――濃厚な血の、臭い……
できることなら避けたいその場所へ命令でもないのに足を向けたのは、ただの気まぐれだった。
その気まぐれを起こさせたのは、以前に覚えたあるひとつの気配……
「……クソっ!」
吐き捨てるように毒づいて、氷月は近場の木にもたれかかる。
周囲に満ちている濃厚な血臭は、今し方倒した敵のもの。そして――己の腹部から流れ出ているものだ。
簡単な仕事のはずだった。暗殺ではなく、ただの警備。しかも表の忍たちが本来受け持つはずの仕事に穴ができたために、回ってきただけのものだったのだから。
それなのに――まさか、禁術を使えるような敵が現われるなんて……
「諜報の奴ら……何してやがんだ……っ」
情報収集を怠っていたつもりはない。最新の報告もすべてチェック済みだった。その中に――不穏なネタはなかった、のに……
諜報部隊の腕が落ちたか、それとも相手が上だったのか。若しくは――
氷月は長く息を吐き出した。口からこぼれる息が、熱い。傷は、塞がった。だが、体がおかしい。傷が傷だから熱が出るのはわかるが、これはそれだけではなさそうだ。
「毒、か……っ」
覚えのある嫌な感覚に再び毒づきたくなったが、押しとどめた。
――近づく、気配。
明らかに味方のものではないソレに、氷月は武器を構える。――と。
――シュタタタッ。
「……ッ」
飛んできたクナイを、紙一重でかわす。避けた先に迫ってきた刃を己のそれで防ぎ、相手の力を利用してその場を離れた。が、その先へと現われる敵の気配。完全に動きを読まれている。
なんとか致命傷を避けつつ動けるものの、傷は確実に増えていく。防戦一方では当然だろう。倒さなければならないのはわかっているのだが、体が上手く動いてくれないのだ。それに……動く度に体中に巡る毒が、思考力をも奪っていった。
そして。
――ザシュッ。
「ぐ……ッ」
肩に深々と刺さった刀が、氷月の体を木に釘付けにした。
一瞬の隙、動きが止まる瞬間。それが忍にとっての生死の境となる。
刀を抜く時間すら与えずに迫る、幾多の武器。こんな所で死ぬわけにはいかない、のに……もう、体が動かなかった。
それでも目を逸らすことなく、何とか鋼糸を繰ろうとした――刹那。
「……っ!?」
何か光る物が横一閃したかと思うと、敵は悲鳴を上げる間もなく炎に包まれた。崩れ落ちていく人であったモノたち。燃える炎の気配は眼前のもの以外にも増えていく。
次々と敵の気配が炎に変わるのを感じながら、氷月は肩に刺さった刀を抜いた。そして、敵を倒すその相手を確かめようとした――が。
限界、だった。
ぐらりと傾いだ体が浮遊感に包まれたのが、認識できた最後の感覚。
意識は、闇に沈んだ。
は、非常に困っていた。
何となくの気まぐれでやって来た現場で敵忍に追い詰められていた暗部総隊長。何となく目の前で死なれるのが嫌で助けてしまった彼。
意識を失った彼の姿は、黒髪の青年から金髪の少年に変わっていた。
敵の姿も消え、味方の気配が近付いて来ている今。普通ならただ立ち去るだけなのだけれど……姿を変えてしまった総隊長を人目に触れさせるのは、何となく好ましくないように思えて。
何となく彼を連れてその場から離れてしまったのだけれど……どうしたものか。
草むらに横たえた体は、10歳になるかどうかというような幼い子供のもの。面も外れ露になった顔も、年齢を如実に表している。
こんな小さな子供が、暗部の総隊長……それは、彼の実力を表していることなのだろうけれど、何かが引っかかる。
「……っ、う……ッ」
子供の口からこぼれた呻き声。
怪我のことを思い出し、肩を見た。かなりの深手だったはず――なのに、傷口は既に塞がっていた。
は何もしていない。彼も……自分で癒すだけの余裕はなかったはずだ。とするならば、これは彼自身の治癒能力に他ならない。
ただの人間ではありえないこと。先程感じた引っ掛かりが大きくなる。
こんな子供が暗部の総隊長でいられる理由――それは、己と同じような存在(モノ)だからではないだろうか。
守り神という名の殺戮人形に仕立て上げられた己と――
思い至った可能性は、少年への興味に変わる。
彼と話してみたくなり、は少年へと手を伸ばした。
「……ッ、、……?」
あまりに聞きなれた金属音が間近で聞こえ、氷月は意識を取り戻した。反射だけで音の元を掴み、霞む視界の中、何とか相手の名を導き出す。
特徴的な真紅の髪と翡翠の瞳を持つ女は、守り神と呼ばれるしかいない。
その、守り神が、己に刀を向けようとしていた。それは――敵と認識されたということ、か……? 否、守り神はただの殺戮人形だ。自ら敵味方の判別はできないはず。
どちらにしろ、現状は好ましくない。命の危機に変わりはないのだから。
けれど、刀を握るの左手を掴んだまま、それ以上動くことはできなかった。傷は塞がっていても、まだ毒が残っている。解毒までは、自力では無理だったから。
それでも、ただ殺されてやるつもりは毛頭ない。入るだけの力を掴む手に込めて睨みつける。――と、おもむろには空いている右手を刃に滑らせた。ほんの少しの動作で彼女の指先はぱっくりと切れ、血が溢れる。
何をするつもりなのか。その行動の意図が全く読めずにいる氷月に向けて、は唐突に切った指先を差し出した。
「な……っ、んぅ……っ!?」
身構えた一瞬の隙を突き、口の中に指をねじ込まれる。抵抗しようにもその力すらない氷月は、口内に広がっていく妙に甘く感じるその血液を飲んでしまった。
飲み下したとわかるや、引き抜かれた指。明らかに血を飲ませることを目的としていた行動だとわかり、氷月はから距離をとった。
血を飲ませることにどんな意味があるのかも、これ以上何されるのかもわからない相手。だから離れようと、咄嗟の判断だった――のだけれど。
驚いた。思った通りに体が動いて。あんなに体中を縛り付けていた重苦しさが、完全に消えていて……ただ、驚愕に目を見開いた。
に目を向ければ、刀を置いて始めの位置にただ座ってこちらを見ている。攻撃の意志は、ない気がする。
「まさか……俺を助けた、のか……?」
問い掛けに、は答えない。ただ目を細めて見つめてくるだけ。
……そうだ。確かに意識を失う前、誰かが敵忍を倒した。それが誰かまで見ることはできなかったが、今の解毒と併せて考えるならそれはだとするのが一番合う答えだろう。
だけど……それは、自身の意志なのか。それとも誰かの――三代目火影の命令、なのか。
そして、何より気になるのは――
「おまえ……一体『何』なんだ……?」
守り神と呼ばれる暗部。馬鹿みたいに強くて年をとらないからそう呼ばれているらしいが、それだけならまだ人間でも可能なことだ。
だが、血液がそのまま解毒剤になるモノなど、人間であるわけがなかった。しかも、その効果は圧倒的。あらゆる毒と薬に体を慣らした氷月にさえ、即効だったのだから。
人間ではない、守り神と呼ばれる存在――あまりに異質なそれは、どこか自分と似ている気がして……いつかの好奇心が、興味が強く湧いてきた。
「人間じゃ、ねえのか?」
「……君だって、普通じゃないでしょ」
好奇心の赴くまま問い掛けた疑問に返ってきた静かな答え。氷月は思わず目を瞠った。
初めて聞いたの声。はっきりとした物言い。それは彼女に意思があることの証。
やはり、人形の振りをしていただけだった。だが、その理由は――
「大人かと思ったら子供だったし、傷の治りも異常に早いし……普通じゃ、ないわよね」
問い掛けるより先に続いたの言葉で、氷月はハッとした。自分の体を見下ろし、本来の姿に戻っていること知る。……そうだった。傷と毒のために意識を失ったのだ。全チャクラを傷の回復に回されて変化の術が解けるのは当然なのに……そこまで頭が回らなかった。
大失態。だが、後の祭り。もとより相手が相手なので、他にバレることはないだろう。早々に腹を括ることにする。
「普通じゃねえのは認める。だからこそ、この年で暗部にいるんだしな。……おまえ、なんで俺を助けた? ジジイの命令か?」
「……気まぐれ。君の気配を感じて何となく足を運んだら殺されかけてたから。目の前で死なれるのが何となく嫌だったから敵らしき忍は倒したけど、そしたら子供の姿で倒れてて、味方の気配が近付いて来てたから放置してもよかったんだけど……姿の違う状態で人目に触れるのは何となく良くないんじゃないかと思って」
「なげーよ……」
無表情で淡々と語られる言葉は、その外見に似つかわしくないほど拙くて。思わず力が抜け、その場に両手をついて項垂れる。
「つまり、ジジイの命令じゃなく、おまえ自身の気まぐれの行動ってことだな」
「そう……放置したほうがよかった?」
「いや……おまえの判断は正しいよ……俺はまだ死ぬわけにはいかねえし、素性もバレたくないからな。悪い、今回はマジで助かった。ありがとな」
ようやく冷静になれたのか、子供っぽさに感化されたのか。氷月の口から素直な感謝の言葉が紡がれた。自分でも不思議に思いつつ、けれど嫌な感覚ではなくて、自然と浮かぶ笑みを向けたまま立ち上がる。
「なあ、おまえの名前は?」
「……」
「それ、本名じゃねえだろ。俺は暗部名が氷月で、本名はうずまきナルトってんだ。今のこの姿が本来の姿だ。おまえは?」
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「おまえに興味が湧いたから。守り神じゃなく、おまえ自身に――な」
純粋な好奇心。相手にとっては迷惑なことのほうが多いだろう、その答え。拒否されたならそれで退くつもりでいた氷月だったのだが……思わず、ぎょっとしてしまった。
「おい! なんで泣く!?」
終始無表情だったの顔に始めて表れた感情が、涙……理由の見当もつけられないそれに、慌てるなというほうが無理な注文だろう。
「泣くほど嫌なこと聞いたのか、俺!?」
俯いてしまった頭が、力なく左右に振られた。とりあえず嫌なわけではないらしい。では、何故泣くのか……
かける言葉も見つけられずにその場で固まる氷月。――と、不意にが口を開いて。
「…………」
「え……?」
「わたしの名前、」
ぽつり、と。名乗った。
ただの気まぐれだった。
行きたくない血臭の元へ向かったのも、やりたくない人殺しをし、人間ではない証拠を明かしてまで彼を助けたのも。
ただの気まぐれ……その、つもりだった。
けど、違う。本当は、違った。初めて会ったあの時から、興味を抱いていたのだ。でも――人形を演じることに慣れすぎて、自分の心すらわからなくなっていたから……気付けなかった。
今なら、わかる。彼に対して抱いていたのは興味と、ほんの僅かな希望。
守り神という名のオブラートに包み込んだ殺戮人形を求める者たちの中で、彼だけが真実を指摘したから……殺戮人形の存在を拒否する眼差しを、向けたから。
だから、話してみたくなった。彼なら、話をしてくれる気がしたから。人形ではない自分を見つけて、認めて――ほしかったから。
「、か……また会えるか? おまえともっと話してみたい」
「う、ん……っ、わたしも、君と、話し、したい……っ」
嬉しさで溢れてくる涙を拭って顔を上げると、彼は再び黒髪の青年の姿でそこにいた。
敵は倒したとはいえ、まだ夜半。報告も含め、仕事が残っているのだろう。傷も癒え解毒も済んだのなら戻らなければならないと、その姿が告げていた。
とても残念だけど、仕方がないこと。でも、大丈夫。
「じゃあ、またな。」
「うん……また、ね? ナルト」
これで終わりではないから。
確かに生まれた希望を握り締め、は氷月を見送った。