから。まずは一週間分、先払いしとく」
差し出された一週間分の料金。
それを受け取って、フェアは背後の妹を振り返る。
「、さんのこと部屋まで案内してあげて」
「はーい!」
持ち前の明るさで快諾したに促され、彼女の後をついていく。二人が階段の上へと姿を消したのを確認して――
胸に宿帳を抱いたまま、気が抜けたようにカウンターに突っ伏した。
「ど、どうしたんだよ、フェア」
「……たすかった……」
「――は?」
「ライたちが戻ってきてくれて、本当によかったよ~……」
「…………何やらかしたんだ?」
呆れが多大に含まれた質問に逡巡した後、重い口を開くようにフェアは言葉を返す。
「あの人、初めて見た時どう思った?」
「どうって……随分と綺麗な顔立ちの男だなって……あっ」
質問で返されて素直に答えていたライは、フェアの言いたいことに思い至ってくれたらしい。腕を組んであらぬ方向へと視線を投げた。
「あ~、なるほどな。そりゃ機嫌を損ねられるだろうよ。普通、女に間違われて喜ぶ男はいないからなあ……」
オレだって嫌だ。
ライはどっからどう見ても男にしか見えないよ。
そらどうも。
「とりあえず、謝ったんだろ?」
無言の遣り取りの後の確認。
フェアは宿帳を持つ手に、少し力を入れて。
「うん……でも……」
「許してくれなかった?」
言いたいことを先読みして訊いてくるライ。このあたりは、同い年とはいえ伊達に『兄』をやってはいないと思わせる。
「その前にライたちが来たから……どうなのかなぁ……」
ようやく身体を起こしてフェアは呟いた。するとライは、溜息のあと苦笑を浮かべて。
「一週間も宿泊してくれるってことは、許してくれたか、大して気にしてないってことだろ」
まあ、確かにその通りだ。
料金を払う前だったのだから、本気で怒ったのなら別の宿に移るだろうし。ライとに対しては普通――とは言い難いが、怒った様子で接してもいなかったから。
――けれど。
「そうだといいけど……」
「……まだ何かあるのか?」
「大したことじゃないよ。ただ、あの人なんなのかなぁって」
「何って……」
「わたしたちと同じくらいの年齢で一人旅ってさ、普通はそうないんじゃないの? 芸人とか商人とか吟遊詩人とかでもなさそうだし」
泊まってはくれたけれど、冷やかし目的じゃないかとか、先程のことで後から何か苦情を言われるんじゃないかとか。
そんなことを心配しているわけじゃなくて。
半分はただの好奇心。もう半分は――
「ダメ親父の同類」
「にも見えなかったよね」
あの、不思議な眼差しが、気になったから。
何の感情も読み取れず、見ているのに映してはいないような――不思議な色の瞳が、少し、怖かったから。
「ま、なんにせよ、ここで推測したってわかることじゃないだろ。そんなに気になるなら、後で本人に聞いてみればいいだけさ」
軽く肩をすくめるようにして、ライが言った。
顔を向けたフェアを真っ直ぐに見据え、勝気な笑みを見せて。
「それよりも、初めての泊り客をもてなす方法を考えるほうが先じゃねーのか?」
「……そうだね」
示されたのは、今、一番に考えるべきこと。
詮索するよりも、大事なこと。
フェアもまた笑みを返して、今まで抱えていた宿帳を元の場所へと戻す。そして。
「またトレイユに来た時に、うちに泊まりたいって思ってもらえるように!」
「ああ! まずは夕食だな!」
二人揃って腕まくりをし、意気揚々と調理場に向かった。
案内役としてカウンターの中から出てきたのは、店主・フェアの妹だという少女・。
促され、先導する彼女の後をはついていく。――と、大して進まないうちに、思い出したようにが振り返ってきて。
「えっと、どの部屋がいいですか? 今、どの部屋も空いてます」
聞かれたのは、部屋の希望。
は彼女の奥にある階段へと目を向けて、端的に聞き返す。
「二階も、客室?」
「はい、そうです」
「じゃあ、二階の奥の部屋を」
「はい、わかりました」
頷きつつ了承を返して、再び前へ向き直ろうとした、その背に。
「あのさ」
何故、声を掛けてしまったのか。
そんなつもりは微塵もなかったはずなのに……自身にも、理由は分からず。
「はい?」
階段を上りだしながら振り向く彼女を見てかなりの後悔を抱きながらも、表面には表わすことなく。不自然なく誤魔化す方法を探すために、思考をフル回転させる。
「それ」
見つけた、答え。
けれど言葉が上手く出てこず、以前のような単語喋りにはきょとんとしていて。
「……敬語は、いらない」
「えぇっ? でも……」
ようやく続けられた言葉は、彼女に驚きと共に躊躇いを呼び込んだようだった。
まあ、当然か。普通、客に対してタメ口を使うことなどないのだから。
だが、後にも退けない。
「いい。呼び方も、呼び捨てで構わない」
階段を上るため、さり気なくから目を逸らして言い切った。
は上り切った二階に立ち止まり、かなり戸惑いつつも頷く。
「……う、うん……?」
が追いつくのを待ってから、は再び歩き始めて――こちらを窺うように、少しだけ顔を向けてきた。
「ほんとに……敬語じゃなくていいの?」
物は試しといった体で敬語を外した。
は、ただ静かに了承を返す。
「ああ」
「……うん。わかった」
揺れる淡い山吹色の髪に誘われるように視線を上げた先で、ははにかんだ笑顔で小さく頷いていた。
そうして再び前を向いて歩き出した彼女の後ろで、は荷物を持つ手に力を込める。そうすることで、必死に平静を保とうとした。
「それじゃあ、部屋はここね。洗面所とお風呂はすぐ向かいだから。鍵は後で持ってくるね」
二階の最奥――『深緑(しんりょく)の間』と書かれた扉を開けて、は簡単に説明した。
半分以上、上の空でそれを聞きながら中へと足を踏み入れて。下階へと戻っていくを、ただその足音だけで確認して扉を閉めた。
しんと静まり返った室内。
は後ろ手に扉を閉めた姿勢のまま佇んでいて。
「……違う……」
ぽつり、と。呟いた言葉は、まるでうわ言のようだった。
「そうだ……わかっている……あの子は、じゃない」
自分自身に言い聞かせるために、形になった言葉たち。それは確かに現実としての中に根付いている。
――けれど。
「わかって、いる……別人だ……は、もういない……」
外見に、似ているところなどひとつもなかった。顔も、髪型も、髪や瞳の色も。すべてが異なっていた。
なのに――
ふとした表情や仕草が、と重なって見えた。
たった、それだけのことで。
――兄!――
はっきりと、蘇る声。もう、10年以上も前に、消えてしまった呼び名……
共に生まれた妹、失ってしまった半身を。
思い出す。忘れることなどできない、大切な――
「はは、情けないな……」
扉に寄り掛かり、そのままずるずると力なく座り込む。
実感、する。未だ埋まらぬ、心の空白を。
「オレはまだ、こんなにもを求めているのか……」
一人を望みながら独りにはなりきれず、いつも誰かを求めている。
その、最たるものは――今も、妹……
旅に出て幾年月……何も、変わっていない証拠。
「やっぱり、ここが最後だな」
どれだけ時間をかけても変わらない――変われない自分。
それを突きつけたのがだというのなら。
「一週間……ここにいる間に変われなければ――」
彼女に、妹の影を求め続けるようであれば。
「諦めろってこと――だよな……」
俯いたまま刻んだのは、歪んだ笑み――自嘲。もう癖になってしまっているそれ。
既に半ば諦めてしまっている心を、その笑みを消すことで奮い立たせる。
訪れた機会を最後と決めたのなら――
足掻いてみせよう。
自分が、本当に望んでいるものを手にするために。
「これが、最後のチャンスだ」