タチの悪い冗談だ――と。
は思った。
鬼を自称する男が、ここが地獄だと……比喩ではなく、本当に死後の世界だと告げたときに。
攘夷戦争の最中、天人連中に囲まれた戦陣で味方すら巻き込む天人の砲撃を受けたはずだったのに。気がつけば暗い室内に一人残されていて。拘束されているわけでもなく、刀も取り上げられてはおらず、そのうえ傷の手当までされていて。暗くてよく見えない室内も、ベッドに机、本棚に床にまで積まれた本や小物らしきものもあるのはわかり、どう考えても牢ではないのは明らかで。
混乱していたときに現れたのが、額に角を持ち尖った耳をした和装の男。動物頭が多数を占める天人の中にも人間と大差ない姿をしたものもいるのは知ってはいるが、それでも文化の違いから服装はまるで違うというのに、和装。間者を気取っているつもりならあまりにもお粗末な有様に、天人連中の妙な実験施設にでも捕らえられたのではと疑ったほど、男の言葉に信憑性は皆無だった。
――が。己が唯一信頼する愛刀が男の言葉を保証するような発言をしては、信じざるをえないというもの。
鬼と呼ばれ、人どころか天人からすら恐れられた己が、本物の鬼の暮らす地に迷い込んだなど、皮肉もいいところだとしか思えないが……二度と帰れないと聞いても、むしろそれをどこか喜んでいる己を発見したくらいで。
いろいろと考えるのは後回しにし、ひとまず体の求めるまま食事を優先させることにした次第だ。
「胃に影響のない傷とはいえ、その大怪我でよく食べましたねぇ」
空にした土鍋の中に、使用した茶碗と散蓮華を置いていると、鬼灯とか名乗った鬼の妙に感心した呟きが降ってきた。
チラッ、と。目を向ければ、椅子に座り横の机に頬杖を突いてこちらを悠然と見下ろす鬼と目が合う。――が、はスッと視線を横にずらして。
「オメェのその丼のサイズに比べりゃ普通じゃねェか」
机の上に鎮座する丼鉢を半眼で眺めて、言い返した。
既に使用済みとなっているその丼鉢の中身は、目の前にいる鬼の胃袋の中だ。窓も時計もないので時間がわからないのだが、丁度食事時なのか、がおかわりしてすぐ、この鬼も自分の食事を始めたのだ。
ただ、そのサイズが異常だった。
用にと用意された粥は、小ぶりの土鍋に入っていた。先程鬼が言ったように重傷者には多めだろうが、おそらくは一・二人前程度と、まあ通常サイズだろう。
大して鬼が手にした丼鉢は、その土鍋より明らかに大きいのだ。ラーメン丼並みか、それ以上はありそうだ。形状は飯物の丼鉢なので、麺物よりも容量は確実に上だ。
「なんだ『XL』って……」
丼鉢の側面に書かれた文字を声に出せば、鬼もそれを一瞥する。
「ああ、一口に鬼といっても、大人になっても体が小さいままの小鬼から、人間の何倍もある体格の鬼まで、様々な種類がいるんですよ。鬼ではありませんが、閻魔大王もトトロ並みに巨漢ですしね」
冷徹のくせに、どこか抜けているのか、大食漢の自覚がないのか、あってわざとズレた答えを口にしているのか……基本が無表情か仏頂面らしく、狙いが読みにくくて困る、この鬼。
「器が種族に対応してんのと、オメェの体格と器のサイズが合ってねェのとは、別の話だろーがよ」
「そうですか?」
あえて、はっきりと指摘すると、目を瞬いて首を傾げた。無自覚が正解らしい。
にしても……凶相といえる面構えで、あどけないと表現すべき仕草をされるとは、何とも珍妙なモノを見た気分だ。見た目どおりの、腹に一物ある策士というだけではないのか……
「まあ、食べられるときに食べられるだけ食べるようにはしていますが」
「そりゃオレも同じだが……」
腹というキーワードで鬼の腹部を見るも、特別膨れているようにも見えない。
筋肉質であるのは、袖口から覗く腕を見ただけでもわかる。結構がっちりした体型のはずだが、着痩せするタイプらしく、印象としてはスレンダーだ。
ラーメン丼以上の丼鉢に入った飯物を、より先にペロリと平らげたというのに……あの飯は一体どこに消えたというのか。
鬼という種族自体がこうなのか、それともこの男自身の特性なのか。知れば知るほど謎が増える気がしてならない。
――まさか、肥えさせて食うために拾ったわけじゃあるまいな……
脳裏をよぎった懸念に、嘆息をこぼす。
「腹が減ってるときにんまい飯が出てくりゃ、食えるだけ食うもんじゃねーの?」
死ぬ気はさらさらないのだ。怪我をしたのなら、なおのこと。食べられるときに食べられるだけ食べて体力をつけなければ、治るものも治らない。
いくら妖刀が相棒とはいえ、やはり自力で動ける状態でなければ、身を守ることなど満足にできやしないのだから。
別に、大食い且つ早食いのこの鬼に対抗して無理をしたわけではない。
「そうですか。美味しかったんですか」
土鍋を回収しながら呟かれた鬼の言葉に、の目が細められる。
「なんだよ。妙な含み感じっぞ」
「いえ別に。包帯を替えますので、ベッドに座っていただけますか」
明確な否定をするわけでもない、曖昧な答え。それ自体が何かあると言ってるようなものだ。
気にならないわけではないが、傷の具合を確かめておきたいのも事実。とはいえ、追及を後回しにして言うとおりにするのも鬼の思うツボな感じがして妙に癪に障るし、おまけに動けばまた激痛に襲われるのは必至で。
深々と溜息を吐き出すことで複雑な気持ちを抑え込み、覚悟を決める。そして、刀とベッドを支えにして慎重に床から腰を上げて――ピタリと動きを止め、眉根を寄せた。
違和感……否、正体は明らかなれど理由がわからないという異常事態への困惑というほうが正しい。
「どうしました」
全く疑問など感じていないと告げる、平坦な声音の形式的な問いかけ。これまで以上に明確な観察するような眼差しと視線がかち合い、確信する。
「何食わせやがった」
「お粥ですが?」
「その粥に何入れやがった」
「何かおかしなことでも?」
どこまでもしらを切る鬼。おそらくは望む答えをこちらが口にするまで続ける気だろう。
やはりこの鬼、油断ならない。ひとつの仕掛けに二重三重の罠を仕込むほどには策士だ。
気づいたところでもはや手遅れなのが非常に癪だが、看破するにはあまりにも情報が少なすぎたのは紛れもない事実であり、情報を引き出すために策を弄するにはリスクが高すぎると判断せざるをえない現状なのは覆しようもなく。
再度、盛大な溜息をついて、は答えた。
「痛みが消えてやがる。鎮痛剤でも入れたのか?」
先程、ただ構えを執っただけで激痛が襲い、体勢を維持することさえ維持で為しえたことであり、それ以上は動けなくなってしまったというのに。
今は、それらが幻だったのかと疑うほど、痛みの『い』の字すらなく動けたのだ。
だが、幻などではないことは、痛みはなくとも心臓が移動したのかと思うほどに脈を感じる横腹が明確に告げていて。
鎮痛剤だとしても、痛みだけが急激に消えるというのも妙な話。少なくともの持つ知識ではありえない事態。
故に、半信半疑で問いかけたのだが。
「薬は入れていません」
「じゃあ何を入れたんだって聞いてんだ」
「別に何も。ただ、使用した水が、天国にあるつかるだけで傷が治ると言われている温泉水だというだけです。なので、傷を確認させてください」
原材料自体が特殊なだけだとかいう、言い訳じみた回答が来る始末。
己も使う手ではあるが……やられる側に回ると腹が立つものだ。それを解消する方法すら今はないことを恨めしく思いつつ、そうなっている現状を正しく把握するためにも止めていた動きを再開し、ベッドに腰を下ろした。……嘆息つきで。
最初に手当てした際に緩めたのだろう帯紐をさらに緩めて前をはだけると、何故か鬼が一瞬顔をしかめて溜息をついた。それから何事もなかったかのように包帯をほどき始める。
金棒を軽々と扱うだけあってごつい手が、意外にも器用に包帯を巻き取っていく。白い包帯の下にあった赤黒く染まったガーゼと脱脂綿を外すと、傷口が露わになった。
風穴空いているとか言った割りには、そう大きな傷にも思えないが……貫通しているという点では間違った表現でもないのだろう。これが元からなのか、それとも温泉水という名の万能薬ぶっ込み粥の効果なのかは、己の知るところではない。
それを唯一知っているであろう鬼は――
「……ふむ……」
前と背、両面から傷口を見、軽く指先で周囲を押したかと思うと、ガーゼだけ新しくし、今ほどいたばかりの包帯を少しきつめに巻き直し始めた。
「痛みが消えて動きに支障がないようでしたら、そちらにある浴室の湯につかってきてください」
「あ?」
「件の温泉水の残りを張ってありますので」
示された方向には、確かに鬼が入ってきたのとは別にもうひとつ扉があった。
温泉水の驚異的な効果を今まさに体験した身では、指示された意図は明確であり、逆らう理由などない――
「ただ、あまりにも出血するようでしたら、すぐに上がってください」
「んぁ? 治る保証はねェってことか?」
「『傷が治る』のは事実ですが、どの程度の傷がどれくらいの時間で治るのかは不明ですね。そもそも天国において大怪我をすること自体ありませんし、亡者は基本、再生しますので。外傷はつかればいいなら、内傷や病なら摂取すれば効果があるのではないかと思ってお粥にしてみたのですが……なるほど、鎮痛効果として出ましたか」
「実験動物かオレは」
――と思ったのは、甘かったらしい。
やはり、策士で、鬼だ。無表情のくせに目だけが子供のように興味津々に輝いていて、親切に見せかけたその裏に秘める鬼畜さを表している。
盛大な溜息をこぼし、は腰を上げた。やはり痛みはない。確認し、風呂があるという扉のほうへと足を向けた。
「ああ、貴方のお名前は?」
その背に向けられた、今更な問い。
一瞬だけ足を止め、肩越しに一瞥して、名乗る。
「……。坂田だ」
「金太郎――坂田金時さんの血縁ですか?」
「んなワケあるか。つか仮にそうだとしても、親の顔も知らねェオレにゃあ、知りようもねーよ」
続いたからかっているとしか思えない質問は適当にあしらって、扉を閉めた。
扉の向こうからこちら側へと意識を向けた途端、視界の端に人影を認識して勢いよくそちらを見た。――が、それは正面にある洗面台の鏡に映った己で。
扉にもたれて、思わずため息をこぼして……気づく。『細雪』を置いてきてしまったからこその過剰反応だと。
怪我のせいか、相当判断力が鈍っているらしい。
鏡の中の情けない面をした己から目を逸らし、室内を見渡す。本当にただの生活空間だ。風呂場には、鬼が言っていたように半分ほど湯の張られた湯舟があった。持ってきてどれだけ経っているのか既にぬるま湯だったが、水でないだけマシだろう。
ふ、と。口元に浮かんだ自嘲ごと置き去りにするかの如く、脱衣所を兼用する洗面所に衣服を脱ぎ捨て、湯舟に身を沈めた。そして桶で湯をすくって頭から浴びる。勢いよく流れ落ちる湯の感触に一息つけた心地がして――嘆息がこぼれた。
湯につかることを心地よく思ってしまうほど、いつから己は人の生活に馴染んでしまっていたのだろう。十年も人としての生活の中に身を置けば、そうなるものなのか。
人としての生活など、今のこの湯舟の中と同じぬるま湯のようなものだ。ぬるま湯の中に心地好さを感じてしまえば外の寒さを忘れてしまうように、生き残るために必要な感覚を鈍らせることになる、と。あれほど警戒していたはずなのに。
気づかぬまま毒された結果が、この現状。
盛大な嘆息をついたは、頭を振って水けを飛ばした。そうすることで後悔も振り払い、現状へと頭を切り替える。
嘆いても現状は何も変わらない。勘が鈍ったというのなら、再び研ぎ澄ませればいいだけのこと。そのための相手として、あの鬼はちょうどいい。
――そう……実験動物扱いする気なら、好きにすればいい。メリットがあるうちは、こちらもそれを利用してやるだけだ。
長く息を吐き出したは、静かに目を閉じた。
『天人』という言葉で、鬼灯はある本の存在を思い出した。自分の趣味ではないジャンルだったのですっかり忘れいていたそれは、現世に視察に行った際に同僚となった人間から餞別だと渡されたもの。
久しく放置していたそれを探し出し、パラパラと目を通して、ひとつの推測を組み立てたときのこと。カタカタと鳴る物音に気づいて顔を上げれば、ベッドに置かれた妖刀が震えていて、鬼灯は眉間にしわを刻んだ。
坂田と名乗った綿飴頭の女は、この妖刀は自分を守る相棒だと言っていた。その妖刀の異変……考えられることは、ひとつしかない。
足早に浴室へ向かい、ノックもせずに戸を開け放つ。
そこには、女が湯舟でぐったりとしている案の定な光景が出来上がっていて。
「バカですか、この人」
呆れ返った呟きをこぼしつつ、鬼灯は急いで女の体を真っ赤に染まった湯舟から引き上げた。止血としてきつめに巻いておいた包帯をほどけば、やはり大して塞がっていない傷口が露わになる。
手早く全身の水気を拭き取り、傷口に薬を塗って新たな包帯を巻く。寝間着代わりの浴衣をまとわせ、用意しておいた造血剤を女の口に放り込んで、口移しで水ごと胃に流し込んだ。
本当は輸血できれば手っ取り早いのだが、血液型がわからないうえ、ここは地獄だ。人間の、それも生者の治療が正しくできる保証はない。多少時間がかかっても薬で治すほうが安全なのだ。
うっかりで死にかけるような馬鹿だとしても、未練はない、生き抜くと宣言したのが単なる強がりではなく本気だったのなら、意地でも生きようとするだろう。そも妖刀が死なせない気がする。……それを知っていて油断に繋がったのだとしたら、やはり馬鹿としか言いようがない。
深々と溜息をこぼし、鬼灯は女を抱え上げると、ベッドに横たわらせた。
戻ってきた時には例の座り姿勢で眠っているだろうが、少しでも横になる時間があったほうが傷のためには良いだろうと判断してのことだ。
懐中時計を確認すれば、もう昼休みも終わる時間だった。
持ってきた食器類を持ち、午後の予定を頭の中で組み直しながら、鬼灯は自室を後にした。
――からだが、おもい……
それは、首を絞めるようにして、大きな影がのしかかっているせいだ。
影にしか見えないのは、逆光のせいであり、満足に息ができないせいでもある。
声が、降る。
『コレか? 戦場に出るっていう白い小鬼ってのは』
『ただのガキじゃねえか』
『だが、まあ、退治すりゃ金がもらえんだ。ひと稼ぎにゃちょうどいいさ』
『じゃ、首だけ持ってっか。恨むなら、自分の見た目を恨めよ、ガキ』
白刃が反射させた陽光が、目の奥に灼きつく。
――しにたく、ない……
光に向けて、震える手を伸ばす。
かすむ視界に、ふたつの白刃が輝いていた。
そのうちのひとつが、伸ばした手に吸いつくようにおさまって。小さな手には大きなそれを懸命に握り締める。すると、腕を引かれるような感覚がして、真上の影へと突き出していた。
『が……っ!?』
呻き声に少し遅れて降ってきたもうひとつの白刃が、頬をかすめて地面に刺さった。腕を引くと、生温かい液体が降りかかってきて、ひどく気持ち悪かった。
『なっ!? てめえ!?』
だが気にしている余裕はない。
大きく息を吸って足りない酸素を体に取り込むと同時、もうひとつの影に向かい、握ったモノの導くままに、力を限りにして横に薙ぎ払った。
――ガキィンッ。
耳をつんざく金属音と手に伝わるしびれに、はハッとした。
夕暮れの焼け野原の光景はなく、大きなふたつの影もどこにもいない。
薄暗い本棚に囲まれた室内に、逆手に持った金棒を縦に構えて己の白刃を止めている一本角の鬼がいるだけだ。
焦った様子は微塵もなく、実に涼しいまでの無表情の鬼の顔。
「……なんだ、オメェか……」
現状を思い出し、は息を吐いた。
「ッ」
途端にぐらりと視界が回って――咄嗟に刀を支えにすることで転倒を防ぐも、平衡感覚が戻る兆しはなく、吐き気にまで襲われる始末。
どうすることもできずに、ただこらえる。
不意に、俯いていた顔を上向かされたうえ、食いしばっていた歯を指でこじ開けられて、何か固形物が口内に押し込まれた。そして唇を塞がれたと思ったら、ぬるい液体が流れ込んできて。
抵抗する余力もないは、それらをただ飲み下した。
ややあって、強烈な眩暈と吐き気は引き波のように治まって。
「……例の温泉水か、今の」
安堵の息を吐いて、ようやく戻った思考力で現状把握を試みる。
思った以上に、本当にすぐ目の前に立っていた鬼は、相変わらずの無表情でこちらを見下ろしていて。
「それと、造血剤です。貧血なのでしょう?」
「貧血? これが?」
未体験のことを指摘されても、わかるわけがない。まして、現状把握もできていない今、心当たりすらないのだ。問い返すのは当然のこと。
だというのに、鬼は呆れ返った様子で盛大な溜息を吐き出した。
「貴方、バカですね」
「あ゛?」
「だから言ったではありませんか、流血がすぎるならすぐ出るようにと。血を流しすぎて意識を失うまで自分の状態を把握すらできないなんて、本当に生き残る気があるんですか。あるなら貴方の妖刀に感謝しておきなさい」
正論すぎてぐうの音も出ない嫌味の最後の言葉で、は支えにしたままの愛刀に目を向ける。意志どころか、自覚すらない潜在意識のようなものさえも読んで勝手に鞘に納まっているそれは、シーツに深く食い込んでいた。
ベッドの上に座り込んでいるという現状……ようやく合点がいって、嘆息がこぼれた。
「……貴方が横たわって寝ない理由は、必ず悪夢にうなされるから――ですか」
まるでこちらの思考を読んだかのように、頭上から降ってきた鬼の言葉は単なる確認でしかなかった。
「だったら何だってんだ」
だからというわけでもないが素直に認め、握り締めたままの手を柄から離して刀を傍らに置きつつ楽な姿勢に座り直した。
……トラウマなのか何なのか知る由もないが、横になって眠ると必ずあの夢を見る。それは、『細雪』と出会った時の記憶そのものだ。普段も別に忘れているわけではないのだが、夢は当時の感覚を鮮明に再現するから――先程のように『細雪』を抜き放った状態で目覚め、そして、その後は寝つけなくなるのだ。
「それで座って眠れるようになったというのは、器用なことだなと思っただけです」
……この鬼、鬼だからなのか、着眼点がおかしい。そしてまたもこちらの思考を読んだようなタイミングと内容。おそらく、偶然などではない。それは鬼に心を読む能力があるということではなく、己の表情に現れてしまっていただけなのだろう。
は表情に意識を向け、あえてずれたことを言ってみる。
「場所とらなくていーだろ」
「近づくたびに無意識に斬りかかってくるという点では、場所はとっていると思いますが」
「別に助けろなんて頼んじゃいねェよ。面倒なら放り出せばいいだけだろ」
「面倒とは言っていません。むしろ面白いので、今のところ放り出す気はありませんね」
「……オメェ、ドM?」
「ドSとはよく言われますが、Sに興じた覚えはありません」
「それ真性ってことじゃねェの?」
単にこちらに乗っただけなのか、真意の全く読み取れない鉄壁の無表情で返される鬼の答えに、だんだんと力が抜けてくる。
ドSは打たれ弱いと聞いたことはあるが、コイツは打たれ強そうだな――とか考えてしまうくらいには流されていることを自覚し、嘆息する。
不意に、鬼が踵を返した。
「昼と同じお粥を用意しておきましたので、食べられるようなら食べてください。こちらは造血剤ですが、先程飲ませましたので結構です。この水差しの中身は例の温泉水ですので、お好きにどうぞ。私はまだ残業がありますので」
机の上にあるものを示して説明すると、そのまま振り返りもせず出て行ってしまった。
室内に一人残されて、しばし。盛大な溜息とともに一気に緊張が解けた。
――なんだこの拍子抜け感……実験動物扱いする気じゃなかったのか。それとも、置いてった粥にまた別の何かが仕込まれているのか。
疑うことさえ億劫になるほどの脱力感に、は再度溜息を吐き出すことによって気持ちを切り替えた。
温泉水の効果で平常に感覚に戻った今、空腹感はある。血が足りないというのなら、なおのこと食べておくべきだろう。メリットがあるうちは利用してやるとも決めたのだ、警戒ばかりしていてもどうにもならない。
慎重に床に足を下して立ち上がる。痛みも眩暈も起きはしなかった。
本当に驚異的な効果だが、これがいつまでもつのかというのは己も気になるところ。しばらく起きて、確かめてみるのもいいかもしれない。
数歩で事足りる机に歩み寄り、電気スタンドの明かりに照らされた机上を見下ろす。盆に載った土鍋や水差し以外にも物が多いが、散らかってはいない。
半ば盆に押しやられるようにして端に積み上げられた本が、ひと山。その一番上に一冊だけサイズの小さなものがあり、目が留まる。白髪天然パーマの軽薄そうな男のジャンプ姿らしきものが描かれている表紙に引かれ、手を伸ばした。
「……ぎん、たま……?」
パラッとめくってみると、中は漫画だった。
飄々というよりは、ちゃらんぽらんな天然パーマ男の破天荒な生き様と、それに惹かれた若者たちとの物語らしいそれ。
読み進めていくうちに、の眉間にしわが寄った。
「アイツ……まさか、この男とオレを同一視してやがんのか?」
髪色も髪質も同じようなものだし、名前もどことなく似通ってはいる。あの鬼を『天人』と呼んだことも事実ではあるが、瞳の色も性別も違えば妖刀だって憑いてはいない……何より漫画、つまり誰かが考え出した想像上のキャラクターと現実の人間を同一視するなど、かなりイタイ奴ということではないか。
「マジで何なんだよ、あの鬼……ワケわかんねェ……」
漫画本を元の位置に放り投げて、は椅子にどかりと腰を下ろした。
知らず、大きなため息がこぼれ出る。土鍋のふたを開け、茶碗は使わず、直接土鍋から散蓮華ですくって食べて、再度の溜息。
「実験動物扱いじゃないなら、珍獣観察か、オモチャ扱いってトコかァ?」
どれもがそのとおりであり、けれどすべてが違う気もする。本心も狙いも全く読めないのは、己の不調のせいというより、向こうの無表情の鉄壁さが原因な気がしてならない。
言葉どおりに受け取るなら、己の何かをあの鬼は気に入って、面白がっているということ。それ自体も癪に障るというのに、何がそう判断させているのかわからない以上、何をしても喜ばせるだけになりそうな八方塞がり感がさらに腹立たしさを増す。
お礼参りはたっぷりしてやらなきゃ腹の虫がおさまらない気になって。
――けれど。ふっと浮かんだ自嘲が、それらを一瞬で鎮めた。
「……結局、どこ行っても半端モンってことか……」
人の中にあって鬼と呼ばれても、本物の鬼から見れば人でしかない。
どちらにも当てはまることのできない、はみ出し者――それが己という存在。
「ま、いいさァ……オレァ、オレだ。他人の評価なんぞクソ食らえだ」
たとえ師が人と認め侍であることを望んでくれていたとしても、己は自分を人とは思いたくないから。自分以外の何かを守るためになど、刀を振るえはしなかったから。
――鬼の住む世界は、己には似合いの場所だろう。
自嘲ではなく、心から笑いがこみあげてくるのを自覚し、は口元を緩ませた。
「今度は食事の途中で寝落ちですか。怪我のせいなのか、単に寝汚いだけなのか……本当に生き抜く気、あるんですかね、この人」
残業を終えて戻った深夜の自室。
呆れ返って呟く鬼灯の目の前には、椅子の上で立てた片膝を刀ごと抱えた姿勢で座り、すやすやと寝息を立てている女の姿がある。彼女が向き合う机上には、ふたが開いたままの土鍋。散蓮華が机上に転がっているあたり、寝る気もなく寝落ちしたことが窺えた。
まだ半分も中身の残る土鍋にふたをすべく近づいても、女はぴくりとも動かない。座って眠っている限りは、こちらの気配を無害なものとして覚えた、ということか。
その変化を面白く感じたのは、もはや過去のこと。今は少し残念に思う。
思ったところで仕方がない。また別の手を考えればいいだけだ。
その、別の手は既に用意してある。
新たな楽しみに期待しつつ、椅子で器用に眠る女の肩に着流しをかけた鬼灯は、ひとまず睡眠を確保すべくベッドに入った。
目が覚めてみると、肩に着流しがかけられていた。
温泉水の有効期間を確かめるために起きているつもりだったのに、いつの間に寝入ってしまったのか――といった疑問をはじめとするもろもろの思考も、広げて見下ろした着流しの存在によってどこかへ飛んでしまった。
白地をベースとし、袖口と裾にだけ波なのか渦なのかはたまた雲なのかよくわからない模様があしらわれたデザインには、思いっきり見覚えがあったからだ。
「……なんだコレ」
「貴方の着替えですが?」
口を突いて出た言葉は、質問ではなくただの独白。
あるはずのない答えがちょうど洗面所から出てきた鬼から返り、求めていない内容をしれっと告げるというその覚えのある言い回しに、は目をすがめた。
「コレ、このマンガのヤツじゃねーのか」
「はい。流石はプロです。同じようながらの反物を見つけたので注文したところ、僅か数時間で縫い上げてくれましたよ」
誤魔化す気すらないらしく、あっさり認めた鬼の目は、何やら期待に満ちて輝いている気がする。
その、明らかにこちらの反応を楽しみにしていると如実に語る――本当に、表情より雄弁に語る目のまま、さらにとばかりに大小ふたつの紙袋を差し出してきた。
何となく中身が予想できたは、受け取るなり紙袋をひっくり返してその中身を床にぶちまけた。
ばさばさどさっ――と。床に広がったのは、案の定。黒い洋装とショートブーツという、本気で己を漫画のキャラクターに仕立て上げたいらしいとわかる服飾品で。
その、中で。色味の異なる小さめの布地が目に留まり――は眉根を寄せた。
それは、下着だった。ボクサータイプのパンツは、まあいい。風呂に入る際、脱ぎ捨てたのを見た故のチョイスなのだろう。
問題は、スポーツタイプのブラジャーまで入っていたことだ。己は一度として身につけた覚えのない代物……明らかな女物の下着を、まさかこの鬼が――男、が、買ったのだろうか。
指先でつまみ上げ胡乱な目を向けていると、どこか呆れた声音で鬼が言った。
「着けなさい。女性なのですから」
「着けるほどのモノなんざねェだろ」
「なら、さらしくらい巻きなさい。女性であるという自覚はないのですか?」
「ねェが? 生きるか死ぬかの戦場で男だ女だなんざ気にしてられっか」
「死ぬか生きるかの状況はなくなったのですから、自覚を持ってはいかがです?」
大きなお世話としか言えないようなことをしきりに勧めてくる意図が、まるでわからない。よもや、こんな男か女かわからないような己相手に欲情するほど自制心のないゲテモノ好きではあるまいに。
……ああ、包帯を替えると時のあの溜息の理由がこれか――と。
ふと思い出したことは、いったんわきに置いといて。
「なくなったなんて断言できねェだろ」
「できますよ。亡者にとっては言葉どおりの『地獄』ですが、住民にとっては鬼だろうが妖怪だろうが平和ボケするほど長閑ですからね」
「なんだそりゃ。地獄だろ、ココ」
「『自業自得』『自己責任』が基本理念であることに変わりはありませんが、大昔と違い、地獄法が制定された今は、罪を犯せば鬼だろうと拷問を受けるとあって、みみっちい悪さをする輩しかいなくなりました。……本当に、みんな無難でいい子で……獄卒としてはブッ飛んだ人材がもっと欲しいんですが……」
先程までの輝きはどこへやら。まさに闇と表現するに相応しい目で愚痴のようなものを呟いた鬼は、溜息をひとつ。背を向けてベッドを回り込んでいく。
地獄は己に向いている場所だと思ったのは早とちりだったか、と。早くも後悔を抱き始めたの耳は、ザラザラという馴染みのない音を拾った。
「あと、これも買ってみました」
「あ゛?」
言葉と同時に鬼が持ち上げたのは、白い大きな丸っぽい物体。
ずいっと押しつけられたそれを反射的に受け取れば、ザラザラと中から音がした。何か小さな物がたくさん詰められた布製のそれは、やわらかく、ある程度自在に形を変えられるようだ。
「なんだコレ」
「ビーズクッションです。座ってしか寝ないのなら、貴方の寝床にちょうどいいかと思いまして」
「猫かオレは」
鬼らしさが垣間見えるものの、予想だにしない言動が次から次へと出てきて……腹の底がまるで見えてこない。
いい加減、面倒になってきたは、もう率直に聞くことにした。
「オメェ、オレを何だと思ってんだ?」
「第一印象は、出来損ないの綿飴に苺シロップをかけたようだと思いましたね。その後、近づいただけで無意識にも拘らず的確に急所を狙って斬りかかってくるのを見て、野良猫のようで、調教し甲斐がありそうだと」
「調教なんぞされてたまるか。真性ドSじゃねえかオメェ」
ビーズクッションとやらを投げつければ軽々と受け止め、流れ作業のようにベッドの上に放った。その直後の顔面にスポーツブラを叩きつけることには成功したものの、それすらも流れるように床の衣類の山へポイッと戻してきた鬼は、やはり読めない無表情。
喜怒哀楽の基準すらわからない不可解な存在、それが『鬼』ってものか――と。結論づけようとした、が。
「オメェの頭ん中どーなってんだオイ」
半ば愚痴のように呟いた問いに。
変わることのない無表情のまま、しかし真剣な目でまっすぐこちらを見て鬼が答えた。
「地獄をいかに私好みに厳しく、面白おかしく、動物王国化するかということを考えて日々仕事していますが?」
――あ、コイツの根っこ、ただのアホだ、と。
ようやく見えた本性に、警戒し続ける気力をごっそり奪われた気がしたは、深々と溜息を吐き出したのだった。