【 希望の風 】


 ――! 逃げろ、!!――

 視界を統べる紅蓮に、愛しき者の声が響く。

 ――ここはもう落ちる。我が秘術を以って、おまえだけでも――

 一面の赤の中、見慣れた白銀が必死の形相で。

 ――、どうかおまえだけでも生き延びてくれ……我が愛しき娘よ――

 それでも最後に笑顔を残して……光に、消えた。


「…………ータ……たい、取……」
 体中を苛む痛みと聞き覚えのない声に、は意識を取り戻した。だが、失った体力は然程回復していないのか、傷の痛みも相俟(あいま)って動くことを妨げている。
 それでも、可能な限り全神経を集中させて周囲の様子を探ると、自分の体に生物のぬくもりと何かが巻かれていく感触を認識できた。
「よし、これで大丈夫。後は木竜術で痛みを止めてあげれば終わりだね。タータ、力を貸してね」
 聞こえてきた声に、目を開けた。
 やわらかな光の中見えたのは――人間の青年。
 は動かない体を無理矢理起こし、その人間に向けて牙をむいた。
「うわっ!? び、びっくりしたぁ……」
 いきなり動いたのに驚いた人間が飛び上がった。そのまま跳ね上がった動悸を落ち着かせるように胸に手を当てている人間を、油断なく睨みつける。
「そんなに警戒しないでいいよ。僕たちは敵じゃないから」
 低く唸っていると、その人間はそう言った。
 だが、そんな言葉を信用するつもりなどにはない。
 近付こうとする人間に牙を見せ、いつでも飛びかかれるように力を入れた――が。体に激痛が走り、後ろ足から力を抜いてしまった。
「ああ! 無理しないで! 今、痛みを止めるから!!」
 再び倒れ込んだに近付こうとした人間に、意地で前足を立たせて威嚇する。
 警戒をいつまでも解かずにいると、どうしようもないのか人間は立ち尽くしたまま頭を掻いて呟く。
「まいったなぁ……」
 しばし一方的な睨み合いが続いたが、不意に部屋の扉が開いたことで一時的に中断した。
 見れば、随分小さな生き物がいた。人型はしているが耳は長く、角と尾、それに飛翼を有しており、それが人間でないことは一目でわかった。
「ナータ……」
 人間が呟いた。おそらくは、その生物の名だろう。
 ソレは、恐れることなくに近付くと、持ってきていた木製の器を彼女の届く範囲に置いて、見上げてくる。そして……
《ただの水だ。飲め》
 聞こえた、声。――否。それは音としては存在してはいない。けれど何故か伝わってきた言葉。
 この不思議な言葉と、それを為したであろう小さな生物をは凝視する。
 漆黒の髪と衣に、黒曜石の瞳。深い深い色の瞳は一切の曇りもなく、澄んだ綺麗な輝きを持っている。無表情よりはどこか不機嫌そうにも見える表情だが、そこに負の感情は含まれていなくて。
 は、置かれた水に口をつけた。
 それでも、おかしな味や匂いがしないことを確かめてから本格的に飲み始める。
 確かにただの水。無味無臭無色透明。けれど、どこか普通の水より美味しく感じるのは、果たして喉が渇いていたせいだろうか。
「じゃあ、術で痛み止めたいから、もう少し近付いてもいいかな?」
 が水を飲んだことで安堵したのか、人間がそう言った。
 その問いに、は否定の意を込めて低く唸る。
 そんな彼女の耳に、小さな溜息が入り込んだ。
《マシェルはおまえに危害は加えない。信じられないならそれでも構わないが、今はその怪我を治すことだけ考えろ》
 再び、伝わってきた言葉。
 すぐ傍らにいる小さな生物に目を向け、そしてもう一度マシェルと呼ばれていた人間を見て……唸り声を止めた。
 警戒を解いたわけではない。ただ、小さな生物、ナータの言うことももっともだと、そう思ったから。
 じっと、睨むように見ていると、恐る恐る近付いてきて。そのまま動かずにいてやれば、安堵したように息をこぼして人間は背後を振り返った。
「タータ」
 人間の言葉に、また違う小さな生物が彼に寄ってきて……ふわり、と。は暖かな何かに包まれた気がした。
 血を流しすぎて体温が下がりきっていた体に、ぬくもりが染み込んでいく。
 そして……痛みが――消えた。
「これでしばらく痛みは消えるけど、傷が治ったわけじゃないから無理はしないでね。あとで何か消化のいいもの持ってくるから、しっかり食べてまずは血を作らなきゃ、怪我も治らないよ」
 忠告と説明を一度に済ませて、人間は屈託なく笑った。
 先程まで、怯えてはいなかったが敵意を剥き出しにしたに困り果てていたというのに。既にそのことも忘れたように笑う人間に、は意表を突かれた。
 ――天真爛漫とは、この者のことを言うのだろうか。
 そんなの思いを知る由もないマシェルは、笑顔のまま「ゆっくり休んでてね」と言い残して部屋を後にした。
 ナータもが飲み終えた器を持って帰り、一気に気の抜けた彼女は、血と体力不足も相俟って倒れ込むように再び眠りについた。


 は夢を見た。
 父と、母と、一族の皆が笑顔で暮らしていた頃の夢を。
 もう二度と戻れはしない……幸せだった時間の、夢を――

「あ。起きた?」
 ぼんやりと目を開いた先にいたのは――人間。自分からすべてを奪った、生物……
「食事持ってきたから、食べてから寝たほうが――わっ!?」
 自分の頭の上に添えられていた人間の手を喰いちぎろうと動くが、未遂に終わった。人間のくせに反射神経が良いかと思いきや、自分で避けたわけではなく、小さな生物に引っ張られた結果だったらしい。
 更に飛びかかろうとした矢先――
《寝ぼけて襲い掛かるな!!》
 強く伝わってきた言葉。
 一瞬、頭の中が真っ白になって……そして思い出した。今の自分が置かれている状況を。
 冷静になったことで体調も正しく判断できるようになったらしく、貧血で視界が回るのに耐え切れずに再び横になった。
「あ゛あ!? 大丈夫!? ……って、いうか寝ぼけてって……」
 一人オロオロとする人間に、はそっぽを向く。
 また困惑したらしい彼を、先程の攻撃から守った小生物が宥めて退室させるのをぼんやりと眺める。
 扉を閉めた小生物――確かナータという名のソレはの傍まで来ると、深く溜息をついた。
《おまえのその傷、人間にやられたものなのか?》
 チラッとナータを見る。
 その視線に気付いたナータは、人間――マシェルが置いていった盆の上、深皿のふたを取りながらまた溜息をこぼす。
《あれだけあからさまにマシェルにだけ敵意を向けていればわかる》
 なるほど、確かに。
 見た目に反して、ナータは随分と頭が良いというか達観しているようだ。
 は顔を上げてナータを覗き込んだ。彼の手元には湯気の立つ皿がある。
《コーセルテルにいる人間は、他種族を迫害したりなどしない。変に警戒するな。……とりあえず、食べろ》
 差し出された皿の中身は、リゾットのようだ。食べやすく消化によく栄養バランスの良いものとしては最適。おかしな匂いもしないし……
 は溜息をついて、リゾットに口をつけた。
 少し熱めだけれど、甘みと塩加減が丁度良いバランスで口内に広がって……一言で言えば、かなり美味。
 もう一度溜息をこぼして、はゆっくりと皿の中身を消化していった。
《ゆっくり寝てろ。次からはマシェルを襲うなよ》
 が食べ終わったのを確認して、ナータは盆を持ちそう言った。部屋から出て行く後姿を見送って、は横になった。
 一人になって、考えるのはやはり一族のことと……これからのこと。
 人間によっては一人になった。一族はすべて死に絶え、ただ独りに……たった一人、生き残った。それは父の願いが成したこと。一族の中で唯一時空転移の術が使えた父が、自らの命と引き換えにをこの地へ送った。
 父が救ってくれた命を無下にすることはできない。だが……たった一人、いったい何をすべきなのか……
 何もわからぬ中、ナータとマシェルの存在が引っかかりつつ、はまた、深い眠りに落ちていった。



 ナータが見つけた白銀の獣。自分が司るものによく似た気配を持つソレは、鮮やかな青い瞳に深い深い悲しみを映し出していた。
 人間によって傷つけられたらしく、数日経った今もマシェルには気を許していないようだ。だが、それでも襲い掛かるようなことはなく、安心しかけていたある日のこと。
 白銀の獣のために割り当てられた部屋の入り口で、ナータは立ち尽くしていた。
 部屋には、つい先程まで使用していたと思われる毛布が無造作に転がっている他には何もない。――そう、いるはずの獣の姿がなかったのだ。
 窓がひとつ開け放たれているということは、そこから外へ出たと考えるのが妥当か。しかし、ここは二階。未だ癒えきらぬあの体でここから飛び降りたというのだろうか。
 じっと窓辺に意識を集中させてみれば……予想を裏付けるように、あの気配がそこから外へと続いていて。
 ナータは溜息をついて、部屋を後にした。


 木洩れ日の溢れる緑豊かな森を、は歩いていた。
 大分回復した体の調子を見るために外に出たのだが……経過は上々といったところか。二階から飛び降りた衝撃でも傷口は開かなかったし、体力的にも問題はなくなっている。
 完治は近い――か。
 目的地などあるはずもなく、ただ気の向くまま足を進めていたの目に、明るい光が飛び込んできた。
 そのまま進むと、目の前に大きな湖が姿を現して……
 は湖のほとりで腰を下ろした。
 鏡のように周囲の景色を映す湖の上を、涼しげな風が吹き過ぎていく。さわさわと木々が鳴り、小鳥のさえずりが心地よく耳を打つ――そんな穏やかな時間。
 故郷に、どこか似た風景。
 意識せず溜息が口をついて出て、は高く天を仰いだ。――と。
《……おい》
 背後からかかった声に、振り返る。
 予想に違わず、そこにはナータがいて。
《勝手に抜け出すな。マシェルが心配する》
「……おまえ、一にも二にもマシェルだな」
 苦情にも似た注意に呆れたように返してやれば、珍しくもナータは目を丸くした。
 は、ナータの顔に鼻先を近付けて笑った。
「『喋れたのか』とか思ってるだろう」
 図星らしく、ナータは不機嫌そうに睨んできて。は声を立てて笑った。
 それから、ふと表情を曇らせ湖面に視線を移す。
「喋れるさ。そのせいで、我らは人間に狩られるハメになったのだからな……」
 二人の間を、風が吹き過ぎていく。
 目を閉じて、さわさわと鳴る葉ずれの音に耳を澄ませていたが、それが止んだのを合図に天を仰いだ。
「人間は、自分たちにない力を持つモノに対して恐れを抱くからな……かつて、共に笑いあっていた時のことも全て記憶の奥底に封じて、災厄が降りかかるたびに我々がそれを起こしたのだと決め付けて……そして、とうとう我らの里に火をつけた……」
 下へと目を向けると、いつも通り無表情に近い不機嫌顔のナータが見えた。は自嘲気味に笑って続ける。
「皆殺しだ。病人も幼子もなく、な。私ただ一人が生き残った」
 まだ然して日は経っていない……いや、例え何年経とうとも忘れられるはずもない。
 一面の赤。
 炎の赤、血の赤。嘲笑う人間、倒れ行く同胞。
 母の死に顔と――父の……最期の、笑顔を……
「父が、命をかけて私を守ってくれたから……私だけ…………人間が、私から全てを奪った」
 固く目を閉ざし、歯を噛み締める。
 言葉にすれば、それだけ実感が湧いてくる。
 両親にも友にも、もう二度と会えはしない……自分一人だけ――孤独という名の痛みが、心を苛んだ。
《……だが、おまえは人間を恨んではいないだろう?》
 それまで黙っての話を聞いていたナータが言ったそれは、彼女の心に響いた。
 は目を開き睨むようにナータを凝視した後、おもむろに視線を空へと投げた。
 ナータが言ったことは、彼女自身自覚があった。孤独と喪失に対する深い悲しみと虚無感にも似た想いはあれど、人間に対する憎しみの情は一向に湧いてこない。
 ――だが。
「恨んでいないのと許しているのとは違う。まして……信じることなど――」
 空を見つめていたは、目を瞠った。
 口からこぼれた言葉が、自分で信じられなくて……
 恨んではいないが、許してもいない。それは事実だ。許していない存在(モノ)を信じられるわけがない。――否。信じようとさえ思うはずがないのに……何故、と。
 ふっ、と……脳裏をよぎったのはマシェルの姿。ほんの少し前まで自分を傷付けようとしていたモノに、邪気のない笑顔を向けたもの。天真爛漫という言葉が、まさにぴったりと合うような――人間。

 ――ああ、そうか……

 は目を細めて青空を見た。
 隠れていたものが、明かりの下に晒されたような……欠けていたものが、再びはまったような、そんな感覚。わかってしまえば、なんて簡単なのだろう。
 許せないのは信じていたから。恨めないのは、それでも信じたいと思っているから……
 そう、信じたいのだ。かつてあった、あの暖かな日々が偽りではないと……人間との間にあった信頼関係が幻想ではないと――信じたい。
 そして、壊れてしまったものでも、もう一度修復できるのだと……
 ふっとこぼれる自嘲。
 我ながら、なんて諦めが悪いのだろう。
 見限ってしまえば、もっと楽になれるだろうに……それでもまだ、自ら苦境を選ぼうとしている自分が笑える。
《信じられないならそれでも良いって、言わなかったか?》
 急に黙り込んで百面相をしていたであろうに、何を思ったのかナータはそう言った。
 視線を落とせば、普段と変わらぬナータの姿。
 真っ直ぐ自分を見つめる漆黒の瞳に映るのは混沌ではない。多くの輝きを宿すそれは、優しい夜の闇。
《信じられなくても、ただ共に在ればいい。同じ時を過ごす内に、信頼は培われていく。違うか?》
 癒しをもたらす静寂(しじま)。
 絶望を知る故の、希望を映す心の鏡……
「……それは、このままあの家にいろ、ということか?」
 信じられないなら、信じられる環境にいればいい。恨むことができていないなら、まだ希望はある、と。
 ナータの瞳はそう言っているようで。
《おまえがそうしたいならすればいい。決めるのはおまえだ》
 の想いを肯定するように告げられた言葉。
 二人の間に沈黙が訪れる。
 両者共に何も言わず互いを見つめている。相手の心内を見定めるかのように……
 どれだけそうしていたのか。不意に風が吹き過ぎていった。その風に乗ってきた人間の気配に、二人は同じように振り返った。
 こちらへ向かって歩いてくるひとつの人影。確認するまでもなく、それはマシェルで。
「あっ、いたいた! 良かった~。窓から飛び降りたって聞いて心配したけど、大丈夫みたいだね」
 傍らまで来てを見、心底安堵を浮かべるマシェル。
 その、裏表のない態度に自然と笑みが浮かんで。
「……そう、だな……それもいいかもしれないな」
 ナータを見て独白のように言った。
 の言葉を聞いてか、それとも笑みを見てか。ナータも笑みを返してきて、それに後押しされるようにマシェルへと向き直る。
「マシェルといったな。助けてくれたこと、まずは礼を言う」
「えっ、あ、いや、当然のことしただけだし」
 おそらくはが言葉を話せたことに対して驚いていたのだろうマシェルは、急に言われた礼にかなりどもって言葉を紡いだ。
 多少の照れも混ざった驚愕に、けれど負の感情は一切含まれていなくて。
 は言葉を続けた。
「誠に厚かましいとは思うが、このまましばらく世話になりたいのだが良いだろうか」
「……ほへ?」
「ダメか?」
「あ、ダメじゃないよ。部屋は余ってるし……でも、君は……」
《マシェル》
 何かを言いかけたマシェルの言葉を遮り、ナータが呼びかけた。それに答えて視線を向ける彼に、ナータはただ一度だけ頷いて見せた。
 何を言ったわけでもない。
 ただそれだけで何かを悟ったらしいマシェルの瞳は、一瞬悲しみや淋しさに揺れて。
 そして、に笑顔を向けた。
「僕は竜術士マシェル。これからよろしくね」
 目線の高さを合わせて名乗った後、握手を求めるように差し出された右手に、一度だけは頭を摺り寄せた。
「私は妖狐族のだ。よろしく頼む」
 それは歩み寄るための証。敵意のない仕草。
 もう一度、人間に賭けてみよう、と。
 決して小さくはない希望が、マシェルには見える気がして。
 はもう一度、確かな希望を持ってマシェルを見上げ――訝しげに目を細めた。
「……何だ?」
「『ヨーコ』族って……?」
「妖かしの狐一族という意味だ」
 疑問符を頭の上に飾っていたマシェル。彼の口から発せられた問いで得心はいったものの、代わりにそこはかとなく嫌な予感が胸に湧いてきて。

「犬じゃなかったの!?」
「私は狐だ!!」

 案の定。
 心底驚いて叫んだマシェルに全力で突っ込んだ。



 孤独の中で見つけた希望の光。
 やわらかな風に抱かれて、未来へと想いを寄せる。
 ――ほんの少し、早まったかもという後悔と共に。

END