基 編

 その存在を気にするようになったのは、果たしていつからだっただろう――……



 昔ながらの商店街は、大手スーパーとは違って閉店時間が早い。季節によっては更に早まったりもするのが、慣れない者には困りもの。
 日に日に日照時間が長くなって来ているとはいえ、まだまだ日の短い季節。商店街に着いた時にはもう太陽は地平に沈み、闇の迫る空に赤く名残を残すだけとなっていた。
 予定では、もっと早くに来ているはずだった。日直ではあったが、それだけなら然程時間は取られないのだから。だが、何故か今日は次から次へと頼まれ事を向けられてしまったのだ。
 極力目立たないように努めている身としては断るいい口実も見つけられず、全てを終わらせて学校を出る頃には下校時刻ギリギリになってしまっていたのだった。
 ……まあ、粗探しとしか思えない厳しさを誇る風紀委員に目をつけられることもなかったし、予定通り買い物もできたのだからよしとしておこう。
 釣り銭を受け取り胸を撫で下ろしたは、見送る店主に会釈をして帰路についた。
 黄昏時を過ぎ、夜が迫る狭間の時間。次々とシャッターを下ろしていく青果店などとは反対に、明かりが灯っていくのは居酒屋。通りを行く人も、主婦や学生の姿はほとんどなく、仕事帰りのサラリーマンや夜遊びに向かう若者へと変わっていく。
 昼の顔から夜の顔へ。移り行く流れに半ば乗り遅れたの足は、その遅れを取り戻そうとでもいうのか、自然と速くなっていた。
 目に映る様々な光とそれによって生み出された影が、前から後ろへ、後ろから前へと忙しなく移動していく。その様がの心を急き立てて、より一層速く足を動かさせた。
 早く……早く帰りたい。
 脇目も振らずにほとんど小走り状態で商店街を抜けて大通りを渡ったは、住宅街に入ったところで足を止めた。
 目の前に広がるのは、すっかり夜に支配されてしまった住宅街。家々の明かりは塀や生垣に遮られてあまり届かず、街灯の光だけが点々と頼りなく続いている道路。
 人影もなく、たった一人暗やみに置き去りにされてしまったような感覚に、息を呑む。
 夜は危険が多いのは世間の常識。女子中学生が一人でいたら、おかしな連中に絡まれたりして面倒なことになる確率が高いのはわかりきっている。だから、午後6時以降は保護者の同伴なく外出しないよう、校則でも定められていた。
 今はまだ6時にはなっていない。けれど夜の足が速い季節柄、危険を伴う時間もまた早まっていると見て間違いはないだろう。そう思ったからこそ、早く商店街を抜け出したくて早足になっていたのだけれど……闇の中には、それ以上の危険がある。
 本能的な恐怖と、経験的な恐怖が、足を竦ませていた。
 このまま立ち尽くしていても、危険な状況は変わらない。安全な家に帰るためにはこの暗闇の道を行かなければならないのは、必然。大丈夫……まだ、見つかってはいない。
 呼吸を整えて落ち着かせ、更に自分自身に言い聞かせてから、暗闇へと踏み出した。
 一歩、一歩。暗闇の中を進み、僅かな光の下で影を作っては、また闇へ。無意識に周囲を警戒しながら進む足は、先程までとは逆に随分と遅くなっていた。
 研ぎ澄まされた神経に、永遠に続くかと錯覚を起こさせかけた光と闇のリフレイン。

「――ねえ」

 その終わりは、背後から唐突にかけられた声によってもたらされた。
「……っ」
 息を呑み、勢いよく振り返る。
 人の気配なんてなかったはずだし、現に今も感じない。けれど闇に目を凝らしてみると、確かに何か動く影が見えた。
 その影は十字路から出てきて、のいる街灯の下へと近づいてきた。徐々に輪郭が明らかになってくる。そして、闇から頼りない光の中へ――
 黒い革靴と黒のスラックス。真っ直ぐ下へ投げ出されている白い指先と、白いワイシャツ。肩に羽織られた黒い学ランの左袖には、『風紀』の文字を抱く緋色の腕章。そして意志の強い切れ長の眼に飾られた整った顔と癖の弱い漆黒の髪が、明かりの中に姿を現した。
 思いがけず現れた見知った顔に、目を瞠る。
「風紀……委員長……」
 並盛中学風紀委員長、雲雀恭弥。顔に似合わず入学早々、学校中の不良を片っ端から倒して回り、あっという間に不良たちの上に君臨した王者。と同じ一年生でありながら、彼を慕ってきた不良たちから成る風紀委員の頂点に座し、教師さえも従えているという、並盛中学の実質、支配者。
 彼の指示の下行なわれる風紀委員の活動は、唐突な服装検査や持ち物検査に始まり、それこそ重箱の隅を楊枝でほじくるような横暴さで、違反者には一切の例外もなく必ず罰則が科せられるほどの厳しさを誇っていた。
 その風紀委員長が今、目の前にいる。おそらく見回りでもしていたのだろうから、いること自体は不思議じゃない。ただ、声をかけられる理由がわからなかった。
 ……何か、校則違反をしただろうか。
「君……」
 ざり、と。アスファルトを踏みしめる音に、指先が反応する。思いがけない人物の登場で僅かに緩んでいた緊張が、再び体に走った。ピンッと神経が張り詰める。
 たった数歩の距離をゆっくりと詰めてくる彼から、目が離せない。
「登・下校時の買い食いは校則違反だよ」
 雲雀が告げた言葉で、無意識に後退さろうとしていた足が止まった。きっと少しでも下がれば、逃走行為と見做されてしまい、余計な罰則がつく。そもそも、違反はしていないのだし、言いがかりで罰は受けたくない。
 緊張で乾く口腔内を無理矢理湿らせ、口を開く。
「……何も……食べては、いないわ……」
 絞り出した声は、少し掠れてしまった。
 その声にか、それとも反論にか。雲雀は元々細い目を、より細めた。たったそれだけのことで、また指先が反応する。それを誤魔化すため強く鞄を握り締めた手へと、彼の視線が落ちて。
「その袋の中身は、食べ物だろう?」
 学校指定の鞄と共に持つ自作の買い物袋を指して問われた。
 確かにそれには食べ物が入っている。商店街で買ったものだ。けれど、食べ歩きができるようなものではないのは、一目瞭然。体と鞄の間になるように持っていた買い物袋を、彼に見えるように持ち替えた。
「ええ……でも、見ての通りお菓子ではないし、歩きながら食べられるものでもないもの……」
 縦長の袋口から顔を覗かせているのは、細長く重量のある食材。白い肌に一部青みがかり、短い葉がついたままの、90パーセントが水分という、秋から冬にかけて馴染みが深い野菜――大根だ。
 生のままでも食べられる食材ではあるが、だからといって一本丸かじりにする者は、まずいないだろう。
「もうひとつは?」
 薄い布製の袋では、重い物の形が浮き出てしまうもの。大根のほかにもうひとつ存在を主張している物を雲雀は訊いてくる。
 は雲雀から目を離すことなく片手を袋の中に入れて、取り出した物を彼に見せた。
「ツナ缶、だけど……」
 大根同様、食べ歩き不向きなそれを言葉でも示してから袋に戻した。本日の買い物は以上の二点のみ。他には何も入っていないのは、見た目でも音でも伝わっているはず。
 の考え通りその点は納得したのか、雲雀の視線が再びを捕らえる。
「夕食の材料?」
 止まっていた足が、動きを再開した。
「え、ええ……」
 更に縮まる距離に、必死で足をその場に踏み止まらせる。
「頼まれでもしたの?」
「……そんな、ところ……」
「ふぅん……」
 同じ高さにある黒曜石の瞳が、間近に迫る。
 今まで、遠目になら何度でもその姿を見ていたが、こうして間近に正面きって見るのは初めてだ。
 闇よりも尚深く、けれど鋭い光を宿す双眸に射抜かれ、息が詰まった。身長は変わらないのに、上から見下ろされているような圧倒的な存在感。けれど感じる気配がひどく希薄すぎて、そのギャップが恐怖を煽る。
 まるで、狩りのために身を潜めている肉食獣を目の前にしているような……
「……あっ!?」
 恐怖心によって思考と感覚が鈍ってしまったは、雲雀の動きを察知することができなかった。気がついたのは、胸元をかすめる感覚を認識してからだった。
、ね」
 ブレザーの内ポケットに入っていた生徒手帳が抜き取られ、雲雀の手で無遠慮にめくられていた。
 見られて困るようなものは何もないので、ムキになって取り戻すようなことはしない。……というより、気付けなかった自分がショックで、動くことができなかった。
 そんなになど一切構うことなく、雲雀はの生徒手帳に赤ペンで何かを書きこむ。
「寄り道も校則違反だよ。明日の放課後、中庭の掃除をしてもらうから」
 告げられた違反項目と、それに対して科せられた罰則。同じことが差し出された生徒手帳にも記されている。どうあっても違反にはなるらしい。聞きしに勝る傍若無人。
 けれど逆らう気になどなれるはずもなく。
「……了解」
 渋々受け取り、小さくそう返した。
 生徒手帳を元の位置に戻しても、まだ雲雀はそこにいた。もう用はないはずなのに、ふたつの黒曜石は未だにの姿を映しこんでいる。
 絡んだまま逸らされることのない視線に、じりじりと何かが這い上がってくる感覚が襲う。空気と共に少ない唾液を無意識に飲み込んで。
「あ、の……他に、何か……?」
 掠れた声で、問い掛けた。
 すると雲雀の目はスッと細められ、鋭くなる。残酷で残虐な色が見えた瞬間反応した右手を慌てて制して、より強く鞄の取っ手を握り締めることで耐えた。
 一方的な睨み合いの時は、果たして一瞬だったのか数分だったのか。
「……別に」
 不意に呟いて、雲雀がそっぽを向いたことで終わりを迎えた。
 突き刺さるような視線から解放され、ほんの僅かに息をつく。完全に緊張が取れないのは、未だ雲雀に動く気配がないから。
 早く……帰りたい。その思いがまた強くなり、は一歩、後退った。雲雀は――動かない。
 変化のない彼が気になったが、かといってこのまま留まりたくはない。帰りたいというその思いに押されて、踵を返した――刹那。
「……っ」
 首筋から背筋にかけて一気に粟立つ感覚。考えるまでもなく、体は自然に動いた。反射的に身をよじり、その場から飛び退る。耳をかすめるのは、何かが空を切る鋭い音。ザッ、と。アスファルトを滑るように着地したの目に飛び込んできたのは、トンファーを薙ぎ払った姿勢の雲雀の姿――
「へえ……」
 楽しげな声がに追いつき、体の支配権が意志の下へと戻ってくる。ほぼ同時に、心臓がうるさいぐらいに脈打ち、息が浅くなるのを自覚した。
 向けられた凄まじい殺気に対して、時間差をもって湧きあがってくる恐怖に膝が震えそうだった。
 一体何が起こったのか……その答えを知る相手を睨みつけると、雲雀は口許に笑みをはいて。
「思った通りだ。君、ただの女子生徒じゃないね」
 心底楽しげに向けられた言葉に、は蒼ざめる。
 ――バレ、た? 気付かれていた? 何故、どうして!? 目立たないように、平凡を装っていたはずなのに……!
 浮かんだ疑問は形にすることすら許されなかった。
「ねえ、君。僕の相手をしてくれるなら、掃除は免除してあげるけど?」
 恐ろしいことを言いながら、二本目のトンファーを取り出した雲雀が、こちらの答えも聞かずに仕掛けてきたから。
 今度は反射ではなく、自分の意志で避ける。荷物を脇へ抱えて跳び、空いた手で雲雀の肩を押して彼の背後へ着地。同時に屈んで、頭上をトンファーが過ぎていった一瞬後、倒立の要領で雲雀の顎目掛けて踵を蹴り上げた。
 かわされるのは計算の内。そのまま勢いを殺さず跳ね上がり、彼の肩を足場にして塀の上へと逃げた。そのまま全力疾走。
「お断りよっ!!」
 捨て台詞を吐き捨てて、本気で逃げた。


 元々深追いする気のなかった雲雀は、の姿が完全に見えなくなるとトンファーをしまった。彼女が去っていった方向を見たまま、口許を弓形に歪め、笑う。
 気付いたのはいつ頃だったか、もう覚えてはいない。他の草食動物に上手く紛れてはいたが、自分と同じ肉食獣の気配が時折にじみ出ていたのだ。
 よくよく観察してみれば、常に気を張って何かを警戒しているように、隙が全くなかった。何を警戒しているのかなど知ったことではないが、あれだけ隙がないのならそれなりの強さは持ち合わせているだろう、と。
 仕掛けてみれば、案の定。
 流石に多少の手は抜いていたとはいえ、普通の少女が避けれる速さではなかった。にも拘らず、あっさりかわして反撃の様相まで見せたのだ。
 それだけでも充分であるのに、どうやらまだ何か実力を隠していそうな気配……興味をそそられないわけがない。
「最近、暇だったからね……丁度いい暇潰しになりそうだよ」
 獲物を見つけた残虐な獣の笑みを見せ、雲雀は夜の街へと姿を消した。


 無事家に帰りついたは勢いよく扉を閉め、荒い呼吸のまま扉に背を預けてずるずるとその場にへたり込んでしまった。
 膝も、手も、震えだす。カタカタと震えだした体を、ぎゅっと抱きしめ、身を縮こませる。長い緊張から解放され、緩んだ神経は心の感じるままに涙をこぼさせた。
 こわ、い……こわい……怖い、怖い、怖い……っ。
 生きるために、自由でいるために、向けられた殺気に対して咄嗟に反応できるように鍛えてきた。そのお陰で今、こうして無事でいられるのは事実。それでも、怖いものは怖いのだ。
 殺気を向けられるのも怖いけれど、それ以上に怖いのは、自分の意志ではなく反射で使ってはならないモノを使ってしまうこと……
「……つよく、なりたい……っ」
 今日は、何とか抑えられた。けれど、次もそう上手くいくとは限らない。
 だから、強くなりたい。自分の意志で自分の体を制御できるように。
「もう、誰も……殺したくない……っ」
 血塗られた道に、立たなくても済むように。
 たった一人、何者にも束縛されず、自分の好きな道を行ける強さが欲しい。
 そう――彼……雲雀恭弥のような……
 憧れて、いた。彼のようになりたいと願い、気がつくといつも彼の姿を探していた。ずっと遠くから眺め続けていたけれど、その強さの理由はわからなかった。
 彼と戦ってみれば、その理由を見つけられるのだろうか――
 ふと思いついたことに、顔を上げた。震えの止まった手で生徒手帳を取り出す。その中にある朱書きの文字――
「明日……庭掃除……」
 違反の罰則は、風紀委員から終了印をもらわなければ、やったことにはならない。ひょっとしたら、明日もまた会えるかもしれない。
 それは、とてもリスクの高い賭けではあるけれど。
 もし、もう一度彼が仕掛けてきたのなら。
「……申し出、受けてみようかな……」
 理想の強さを手にするために、賭けを、してみよう。
 自分の両手をじっと見つめた後きつく握り締め、は真っ直ぐに顔を上げた。