「ふ、わぁぁ……」
布ずれとベッドの軋む音の後、まだ寝足りないような欠伸(あくび)が室内を踊った。
は見ていたノートを閉じて、椅子ごとベッドのほうへと体を向け声を掛ける。
「おはよう、ユーディット」
「ほへ……?」
ベッドの上、寝起きのユーディットがを見る。
――間。
「……あれ?」
寝惚け眼に、徐々に知性の光が宿ってくる。
さらにしばらく経って、ユーディットはおもむろに手を打った。
「ああ! 未来に飛ばされたんだっけ……」
ようやく完全に目が覚めたらしく、それでも幾分か緩慢な動きでベッドから下りてきて。
「おはよ、。早いね」
「……私は、いつも通りだけれど……」
「え?」
遠回しに否定を返しながら、ユーディットの眠りを妨げないように閉めたままにしておいたカーテンを静かに開ける。すると、眩しい光が部屋いっぱいに広がって、ユーディットの疑問に答えを与えた。
「もしかして、もうお昼なの!? うわっ、ゴメン……寝坊もいいとこだね……」
「別に気にしてないわ。昨日の今日だし、疲れていたんでしょう?」
「う~……そうなのかなぁ……自覚はないんだけど……」
呟きながら支度をするユーディットに代わり、彼女が使っていたベッドを簡単に整えた。まだ宿泊なので必要はないのだろうけど……今夜も使う可能性のほうが高い気がしたから。
そのうちに、顔を洗い終えたユーディットが戻ってきて。
「でも、は普段と変わらなかったんだよね? あんまり疲れてたりしないってこと?」
「そうね……フィンクに言われた通りだから」
「――え?」
「あまり好ましくないことばかり考えつくから、不運と呼べるようなことになってもすぐに諦めがつくというか……流石に、見知らぬ地に放り出されるなんてことは考えつかなかったけれど」
だから根暗だと言われるし、自覚もしている。けれど直す気は全くない。
何故なら、希望を持たなければ失望することもないから。ただ目の前にある現実を受け入れ、そこに感情を投影しなければ、傷付けられることはないから。
今までずっと、そうやって生きてきたから。……そうやってしか、自分を守る方法がなかったから。
「それに、やるべきことがわかっている分、大分気は楽になるものだから」
決して前向きなのではなく、単なる逃避のひとつだが、事実は事実。
淡々と告げると、何故かユーディットは感心した様子で頷いた。
「あー、そっかそっか! 不安になってるだけじゃ、なんにもならないもんね! まずは、ちゃんとここで生活して借金を返すことだよね! 行動しなきゃ何も始まらない!」
握り拳を作って勢いよく立ち上がった彼女は、再び幾度か頷き、そして笑った。
「うんうんっ! そうだよ! すごいね、! 本当に楽になったし、やる気も出たよ!」
まさかそういう風に受け取られるとは思わなかったので、言葉も出て来ず反応に困ってしまった。
明るく前向きで、コロコロと表情の変わる感情表現豊かな少女。
ユーディットはにとって、今まで触れ合ったことのない人種だったから余計に。
そんなの困惑を知る由もないユーディットは、の手をとり嬉々として言った。
「、全然暗くないよ! すっごい前向きじゃない!」
「……それは、あなたのほうだと思うわ」
「ううん、もだよ! だってあたし今、のお陰で元気になれたんだから!」
現状に対する不安はともかく、起き抜けに落ち込ませてしまったのは自分の存在だと思うは、素直に喜びを表すユーディットを前にして何も言えなくなった。
返答しないを、納得したためと解釈したのか、それとも単に気にしていないのか。笑顔を崩さぬままユーディットは、包み込んでいたの手をそのまま引いて。
「まずは腹ごしらえ。そのあと今日の予定を考えよ!」
階下へと向かう彼女に、反論する理由のないはただついていったのだった。
「やあ。ユーディット、。生活のほうはどうだい?」
昼下がり。丁度宿屋兼酒場から出てきた二人の少女を見つけ、ヴィトスは声を掛けた。
声の主を見てただきょとんとしたユーディットとは対照的に、は眉根を寄せてあからさまに嫌悪感を露にした。
「どう、って……まだどうとも言えないよ。一日目だもん」
「ははっ、それもそうか」
全く口を開こうとしないに代わり、ユーディットが素直な返答をしてきた。
ヴィトスもまた素直に返し、そして声を掛けた目的を口にした。
「それじゃあ、ひとつ、大切なことを教えてあげるよ」
「なに?」
「生活していくのに水が必要だろう? まあ、『宿泊』なら多少は用意してくれるだろうけど、『賃貸』となるとそうはいかないからね。その水は、井戸で手に入る。君たちのいた村には井戸らしきものがなかったからな」
いきなり生活につまずかれて逃げられでもしたら大損害になる。まあ、多少の親切心もあって教えておこうと思ったのだが、果たしてそれは正解だった。
「そうね……無くはなかったけど、川の水を使っていたなぁ……は?」
「……私は、井戸自体、見たことがないわ。……必要の無い生活を送っていたから」
二人とも、井戸についての知識はほとんど持ち合わせていないということがわかり、ヴィトスは笑みを浮かべる。
「基本的に、ここでは街角の井戸の利用は自由さ。この辺は水が豊かだからね。ヴェルンならほら、そこにある井戸だ」
示したのは宿のすぐ前にある広場の隅。幾人かが利用している姿もあり、事実として受け入れてくれるには充分な要素が揃っていた。
「他の街でも大抵同じさ。相当ひどい使い方をしなければ、自由に汲んでも怒られはしないよ」
「そうなんだ……あたし、ちょっと行って見てくるね!」
言うが早いか、ユーディットは井戸へと走っていってしまった。元気というよりは落ち着きのない少女だ。
対するは……落ち着きすぎだと思う。昨日もそうだったが、自ら行動するということが極端に少ないのではないだろうか。
「君は行かないのかい?」
何をするでもなくその場に佇むに問い掛けてみるが、答えは返ってこなかった。
こちらを見ようともせずに――視線はユーディットに向いている。
先程の嫌悪感といい、相当警戒されているようだ。
「僕は、そんなに信用できないかい?」
「高利貸しを信用するほど、私は愚かでもお人好しでもないわ」
直球で訊いてみたところ、鋭くバッサリと切り返されてしまった。ユーディットとは別の意味で彼女も正直なようだ。
「精々、貴方が返済できないほどに利子を吊り上げて、私たちに売春を斡旋するような人間ではないことを願うだけよ」
淡々とそう告げると、彼女はユーディットの許へと行ってしまった。
ヴィトスはただその姿を見送って、前髪を掻き揚げる。
「これは……随分と嫌われたものだな……」
職業柄、嫌われることも恨まれることも慣れていたはずなのに。正直、きついと思ってしまった。
去り際、一瞬だけ見せた何者をも拒絶する硝子のような瞳も、率直な言葉も。
今まで何人に似たような態度を取られたかわからない。確かに初めのうちは気にしていたけれど、今では慣れてしまっていたのに。
何故なのか――理由を考えて、思いついたのはひとつだけ。
僅かにあった親切心も、下心として受け取られてしまった……否定されてしまったということに対して傷ついているのでは――と。
はっきりと自覚したことでより一層胸に突き刺さるものがあったが、それも今更。考えても仕方の無いことだと、ヴィトスもまたその場を去った。
井戸を見たあと振り返ると、いつの間にかヴィトスはいなくなっていた。
特に彼に用があるわけでもない二人は、食事の時に決めた通り街の散策を開始し、ヴェルンの中に関して必要なことは大体覚えることができた。
最後に向かった先は街外れ。
街の出入り口とは別に、一ヶ所だけ森へと直通している橋があったのだ。
そこが『採取地』と呼ばれる場所で、酒場で斡旋している物探しの物品が見つかるのだということだった。
今はまだ依頼を受けてはいないが、とりあえず下見ということで入ってみた。
「ねえ、。さっき言ってた井戸が必要ない生活って? やっぱ川の水を使ってたってこと?」
森の中、『魔法の草』と呼ばれている植物を採りながら、ユーディットが訊ねてきた。
彼女に教えてもらいながら、同じように『魔法の草』を採りながら、は答える。
「川の水といえばその通りだけれど、直接汲んで使ったりはしてないわ」
「……どういうこと?」
「何の加工もしないままでは、飲み水として使えなかったの。それに、私がいた国では、狭い土地に沢山の人が住んでいたから……水道が整備されていて、家の中にいても簡単に水を使うことができたわ」
「え!? それって、一切水汲みしなくていいってこと!?」
「ええ」
宿にあった流し台と井戸とから考えて答えた内容に、ユーディットは驚きを露にした。けれど、すぐに目を輝かせる。
「それって、なんで? どうやって?」
見るからに興味津々な様子に、は記憶を手繰り、言葉を選んで。
「私もあまり詳しいことは知らないんだけど……川の水を引き入れてろ過とかで綺麗にする大きな施設があるの。そこで飲み水として使用できる状態にした水を水道……管を通して一戸一戸の家々に送っている――の、かしら?」
「え、じゃあ、家の中まで川がある感じ?」
「いいえ、違うわ。細い管が床下や壁につけられていて、その先に蛇口……バルブ? 何て言えばいいのかしら……ネジのようなものがあって、それを捻った時だけ出てくるようになっているのよ」
生まれた時からある、普段何気なく使っていたものを改めて説明することが、こんなに難しいとは思わなかった。
本を読むことは好きだったけれど、その内容を知識としてきちんと蓄えられていなかったことを、今ユーディットと話していて初めて知った。
ただ娯楽として読んでいただけでは、この程度だということなのか。
軽く落ち込んでいるに気付くこともなく、ユーディットは目を輝かせたまま新たに得た知識をまるで楽しんでいるようで。
「つまり、必要な時に必要な分だけ、楽に手に入るってことだよね?」
「……そういうことね」
「すっごーい! それってすごい便利じゃない! そういう世界で生活してたんだ! いいなぁ」
「タダではないけれど……」
何となく付け足した情報は、案の定、彼女の中にあった間違いを指摘した。
「え!? お金かかるの!? ただの水でしょ!?」
「飲み水に加工する工程も、それを家々に送る設備も、管理や整備に人手と様々な物が使われているもの。仕事をする人に賃金を支払うことも、何かを買うのにお金を支払うのも当然のことでしょう?」
日本では水は買うものだったけれど、この世界ではそうではない。
便利になる代償に、全てのものにお金がかかる。それが、こことの決定的な価値観の違いなのだろう。
「う~ん……そっかぁ……言われてみるとそうだよねぇ。便利になりすぎるのも、やっぱり考えものなのかなぁ」
「そうね……人工的に作られたもののほうが、いいものだという保証はどこにもないわ」
ユーディットは、知識を得ることに興味を持っているように見える。けれど、得た知識を無造作に蓄えるのではなく、そこからあらゆる可能性を考えていく広い視野を持っていた。
少なくとも、の目にはそう見えた。
「もそう思ってたの? ここってのいた所と比べると、かなり不便ってことでしょ? でも、こっちのほうがいいの?」
「……そうね……今の私には、井戸から水を汲むことはかなりの労力を要することだわ。でも、少なくとも水道水よりは井戸水のほうが、美味しいと思えたわ」
日本にいた時は水の味なんて気にしていなかったけれど、先程井戸水を飲んだ時に初めて水を美味しいと感じたのだ。
便利さのほうがいいのか、それとも美味しいほうがいいのか。天秤に掛けることはまだできないけれど、少なくとも今は、労力の甲斐のある味だと思っている。
素直に伝えると、何故かユーディットは嬉しそうに笑って。
「そっか……えへへっ。ね、次はあっちに行ってみよ!」
の手を取って、更に奥へと進んでいった。
「あ、胡桃……」
「え、ホント!?」
足元に見つけた見知った木の実に、思わずその名が口をついた。すると、ユーディットがすぐに反応を返してきた。
「すごいよ、! これも使えるものだよ!」
「そうなの……というか、ここでも同じ名前で同じ物があるのね」
にとって一番の驚きはそこだった。
全くの別世界なのに、同じ植物を見つけられるというのが、何だが凄く不思議な感じがする。別世界、だけれど……どこか繋がるところがあるのだろうか。
の事情を知らないユーディットもまた、苦笑を浮かべて同意してくる。
「あははっ、そうだね。逆に全く知らないものがあったり、知っていたものがなかったり……時間の流れって世界をすごく変えちゃうんだね」
「……ええ、そうね……」
世界も、人も、等しく、残酷に変えていく。それが時間。決して逆らえぬ流れ。
普通に生きていても感じることのできるそれを、ユーディットは時間移動によって否が応にも突きつけられたのだ。その衝撃は、の計り知れることではないだろう。
にとっては世界そのものが別物だから、ユーディットの気持ちを知ることはできない。
手の中の胡桃を握り締め、顔を上げた――その時。
「っ!!」
「――え?」
鋭いユーディットの叫び。顔を上げたそこには、少し離れた位置に声の示すまま緊迫した表情のユーディットがいて。
「何?」
見たことのないその様子に、は戸惑う。けれど、その理由はわからぬまま。
「伏せて! 早く!!」
逆らえぬ何かを感じ、その場にしゃがみこむ。そして――
「フレイムフォーゲル!!」
初めて耳にする言葉。直後、空気の流れが変わった気がして――ゴオォッ、と。大きな音を立てて何かが頭上を通り過ぎた。
「ギャウッ!?」
そして聞こえたのは、獣の鳴き声。
声がした左側を振り向くと、鮮やかな桃色の毛をした熊が走り去っていく姿が目に映った。
恐らく、あの熊は自分を襲おうとしていた――その事実に思い至り、ぺたんとその場に座り込んでしまった。
「! 大丈夫!?」
今更ながらに動悸が早くなるのを自覚し、手も震えだして……駆け寄ってきたユーディットに答えることもできなかった。
「……やっぱり……」
ややあってから聞こえた呟きで、ようやく顔を上げユーディットを見ることができた。けれど、彼女の顔は心配そうに――つらそうに歪んでいて。
「あ、ありがとう、助けて、くれて……」
「そうじゃないよ!」
やっと伝えられた礼は、ユーディットの泣きそうな声で否定されて。
わけのわからぬに、彼女はその事実を告げた。
「、左目見えてないでしょ!?」
「あ……」
言われて、初めてユーディットの右手が自分のほうへと向けられているのに気付いた。
恐らく左目の前にかざされているのだろうけれど……彼女の指摘通り、にはそれを見ることはできないのだ。
「どうして隠してたの?」
「……隠していたわけじゃないわ……忘れていたの」
「――え?」
「生まれつきのものだから、私にとっては見えないのが普通なの。明るいか暗いかがわかる程度だし……それでも日常生活に支障はなかったから」
だから、忘れていた。気にしないでいられた。
そうできる環境だったから、尚のこと。――けれど。
「でも……ここで生きていくには、不利みたいね……」
気配を察する力なんて持っていないは、先程のように左側から接近する敵に対して全く反応できない。
それ以前の問題として、戦う力など持ち合わせてはいないのだ。
ここで熊に襲われたように、この世界では危険が常に隣にある。昨日、ヴィトスが狼のエサだと言っていたことを思い出し、その事実を改めて実感した。
ヴィトスが言っていたような方法では、はお金を稼ぐことができない。
やはり、何としても早々に文字の読み書きを覚えて、バイト先を探す必要がある――と。
震える手を握り締め、膨らむ不安に耐えていたら、その手をユーディットの手が包み込んできた。
「大丈夫! あたしがサポートするから!!」
力強い言葉で、彼女はそう断言した。
「の左側はあたしが守ればいい、そうでしょ? それに、今は無理かもしれないけど……の目を治す薬、あたしが作るから!」
「ユーディット……」
足手まといであるのは確かなのに、自分の苦労が増えるだけだとわかっているだろうに、それでも見捨てないでいてくれる。
真っ直ぐに向けられた眼差しが、心からの言葉だと物語っていて。
素直に、その気持ちが、嬉しかった。
「だから、諦めないで。一緒に頑張っていこ!」
「……ええ」
向けられた眩しい笑顔に、は確かに勇気をもらって。
その想いを、一言に込めた。