2003年12月20日。
スペースランド行きのバスが麻薬常習犯にジャックされた瞬間、居眠りを装って最後部座席のど真ん中にいたは、悲鳴で目が覚めた振りをし、銃口を避けるようにしてさり気なく左側に身を寄せた。
左側の座席にいるのは日系の若い男。すぐ前の座席には高校生のカップルらしき少年少女。突然のバスジャックに恐怖で震える乗客の中、震えていないのはと隣の男と、そして前の少年だけ。
一切怯えた様子を見せない少年が、タイミングを見計らって動く。あらかじめ用意しておいたのだろう紙切れを、後部座席にいる男に見せる目的で隣の少女へと差し出した。
まあ綺麗な字ですこと、と。一瞬だけ見えた紙片に対して内心で悪態をつくの隣で、男は目を瞠る。
「危険だ、やめろ。その時は私がやる」
少年の意図に気付くわけもない男は、少年に対して声を掛けていた。
一般人を犯罪被害から守ろうとするのは、警察関係者としては正しい。けれど、尾行を命じられた相手をもう少し疑うべきではないだろうか。そんなんだから、警察は役に立たないと思われると言うのに。
そんなことを思いながら、は小声で交わされる男と少年の会話を聞く。
「あの犯人の共犯ではないという証拠はありますか?」
少年の言葉に、チラッと盗み見た男の顔は見事に驚愕に染まっていた。……いや、いくら警察関係者の自分が犯罪者に疑われたからって、それで冷静さを欠いてちゃ駄目だろう、FBI。
から見れば、少年は頭が切れるというよりテレビドラマの観すぎ、推理小説の読みすぎで架空と現実をごちゃ混ぜにしている中二病もいいところだ。本当に頭が切れるのであれば、麻薬常習者には衝動的な犯行はできても、知能犯には決してなれないことがわかるはずだ。……まあ、この少年の場合は自分を尾行する者の素性を知るという目的しか見えていないのが大きな要因だろうが、自信過剰なところは変わらない。
そして、その辺のことに全く気付かず馬鹿正直に身分証を出す男も男だ。絶対、下っ端だなこの男。出世しないタイプだ。
心の中だけで盛大な溜息をついたは、彼の身分証が前の座席へと差し出される前に手で制した。驚いて視線を向けてくる彼へ、人差し指を唇に当てて言葉を発しないように注意した後、身分証を持つ手を押し戻し、首を小さく横へ振ることで見せてはいけないことを伝える。戸惑いを見せて男を鋭く睨みつければ、気圧されたようにひとつ頷いて身分証を元通りにしまった。
まだ彼は戸惑った表情のまま何も理解できていないだろうが、ひとまずこれでFBI死亡フラグは回避できただろう。残りは、少年を煙に巻くだけ。
「どうしました? 何か不都合でも?」
焦れたように問い掛けてくる少年の首筋に、は真後ろから手を添えた。ビクッ、と。小さく跳ねた少年の体に、満足げには笑みをはいて。
「共犯を疑うなら、君たちより先にここにいた私のほうじゃないの?」
「っ」
唇を耳元に寄せてそっと囁けば、少年が息を呑むのが手から伝わる。手の平に隠すようにして小さなナイフをひたりと当ててやれば、面白いくらいに緊張していくのがわかり、思わず笑い声をこぼす。
すると、それをきっかけにしたように少年が口を開いた。
「あ、あなたが、共犯である可能性は低い……それは、僕たちが乗る前から犯人が現れるまでずっと居眠りをしていて、中の様子を窺うことは一切していなかったからです」
「眠った振りをしておけば気付かれずに様子を探れるし、無関係を装っておけば最後に人質を演じて共にここから逃走できるでしょう?」
「それは共犯であることをバラした時点で失敗している。それに何より、共犯であるのなら、僕たちの会話をあの犯人に知らせないのはおかしい。だから、あなたは共犯ではない」
始めは緊張で少し震えていた声も徐々に冷静ないつものものに戻った。このあたりの大胆さというか神経の図太さは、流石はキラなんてものをやっているだけはあるといったところか。
それでもから見れば、充分に未熟者だ。
「その原理からいくと、彼に身分を証明させる必要もないって気付いているのかしらね、坊や?」
指摘に対して体は素直に反応してしまうのだから。
「彼が共犯であった場合、君を止めるはずがない。つまり君の愚行を止めに入った時点で彼はシロということ。そのくらいは、考えられる頭を持っているかしら、素人くん?」
「……あなたが人質を装って逃走すると言ったように、二人で逃走するための演技という可能性はあります」
「それを言ったら、全員が容疑者よ。君も含めて、ね。こんな下らない問答をいつまで続けるつもり? 状況を正しく理解できてる? 命を握られている状況でそれだけのことが言える度胸は褒めてあげるけど、挑発するような言動は命を縮めるだけよ」
声音に残忍さを滲ませながら、首筋に当てていた手を――ナイフを喉元へと移動させる。少年が避けられるギリギリまで身を引いた、その時。
「おい一番後ろの女! 何してやがる!?」
犯人がようやくこちらの動きに気付いてくれた。遅すぎる。やはり麻薬常習者な素人はこんなものか。お陰で余計な舌戦に発展するところだった。
ずかずかと足音荒く近付いてくる犯人からは見えないように、一度ナイフを袖口に戻して開いた両手を軽く上げて無抵抗を示しておく。けれど口許は笑みを刻んだままで。
「さて、何でしょうね?」
「てめえ! 妙なマネしやがったらぶっ殺すぞ!!」
くすくすと笑いながらはぐらかしたのが気に入らないのか、真っ直ぐに銃口を向けてくる。だが何も手にしていないのを確認しただけで、脅し文句以外に何かをする気配はないあたり、やはり素人だ。
「妙な真似って……」
反論と思われる言葉に対しても眉根を寄せて訝しむだけ。は、くすっ、と笑う。
「こうかしら!?」
言うと同時に手を振り、袖口から再び出したナイフを投げる。大した距離でもない。ナイフは狙い通りに銃のハンマー部分に突き刺さった。
「うわっ!? てめ――」
慌ててトリガーを引いても、ナイフに阻まれてハンマーは動かず発砲することはない。それ以前に、が犯人の手から銃を蹴り飛ばすほうが早かった。
「がっ!?」
銃を蹴り飛ばした足を戻す方向を変え踵落としを首にお見舞いすれば、犯人はあっさり昏倒する。なんとも呆気ないものだ。
犯人が完全に動かなくなったのを確認し、ふぅ、と息を吐いて。
「運転手さーん。犯人確保したんで、適当な所でバス停めて警察に連絡お願いしまーす」
「わ、わかった!」
普段の口調に戻して言うと、ミラーで確認した運転手から安堵の色が滲む了承が返る。それに感化されたのか、あまりの早業にただ呆然としていた乗客たちも、一人、また一人と緊張を解いていき、車内にざわめきが戻って来た。
それらに一切構うことなく、は自分の体のあちこちをぱたぱたと手で叩いてポケットの中を探っていたが、やっと硬い感触に当たってそれを取り出した。
「お、丁度いいもの発見♪」
出てきたのは、黒い手錠。バトルマニアな仲間の物ではあるが、これには紋章もついていないし、一般人にとっては玩具でしかないから残していっても問題はないだろう。
丁度よくうつ伏せでのびている犯人の手首に、後ろ手にして手錠をかけた。足は自由なままだが後ろ手で拘束されている以上、起き上がるのにも苦労するはずだ。とりあえずはこれで危険はないだろう。
「あとは拳銃~、と……どこ飛んだかな~?」
大体の目星をつけて視線を巡らせ、空いている座席の下に目的の物を見つけて歩み寄る。減速する車内でもバランスを崩すことなく歩き、ハンカチで包んで自分の指紋がつかないよう拾い、ナイフを抜いて回収してから、ハンマーを戻して安全な状態にした上でそれを運転手の下へと持っていく。
バスが停車したのを見計らって、は運転手に話しかけた。
「はい、これ証拠品。警察に渡してね」
「あ、ああ……」
「じゃ、私はこれで」
ごくりと生唾を飲み込む運転手の手の上に銃を載せ、運賃をきちんと払ってから下車してのんびりと歩き出した。
「うわああ!? 化け物ぉっ!?」
然して間もなく、バスから犯人の叫びが聞こえて振り返った。
一気に騒がしくなったバスからドタドタとあちこちに何かがぶつかるような音の後、後ろ手に拘束されたままの犯人が飛び出してきた。恐怖に染まった蒼い顔をこちらに向けた犯人は、の存在で更に表情を引きつらせると、周囲を見ることもなく車道に飛び出して――
はちらっと腕時計を確認する。11時45分に丁度なったところだ。犯人は、車に轢かれて死亡した。
バスや事故を起こしてしまった車の運転手が犯人のもとへ駆け寄る様子を僅かに眺め、すぐに踵を返した。
犯人に同情はしないし、警察に関わるわけにもいかない。だから、無関係な通行人を装ってのんびりと目的地へ向けて足を進め始めた――と。
「待ってください!!」
パシッ、と。声と共に手首を掴まれ、足を止めて振り返る。
そこには先程の車内で前の座席にいた少年――夜神月が真っ直ぐにを見て立っていた。
あらかじめテストを繰り返し、デスノートの力を実証していたライトは、今日も全て計算通りにいくと信じて疑ってなどいなかった。少なくともバスが乗っ取られ、自分を尾行していた男が話しかけてきたところまでは順調だった。
なのに、たった一人の少女によって、計画に狂いが出てしまった。犯人自体はデスノートに記した時間に書いた通り事故死したが、物理的に不可能となってしまった発砲はせずに終わった。そして、バスジャックを利用して知ることができたはずの尾行者の素性も結局わからずじまいとなってしまったのだ。
今回の尾行では、ライトは単なる優等生にしか見えていないはずだ。それは男が止めに入ったことからもわかる。キラとして疑っていたのなら、止めたりせずに証拠を掴むため傍観しただろうから。
だから、今すぐにLの目が自分に向くということはないだろう。しかし、こちらがLを追い詰める手をひとつ逃してしまったのは事実。
予定が崩され、次の手を考えなければならない状況だというのに……しかし、ライトの意識は、計画を狂わせた少女に向けられた。
犯人の死に様を見ておきながら、のんびりとした足取りで立ち去ろうとする少女。
ライトは連れのことも忘れ、咄嗟に駆け出して少女の手首を掴むと同時に声をかけ、少女を引き止めていたのだった。
振り返った少女は特に驚いた様子もなく、じっとライトを見上げてきた。
むしろ驚いていたのはライトのほうだった。ほとんどが計算によって動くライトにとって、衝動的な行動というものは理解するのに時間を要する。
すぐに次の言葉が出てこなかったライトの代わりに、少女のほうが口を開いてくれた。
「……ああ、さっき前の座席にいた子? ごめんねー、犯人の注意を引くためとはいえ、怖い思いさせちゃってー」
へらっと笑う姿は、どこにでもいるちょっと頭の悪そうな普通の少女だ。これが素なのか演技なのかは判断できないが、馬鹿ではないことはバスの中で証明されている。
正面に向き合って立ってみるとライトのほうが背はかなり高い。化粧気はなくカジュアルな服装で、どう見ても休日の学生のようだ。
しかし、先程から一貫してライトを子供扱いしていることから見て、年上なのは間違いないだろう。それも、一般的な社会人などではないことは、銃を持った犯罪者を取り押さえた鮮やかな手際からも明らかだ。
少女の言葉をきっかけに相手を観察することで頭の回転が戻ってきたライトは、少女を注意深く見つめたまま不自然のない内容を瞬時に弾き出して答える。
「いえ。あなたを見て、自分の考えがどれほど甘く、高慢だったかがわかりました。僕ではあそこまで見事に犯人を取り押さえることはできなかったでしょう。下手をすると撃たれていた。止めてくださってありがとうございました」
止めたのは隣に座っていた男であって、自分ではない――と。そういった内容の返答が返ってくることをライトは予想していた。だから、そこからどう会話を誘導していけば素性を探りだせるのかを計算し始めていたのに。
予想に反して、少女はふと視線を逸らして。
「……そうね……命は、ひとつしかないから……」
ぽつり、と。小さく呟いただけだった。
どこか遠くを見つめる陰りのある表情と、実感の籠った重みのある呟き。一瞬だけ思考が停止してしまったライトだったが、すぐにそれらが自分よりも多くの経験を積んできている証だと判断する。
ひとつの確信を抱いたライトは、自分に注意を向けさせるために掴んだままの手に少しだけ力を加えて、問い掛けた。
「あの動き……素人ではありませよね? ひょっとして、あなたは警察か……それに近い、何か特殊部隊のようなものに所属しているのではありませんか?」
再び少女がこちらへ向いた時、もうその顔には先程の陰はどこにもなくなっていた。それどころか、あれは見間違いだったのではないかと思うほどに、楽しげにカラカラと笑った。
「ざーんねん、はずれ~♪」
ライトは僅かに目を細める。
「ああ、もし本当に特殊部隊に所属しているなら、それを明かしてはいけないという規則もあるかもしれませんよね。不躾な質問をしてしまって、すみません。ですが、きちんとした訓練を受けているのは間違いありませんよね?」
「あんなの護身術護身術♪」
「それすらも教えていただけないとは、残念です。どう見ても護身術のレベルではなかったし、銃の扱いにも慣れていらっしゃったのは確かだと思うのですけど」
「君は人の話を聞かない子ねぇ……」
あからさまにはぐらかそうとしている人間が何を言うか。
諦める気配など微塵もなく言葉を投げ続けることで笑顔を消して溜息をついた少女へ、ライトは内心で悪態をつく。だが表面上は人好きのするさわやかな笑顔を浮かべたままで。
大抵の人間はこの笑顔でコロッと騙されてくれるものだが……しかし少女は、まるで内心の悪態すら見抜いているようにスッと目を細めてライトを真っ直ぐに見つめてきて。
「視野も狭く、考えも浅薄。自分を中心にしてしか物事を考えられず欲望に忠実なお子様そのものよ、君は」
遠慮の欠片もなくズバリと言い放つ姿は、人の上に立つことに慣れた者が持つ威厳すら醸し出しているかのよう。
しかしライトは、その雰囲気に呑まれるほど小心者でもなければ、指摘に対して感情的に反論するほど幼稚でもない。笑みを崩すことなく、真っ直ぐに少女を見返して。
「ご指摘の通り、僕は未熟者です。ですから是非とも、ご口授くださいませんか?」
ぐっと手に力を加えると、とうとう少女の顔がしかめられた。ほんの僅かなその反応だけで、ライトの中に優越感が生まれる。それが男が持って生まれた支配欲の表われだとはライト自身が自覚することはなかったが、この瞬間に何かが芽生えたこのは確かだった。
ライトですらまだ自覚していないその小さな変化に少女が気付くはずもなく、ただ深く深く溜息をこぼす。
「聞く気のない人間に何を言っても時間の無駄でしょ」
「教えを請うている者に対して聞く気がないとは心外です」
「じゃあこの手を放してちょうだい。痛いのよ」
「すみません。つい興奮してしまって……」
少女の指摘に、今気付いたと言わんばかりに謝っておく。だが、離す気など毛頭ない。
ライトのその反応に、少女は渋面になって再び溜息。
「って、力は弱めても放してはくれないわけね」
「すみません。放した途端にどこかへ行ってしまいそうなので」
「やっぱり聞く気なんてないじゃない」
「そんなことはありませんよ。それに、本心から嫌だと思っておられるのなら、振り解いて行かれますよね?」
「力ずくで振り解いた時点で、君の中では私は一般人じゃないと決定する気でしょう? そうやって君は、自分の求める答え以外は例え真実だとしても受け入れる気がないんだって、さっきから言ってることすら理解してくれないじゃない。にも拘らず、誘導尋問を気取って、本っ当に性質の悪いお子様だこと」
もはや目を合わせることすらせず、少女は愚痴のように呟くだけ。本気で答える気はなさそうだとわかるが、ライトに諦める気持ちは一向に湧いてはこない。
さて、次はどう切り込んでいけば情報を引き出せるだろうか――と。そう考え始めた時のことだった。
「ライトはね、警察官を目指してるの。だから気になるんだと思うよ」
助け舟のようなことを言って割り込んできた第三者の声は、その存在をすっかり忘れ去っていた今日の連れにたまたま選ばれただけの同級生の少女ユリのもの。
いつから聞いていたのかすらわからず本気で驚いたライトは、それを表面に出さないようにするのに苦心し、何とか成功した。
少女のほうはといえば、ユリの言葉に導かれるように彼女へと顔を向けて――瞳を輝かせたように見えたのは気のせいだろうか。
怪訝に思うライトの前で、先程までの不満げな様子はどこへやら、少女はユリへとにっこり笑ってみせて。
「そうなんだー。でもごめんね~。役に立てることはないよー」
「えー、でもさっきのすごかったって私も思うよ。同い年くらいにしか見えないのに、すっごいカッコよかった」
「わー、ありがとー♪ でも、あなたもすっごいカワイイよ♪ この子とお似合いのカップルって感じ♪」
「きゃー、ありがとー!! 私ユリっていうの。あなたは?」
「私はだよー」
目の前で始まった、女子特有ともいえる笑顔での腹の探り合いにライトは僅かに気圧された。
その隙を突くように、少女はするりと拘束から抜け出し、ライトは瞬間しまったと思った。しかし少女はユリに近寄っただけで逃げる気配もなく会話を続け――そして、名乗った。
あまりにも自然にあっさりと名乗った少女に、ライトは一瞬目を瞠る。だがすぐに口許が緩むのを自覚した。
自分に対してはあれほど警戒し冷たくあしらっていたというのに、ユリに対してはあっさり名乗って見せた。その態度の差が気にならないわけではなかったが、それよりも今は少女の情報がどれだけ引き出されるかのほうが重要だった。
今日の連れがユリであったことに内心ほくそ笑みながら、ライトは二人の会話に耳を傾ける。
「ユリちゃんみたいなカワイイ子と知り合えて嬉しいなー♪」
「そんなー、私のほうこそさんみたいなカッコイイ人と知り合えてどっきどきよ」
「いやいや私そんないい者じゃないんだってホント。今だって仕事サボって逃走中だし」
「え~、そうなの? あ、だから警察来る前に退散しちゃったの?」
「そうそう、私、悪い人だからー」
「ほぉ? 一応悪いことをしている自覚はあったんですか」
少女たちの会話に割って入ってきた新たな声は、低い男のもの。それには全員が驚いた。
特にライトの驚きが一番大きかっただろう。だって、その人物の接近に全く気付いていなかったのだ。いくらすぐ横が車道で車が行き交っているとしても、何の気配も足音も感じられなかった。決して死角に立っているわけではないのに、声を聞くまで彼の姿を認識できなかったのだから。
ライトには、本当に文字通り、急に目の前に現れたようにしか思えなかった。
対する少女は悪戯が見つかった子供のように、ぎこちなく己の背後を振り返る。
「骸……」
少女が、呟く。それは人名にはとても思えない単語だったが、当たり前にそれを受け止めている様子から見てそれが現れた人物の名前なのだろう。
その人物は名前もそうだが髪型も独特で、そして何より右目が異常な青年だった。赤い右目は瞳孔の代わりに『六』の文字が映っており、人工的に作られた義眼であることは明らかだった。
その、青年の目が、真っ直ぐにライトを捉えた。
「っ」
ライトは、息を飲む。ぞわっと全身が寒気立ち、まるで本能が危機感を訴えているように思えた。死神であるリュークを初めて目の前にした時でさえ、こんなことはなかったというのに……果たしてこれはあの義眼の所為なのだろうか。
「珍しいね、骸が捜索に来るなんて」
少女に話しかけられたことで青年の視線が外され、全身を襲った嫌な感覚から解放されたライトは安堵の息をこぼした。
それと同時に青年もまた溜息をつき、呆れた様子で言葉を紡いだ。
「クロームに泣きつかれました。それより、何故日本にいるのですか、貴女」
「「 え? 」」
青年の口からこぼれた言葉に、ライトとユリの疑問を表す呟きが重なった。
何故日本にいるのかと聞くということは、本来この少女は日本にいるはずがないということになる。言葉の意味は理解できるが、それが現実として実感するには少々時を要した。
だが、この少女が真実どこかの特殊部隊に所属しているなら、確かにそれは日本より外国である確率のほうが高い、か。
再び少女に意識を向けた時、少女はあらぬ方向へと視線を投げ渇いた笑みを刻んで。
「あんな、執務室の天井に届くかってくらい堆く積み上げられた書類の山を前にしたら、軽く高飛びぐらいしたくなるわよ」
「サボりくらいで高飛びを軽くしないでいただきたいですね」
少女の言い分を、青年は至極尤もな反論で封じた。
ライトは思わずユリを顔を見合わせた。自分のことを仕事をサボる悪い人間だと言った少女の言葉は真実だったということだろうか。サボりくらいで国外逃亡とは……確かに良識のある社会人のすることではない。
そもそも、書類を天井近くまで積み上げてしまっては却って作業効率が悪いと思うのだが……単に表現が大袈裟なだけか。真実だとしたら、そんなに書類を溜め込んだ少女自身に非はあるということになる。
視線を戻した先では、少女がむくれた顔をしていた。
「急を要するものは終わらせてきたもん。今日一日くらい遊んだっていいじゃない」
……どっちがお子様だ、と。ライトは思った。
青年と話す少女は、その外見よりも言動が幼くなっている気がする。こちらを先に見ていたなら年下だと疑いようもないだろうが、先程までのことがあるため完全に少女の年齢が予測不能になってしまった。
ライトの困惑など知る由もない青年は目を細めて問う。
「……で、その決裁済みの書類はどこに隠してきたんです?」
「教えないもーん。そのくらい探せないようじゃダメダメだからねー」
「貴女がどういう風に部下を教育しようと僕にはどうでもいいことですが、今現在それにクロームが巻き込まれていることをお忘れなく」
あくまで冷静な青年の淡々とした言葉で、少女はあからさまにハッとした、次の瞬間。
「ぎゃーっ!! ごめんクローム!! 書類のある場所教えるからダミーの書類置いて、本物は隼人たちに内緒で片しちゃってーっ!!」
まるでこの場にその相手がいるかのように叫んだ。
青年は片耳を指で塞いでそれをやり過ごしたあと、深く嘆息する。
「相変わらず貴女は女性に甘いですね」
「可愛い女の子は見てるだけで癒されるじゃない!!」
なるほど、それが自分とユリとで対応が違った理由か、と。ライトは理解した。……理解はしても納得はできていないが。
釈然としないのはライトだけではないらしく、青年もまた微妙な何とも形容し難い表情をして、やがて諦めの溜息をこぼす。そして取り合わぬが吉とでも言うかのように、話を戻した。
「で、書類の在り処はどこです?」
「本部の骸の部屋のバスルーム」
「……なんて所に隠してきてるんですか」
「骸、しばらく本部に戻ってこないからいいじゃない。有効活用有効活用」
「そういうのは有効活用とは言いません。そして本部に戻れないような仕事ばかり僕に回してきているのは貴女です。まったく……」
悪びれた様子など微塵もなくサラリと言い放つ少女に、青年が呆れ返る。事実を愚痴のように呟きながら携帯電話を操作し始めた青年の隙を突くが如く、少女の体がじりじりと青年から離れ始めた。
二人の会話から情報を整理していたライトは、その少女の動きに反応が僅かに遅れた。
だがライトが動くまでもなく、少女がくるりと青年に背を向けた瞬間、青年が片手で少女の頭を鷲掴みにして逃走を阻止したのだった。
「どこへ行く気ですか?」
「仕事終わってんだから今日は一日遊ぶのー!!」
「だから、どこへ行く気かと聞いているのです」
「へ?」
頭を掴まれたまま、それでも前へ進もうと踏ん張る少女の姿は、その実力を目の当たりにしたばかりのライトの目には遊んでいるようにしか見えない。特に怒るでもなく今までと同じ調子で静かに問い掛ける青年の声も、それを助長した。
パタン、と。携帯電話を折り畳んで仕舞うと同時に少女の頭を解放して、青年は言った。
「見つけてしまった以上、守護者としては貴女を単独で行動させるわけにはいかないのですよ」
……守護者? 聞きなれない単語にライトは眉根を寄せた。言葉の意味と全体の流れから推測するなら、少女の護衛――といったところだろうか。
青年を振り返った少女は、どこか期待に満ちた顔をしていて。
「……付き合ってくれるの、骸?」
「そう言っているのを早く理解してください。時間は無限にあるわけではないのですから」
「わーい! ありがとー骸ー! 大好きー!」
すぐに連れ戻されると思っていたのだろう。予想外の青年の言葉に少女は両手を上げて全身で喜びを表しているが、それはまるっきり子供そのものだ。
だからだろう。異性からの大好き発言であるにも拘らず、青年はしれっとしたもので。
「おだてても滞在時間は延長しませんよ。今日の最終便で戻りますからね」
「えー!?」
「僕の記憶が正しければ、明日の昼は会食、夜にはパーティーに出席しなければならないのでは?」
「それが嫌で抜け出してきたのー」
「おや? いいんですか? 明日の貴女の護衛にはクロームが就くそうですよ。クロームのドレス姿が見たいと、以前言っていませんでしたか?」
「今日の最終便で戻るー!!」
「是非そうしてください」
駄々をこねる少女を、実に見事に丸め込んでしまった。
……というか、どれだけ同性に弱いんだこの少女は。よもや、おかしな性癖持ちではあるまいが……己が平凡な外見だからこその一種の憧れのようなものだろうか。
「で、今日の予定は?」
「スペースランドで限定スイーツを買ってから突撃となりの晩ごはん!!」
「……イタリア育ちの僕にもわかるネタでお願いします」
「ネタだってわかれば充分でしょ!?」
説明する気はないよ!? と断る少女の言葉が正しく理解できなかったのは、ライトも青年も同じだった。
青年は、もう何度目かわからない溜息をついて。
「とりあえず、スペースランドですね」
「あ、あの! 僕たちもスペースランドに行く予定だったんです。よかったら一緒に行きませんか?」
了承を含む確認の意味で出された言葉に、ライトはひとつの提案をした。
青年との会話で少女の情報をいくらかは得ることが出来たが、却って増えてしまった謎もある。このまま別れてしまえば、恐らく二度と会う機会は得られないだろう。情報を引き出せるチャンスは今しかないのに、それを逃す気は毛頭なかったから。
デートの装いでの外出に第三者が加わるなど、大多数の女は嫌がるだろう。――だが。
「それいい! 私ももっとさんとお話ししたーい!」
ライトの真意を知らぬはずのユリが即座に賛成したのは、思わぬ誤算だった。
「私もユリちゃんと、もうちょっと一緒にいたーい! 目の保養ー!」
そして、少女もまた即座に同意を返し、ライトは内心ほくそ笑む。
今まででわかったことは、少女は確かに社会人であり部下を持つ立場にあること、普段は外国で暮らしていること、そして会食やパーティーに出席しなければならないような社会的に高い地位にあることだ。
それが具体的にはどんなものなのか……女性に甘いという少女の弱点を突いて、どのように聞き出そうか、と。
「あはっ、やっぱりさん面白ーい♪ じゃあ、行きましょうか」
「うん、レッツゴー♪」
手を繋いで歩き出す少女たちの後ろをゆったりとついていきながら、ライトは何通りもの作戦を考え出していたのだった。
「偏食引き籠り名探偵くん、ご機嫌いかが~?」
「っ!?」
耳元――それも吐息がかかるほどの至近距離で声を掛けられたLは、本気で驚いた。何の気配もしなかったのだ。いくらキラが犯罪者を操って残した暗号らしきものを考えることに没頭していたとはいえ、あってはならないこと……ましてセキュリティー万全のこの部屋にワタリ以外の人間が入って来るなど、由々しき事態。
床に座り込んでいたLは反射的に動いた。転げるようにしてその場から離れると同時に体を反転、体勢を立て直しながら背後にいた声の主へと目を向けた。
いたのは、一組の男女。
「あははっ、驚いた驚いた♪」
「普通、驚くと思いますよ。悪趣味ですね」
「協力しちゃう骸も充分悪趣味だと思うけど?」
「他人の不幸は蜜の味と言うではありませんか」
「うわっ、本当に悪趣味ー」
敵意などあるはずもなくのほほんと会話する少女と青年の姿を認め、Lは一気に脱力した。彼らなら入って来れて当然だと納得すると同時に、本当に悪趣味だと内心で同意する。
長く息を吐き出して気持ちを切り替えてから、Lは改めて来訪者に向き合う。
「お久し振りです、さん」
「久し振りね、エル。はい、お土産。スペースランドの限定スイーツ」
「ありがとうございます」
ケーキか何かが入っているだろう箱を受け取り、そのままひたりとへ目を据える。
これが普通の来客であるならばすぐに土産に手をつけるところだが、相手がこの少女の場合は生憎と後回しにせざるを得ない。何故なら、彼女が現れる時はLにとって重要な何かをもたらしてくれるからだ。
……まあ、ただ単に遊びに来るだけの時もないわけではないのだが、護衛付きで来ているのだから、今回は無意味な訪問ではないだろう。
来訪目的を問うLの視線に気付いたは、子供っぽさが前面に出ていた表情を改め本題を告げた。
「今日の昼、バスジャックがあったことは知ってる?」
「……一応、頭には入っていますが……」
「そこでね、FBI捜査官に会ったよ」
「!?」
「名前はレイ・ペンバー。身分証を見せようとしてたから一応止めておいたけどね」
まさかの情報提供に目を剥くL。今現在、日本の、それも関東にいるFBIは、Lが要請した者に間違いはない。重要な何かをもたらしてくれるとは思っていたが……この少女は、本当にこちらの必要とする情報を得るのが上手い。
「見せようとしていた相手は夜神月。バスジャック犯の共犯じゃない証拠は? とか言われてあっさり身分証出しちゃうFBIもどうかと思うけど……あれ、エルの手の者でしょ? そして夜神月がキラ、と」
そして状況把握能力の高さにも驚かされる。流石はこの若さで巨大組織を動かしているだけのことはあるといったところか。
だが、その立場故にカマをかけて相手から情報を引き出すことも得意なため、Lは素直に認めずに判断に至った理由を問う。
「……何故そう思うのかお聞かせ願いたいのですが」
「バスジャック犯、私がのしておいたんだけどねー。いくら手加減したとはいえ一般人がそうそう目覚めるような倒し方はしなかったのに、割とあっさり意識を取り戻してバスから飛び出して事故死したの。状況的に自分から死にに行ったようにしか見えなかったし、FBIがエルの手の者で捜査してたなら夜神月が容疑者ってことでしょ? キラが死の前の行動を操れるってことを考えれば、バスジャックを利用して自分を尾行する者の素性を知ろうとしたってとこじゃない? まあ、私が居合わせた所為で予定は狂ったんだろうけど。その腹癒せか、私のことしつこく聞いてきたしねー」
「接触したんですか!?」
「夜神月とその連れユリちゃんと一緒にスペースランドで遊んできましたー♪」
ころころ笑ってさらりと爆弾発言を投下され、Lはがっくりと肩を落とす。
カマかけではないことは判明したが、情報を得るのが早すぎる。キラが死の前の行動を操れるなどということがわかったのは、つい先日。しかも警察関係者内で情報は留めておいたというのに……
だが、彼女の素性を知っているLには、却って納得もできてしまうから、もう仕方がないと諦めよう。
「つまり、キラは心臓麻痺以外でも殺人を行なえるということと、FBIの動向にこそ気を配っておけということですね?」
彼女の言いたいことをまとめて確認すると、は満足げにひとつ頷いた。
「そういうこと。今回は失敗したとはいえ、もしあそこでレイ・ペンバーがキラに身分証を見せていたとしたら……おそらく日本に入ったFBI全員が殺されていたでしょうね」
「……確かに、そうなるでしょう……ありがとうございます、彼らの命を守ってくださって」
「運が良かったってだけよ。もー、面倒くさい。夜神月始末していいなら即消すのにー」
照れ隠しのつもりか物騒なことを呟くに、Lは思わず眉根を寄せた。本気の言葉じゃないのはわかるが、それが実行可能なのを知っているからだ。
「それはやめてください。彼を殺したとしても殺害方法がわからないままでは、第二、第三のキラが現れかねません」
「わかってますー。だから情報提供してるんでしょー。早く証拠挙げて捕まえちゃってよー」
「はい」
言葉でもしっかり釘を刺せば、子供のように頬を膨らませ唇を尖らす。
出会った頃から変わらないその姿に、Lは無意識に笑みを浮かべていた。
「さんたちにとっては、天敵も同然ですからね、キラ」
だからこそ、依頼したわけでもないのに情報をタダで提供してくれるのだろう。
そう言葉にすると、子供っぽさは一瞬で鳴りを潜め大人の顔がに戻る。
「そうよ。マフィアにとって、正義の神を気取った無知なオコチャマは、目障りな天敵でしかないの。特に私は身内に甘い自覚があるからね。もし私の身内が嫌いに殺されたら、私はキラを許さない」
イタリア最大のマフィア、ボンゴレファミリーの十代目ボス……それが彼女の肩書き。そして彼女が言う身内とは、ボンゴレに属する全ての者と、彼女が仲間だと思う者たち。
巨大組織ともなれば情報管理も徹底しているもので、一度Lもボンゴレの情報を試しに探ってみたことはあるが辿り着くことはできなかった。
特にボンゴレは、マフィアとはいえ元が自警団という経緯を持つからか、今は完全に他の極悪マフィアを取り締まる立場にあることもあり、一般人に被害を出すことがほぼないため警察に目をつけられてもいない。
表社会で犯罪者として公表される心配がない以上、キラの標的にもならないとは思うが、情報など、どこからどう漏れるかわかったものではないのが現実だ。決して楽観はできない。
そして、いくらマフィア界の警察的な役割にあるとはいえ、やはりマフィアである以上、報復というものがあるのも事実。もしボンゴレに属する者からキラの犠牲者が出れば、間違いなく彼女は夜神月を手にかけるだろう。
既にその両手が血で染まっていることを知ってはいるが、それでも彼女の人殺しはさせたくないとLは思っていた。
だから。
「……はい。その前に、キラを捕まえます」
彼女が夜神月を手にかけなくて済むように、自分がキラを捕まえる。
そう決意を持って宣言すると、は笑った。
「うん。じゃあ、もうひとつ情報提供してあげる。レイ・ペンバーの婚約者も今日本にいるんだけど、美空ナオミっていう元FBI捜査官なの。あなたと繋がりがあるんでしょ? 協力してもらったら?」
「~~っ、だから、その情報は一体どうやって入手してくるんですか、あなた!?」
「ナ・イ・ショ♪」
まさかの情報提供、再び。
仕方がないと諦めてみても、やはり謎を解きたくなるのが探偵の性。
明らかにこちらの様子を楽しんでいる少女に、いつか絶対情報源を掴んでやる、と。Lは密かに心に誓ったのだった。