絡 編

 ――どんなことをしてでも逃げ延びなさい。それが、おまえが自由に生きるための唯一の方法なのだから――


 東の夜空に、うっすらと朝の片鱗が見え始めた。地上はまだ暗く夜が支配していて、町は眠りの中にある。薄く開かれた窓からは、少しひんやりと感じる風がほんのりと甘い花の香りを室内に運び入れていた。
 窓辺に腰掛け、夜と朝が混じり合って行く様子を、はぼんやりと眺めていた。
「《……自由でいるために……逃げ続ける……》」
 思い出されるのは、の今の生き方を決めさせた父の最期の言葉。
 隠し事の一端は既に露見し、安全が保障される条件は崩れてしまった。次の場所へと移動するべきであるのは明確。何度も繰り返してきたことだから慣れているし、時期的にも怪しまれずに済む良い機会だった。
 それは、とても簡単で楽なこと……なのに、実行に移せずにいる。実行に移せないまま時間は過ぎていき、窓から入り込む風がタイムリミットが近いことを告げるまでになっていた。
 徐々に空に明るさが増していき、町にも目覚めの時が近づいていく。その先駆けのように小鳥のさえずりが響き始めた。
 はおもむろに立ち上がると、夜に代わって朝が支配権を握った町へふらりと出て行った。


 中庭での一件以来、雲雀恭弥はどことなく不機嫌だった。
 あの日、雲雀が去ったあと、かなりの時間雨に打たれていたのかは一週間風邪で休んだらしい。その後は普通を装って登校してきたが、様子が違っているのは雲雀の目には明らかだった。今まで以上に周囲を警戒して、より一層草食動物の群れに紛れ込んでいたのだ。
 咬み殺し甲斐のある獲物だと思ったのはとんだ見込み違いに終わり、疾うに興味は失せたはずだった。なのに、気付けば彼女の姿を探し、目で追っている自分がいた。不在であればその理由を調べていた。
 興味などない――はずなのに、一体何を気にしているのか……
 自分の行動の不可解さを持て余していたのだ。
 それはやがて苛立ちへと変わり、群れることでしかいきがれない連中の溜まり場を調べ上げては片っ端から咬み殺しに街へ行くようになった。けれど、それでも気が晴れることはなく、却って苛立ちは募る一方で。
 良い解決策も見出せぬまま、不機嫌と苛立ちが悪循環に増えていくだけの日々。
 その日、朝日が昇って間もない時間に外へ出たのは、たまたま早くに目が覚めてしまっただけの偶然と気紛れであり、どうしようもなく持て余した行動のひとつであり、当然意味などあるはずもなかったのである。
 目的地もなく、雲雀は並盛町にバイクを走らせた。早朝の街には人影も車もほとんどなく、住み慣れたそこを心置きなく走り回った。
 一体どれだけの時間を、どのように走り回ったのか。不意に視界に飛び込んできた淡い色に、ブレーキをかける。
 そこは住宅街の一角、桜並木のある公園だ。満開になるまでにはまだ日があるようだが、それでも充分に見頃を迎えた花が見事に咲き誇り、公園内を春色に染め上げていた。
 そろそろ花見の季節……そんなことも忘れていた。
 目を細めて春を告げる色彩に見入っていた雲雀は、風に含まれるほのかな甘い香りに鼻腔をくすぐられ、誘われるようにバイクを降りて公園へと足を踏み入れた。
 平日の早朝だけあって、花見の場所取りをするような人間はいない。年寄りやジョギング、ペットを連れた人影があってもいいような時間帯ではあるだろうに、今日は不思議とそれもなく貸し切り状態。
 日本の春を表す桜。雲雀が愛する和の風情。
 目障りな群れに煩わされることなく桜を愛で、久々に心が落ち着くのを感じていた。
 その、中。視界の端に捉えた、ひとつの人影が。
 ――ざわり、と。心が乱れる。不快な感覚に、苛立ちが戻る。
 肩口で揺れる黒髪と、風になびく淡い色彩のワンピース。私服の後ろ姿であっても見間違うはずもない、先程まで心を落ち着けていたはずの桜の存在さえ邪魔に思わせる相手……
「…………」
 いつもとは違い、無防備ともいえるほどに警戒を薄れさせて佇む姿が、不快感を更に煽る。元々雲雀は気配を消して動くことが常態ではあるが、今は消しているつもりはない。にも拘らず、近づいても気付く素振りさえ見せない。
 何のために学校ではああも警戒しているのか、何故今はそれを解いているのか。
 わけのわからない女……
 ただ観察してみたところで苛立ちは募るばかり。諦めにも似た溜息が口からこぼれ、雲雀は確かな意志を持って、今一歩彼女に近づいた。



 名を呼ばれ、ゆるりと振り返る。
 思考の海に沈んでいたは、声から相手を特定することができなかった。だから振り向いた先にいたのが、二度と関わってこないだろうと思っていた相手であり、また想定もしていなかった時間帯の遭遇に驚いて、軽く目を瞠って彼を見た。
「雲雀、恭弥……」
 いつもと同じ黒のスラックスと白いシャツ、そして肩に学ランをかけたスタイルで、すぐ近くに彼はいた。いつかの夜、初めて間近に対峙した時と、同じくらいの距離。
 まだ静かな早朝でこの距離ならば、小さな呟きも届いてしまうのだろう。雲雀の切れ長の目がスッと細められ、いつも以上に鋭くなった。
「君、何してるの?」
 もともと不機嫌さを露にして立っていた彼が、更にそれを増した声音で問い掛けてきた。……呼び捨てになってしまったのが、気に入らなかったのだろうか。
 とりあえず、不機嫌さの理由は置いといて、問われたことへと思考を切り替える。
「何、と言われても……」
 考え事、としか答えられないのだが、それが雲雀の求めている答えとは思えない。そもそも、何故学外で彼が声をかけてきたのかすらわからないのでは、答えようがなかった。
 以前のように校則違反になるようなことは何もないと思うのだが……まさか、朝帰りと思われたわけではないだろうし。
 そんなの困惑を察したのか、雲雀は更に短く続けた。
「サボるつもり?」
 なるほど、と。得心がいったのも束の間のこと。
 今はまだ日が昇ったばかりで、散歩に出てくる人もいないほど朝早い時間だ。帰宅して着替え、更に朝食をとってからでも学校には充分に間に合う余裕があるので、注意を受けるほどのことでもない気がする、と。
 疑問が浮いてきはしたが、それを口にする気にはなれなかった。
 一陣の風が、公園の中を駆け抜けていく。玩ばれた枝がさわさわと鳴き、ひとひらの花弁が舞い下りてきた。手の平を広げてみれば、花弁は丁度その上に静かに乗って。けれどすぐにまた風にさらわれていったそれに誘われるように桜を見上げる。
 春の訪れを告げる桜の花。満開までは、あと数日。それはそのまま、がこの地に留まれる日数をも表していて。
「そう、ね……」
 桜を見上げていたの口からこぼれるように出た答えは、肯定と受け取れる呟きだった。
 たった、一言。けれどそれは、彼の神経を逆撫でするには充分な言葉。
 明らかに不機嫌さを増した気配に目を向ければ、今にもトンファーを取り出しそうな様子でいて。はそれをただ静かに眺める。
「風紀委員長である僕に対して堂々とサボり宣言とは、いい度胸だね」
 低く、怒りすら孕んでいるようにも聞こえる声音。恐らく他の人間なら聞いただけで震え上がり逃げ出すであろうそれにも、の態度は変わらなかった。
 何故そうできたのか、答えはひとつしかない。雲雀が、不機嫌ではあっても殺気を放つことをしないからだ。
 気に入らない人間は容赦なく咬み殺してきた普段の彼から考えれば、意外といえるその態度。咬み殺す価値すらないとでもいうようなそれは、の心に安堵を呼ぶと同時に相反する思いも湧き上がらせて、複雑な気持ちにさせるもの。
 やはりもうチャンスはないのだ、と。思い知らされたと感じるその心が、諦め切れていない証拠であり、また心のどこかで彼に何かを期待していたのだと自覚させられた。
 あんなに、もう無理だと思ったはずなのに……あの恐怖は、今でも心に巣くったままなのに……
「……何を笑っているの?」
「だって、転校するのなら、もう行く必要はないでしょう?」
 無意識に浮かんだのだろう自嘲を見咎めた雲雀へと返したのは、先程の問いへの答え。
 本来なら言う必要のない――否、言うべきではないそれを言ったのは、呆れるしかない程に未練がましい自分を追い立てるため。誰かに話すことで、迷うその選択肢自体を潰したかったからに他ならない。
 雲雀は不機嫌さを幾分か和らげ、代わりに怪訝をその顔に刻んだ。
「転校……?」
「そう、転校」
「……そんな連絡は受けてなかったと思うけど?」
「まだ手続きはしていないもの」
 並盛中学校の支配者であることを明らかに示す確認をしてくる雲雀に対し、もまた今までの平凡を装っていた演技を取り払って、あっさりと答えた。
 ほんの僅かに晒した、素の自分。それに対して解放感を覚えたなんて――きっと錯覚だ。
 その先の言わなくてもいいことまで言ったのも、自分を追い立てるためのはず。解放感を求めてではない。
「でも今日中には終わらせなきゃね、間に合わなくなっちゃうから」
 転校の手続きをはじめ、実際に移動するまでに済ませなければならない諸々の手続き――書類の偽造にかかる時間を考えても、本当にもうタイムリミットだ。時期がずれれば余計な詮索をされ、その分人の記憶に残ってしまう。それだけは、避けなければならない。
「……親の都合、ということではなさそうだね」
 の言い回しに引っ掛かりを覚えたのだろう。探るような目で雲雀は、事実に近いところを推測してきた。
「それは、君の意志ってこと?」
「そうよ」
「理由は?」
「あなたが気付いてしまったから」
 偽ることなくはっきりと告げれば、雲雀のまとう空気が一瞬で変わった。
 真冬に氷水を浴びせられたような、冷たく切りつけるような鋭い空気。――けれど、殺気ではない。
 殺気のようでいて、けれど殺気ではない。自分を律し、闘気を完全に制御できる。彼の実力を物語るそれに、は目を細めた。
「どういう意味、それ」
 不愉快さ全開といった体の雲雀に、は薄く笑みをはいて答える。
「もともと、私はひとつの町に長くは留まれないのよ。……追いつかれる前に、逃げなければならないの」
 追ってくる者たちが、いる。だから手掛かりとなるような――の存在の痕跡を残すわけにはいかないのだ。
 平凡などこにでもいるような少女とはどこかが違う、と。気付かれたり、知られてしまったのなら、噂となって広がる前に姿を消す。それが、人々の記憶に残らずに済む平和的な手段。
 そうしなければ……そうする以外に、道はなかった。
「捕まれば、私に自由はない。逃げ続けることだけが、私が自由に生きられる唯一の方法だから……」
 本来なら雲雀にも話すべきではないのだが、彼なら恐らく色々な意味で大丈夫だろう。
 群れることを――馴れ合うことを嫌っているので、噂を立てる心配はない。追手が嗅ぎ付けたとしても彼なら素で誤魔化しそうだし、何より返り討ちにできる強さがある。
 が心配するようなことは、何もない。だからこそ気兼ねなく話したのだけれど。
「……それ、本気で言ってるの?」
 明らかに怒気を孕んだ声音で、雲雀は問い掛けてきた。冷たかったあの空気が、凍えるほどに鋭さを増す。ピリピリと肌を刺すようなそれは、殺気と紙一重。
 それでもまだ殺気ではないので、の態度が崩れることはない。
 殺気を向けられれば、否が応にも体は反応する。それこそ、意志では制御できないほどに、体に染み付いてしまった条件反射だから……
「今までそうして生きてきて、自由でいられたのは確かよ」
「君の言う自由は、僕には状況に束縛された不自由にしか思えない」
 不機嫌でも、苛立ち、怒りを覚えても、雲雀は冷静さを失わなかった。客観的に物事を考え、即座に正しい見解を言い切った。
「……あなたにとっては、そうなんでしょうね……」
 呟き、俯く。
 彼が言ったことが正しいというのは、わかっている。でも、にはこれ以外に取る道はないのだ。
 ほんの一時の自由を、繋ぎ合わせていくしか……できない。
「だから――あなたがうらやましかった……何者にも束縛されない強さを持つあなたが」
 彼のようでありたいと憧れ、強くなりたいと願った。けれど――
「でも……それは、私には手にできない強さ、だったから……」
「だから逃げるわけ?」
 の言葉を遮り、雲雀が後を続けた。
 真実の故に、何も答えられない。顔を上げることすらできないの耳に、大きな溜息が聞こえてきて。
「馬鹿じゃない? そんなこと続けていれば、いずれ逃げ場所自体なくなることもわからないなんて、馬鹿そのものだね」
 心底呆れた雲雀の言葉が、の心から余裕を奪い去った。誰にも言えずに押し込めていた本心……その堰を、断ち切った。

「そんなこと言われなくなってわかってる!! でも他にどうしようもないじゃない!! もう誰も殺したくないんだもの!! 誰も殺さずに自由でいるには逃げるしか方法はないのよ!!」

 早朝の公園には不釣合いな、慟哭にも似た叫びがこだまする。ざわざわと風に揺らぐ桜の木々が、その声を吸収していった。
 逃げ、隠れて過ごす生活には、いつでも恐れがつきまとっている。僅かばかりの平穏が崩れる恐怖。逃げ場がなくなる恐怖。人を殺す恐怖。追いつかれ、捕らわれてしまう――恐怖……
 それでも、他に道はない。どれだけ安住の地を切望したとしても、どこにも存在しないことを、何よりもよく理解しているから。
 どうにもならない雁字搦めの現実……思わず溢れた涙を乱暴に拭った――その、手を。雲雀が、掴む。
「逃げられるの、本当に。僕からすら逃げられないんじゃないの?」
「痛っ」
 骨が軋むほど強く手首を握られ、引っ張られた。
「ほら、逃げてみせなよ。捕まりたくないんじゃなかったの? 捕まってるよ、僕に」
「やっ、はなし」
「自由でいたいなら、僕を殺して逃げてみせなよ」
 鼻先を突き合わせるほどの距離で、雲雀が囁く。狂気を宿す瞳に射抜かれ、殺気もないのに膝が震えそうになる。
 逃げたいのに、動けない。殺せば、解放される。それは多分可能だ。だけど――
「いやあっ!!」
 血に染まるのは、もう嫌だ――!
 叫び、自由なほうの手で力の限り雲雀の肩を突っぱねた。そんなことではどうにもならないとわかってはいたけれど、他にどうすることもできなかったのだ。
 案の定。雲雀には然してダメージもなく、手首も掴まれたまま。反動でのほうがバランスを崩して膝をついてしまった。
「やっぱり逃げられないじゃない」
 頭上から降り注ぐ雲雀の言葉が、の心を突き刺す。
 殺すことを拒めば逃げることもできない、自分の無力さに涙が浮かんだ。
「馬鹿だね、君。目的に対して手段を選べるのは、実現可能な力があってこそだよ」
 つまり、力のない今のが『自由』という名の目的を達するためには、『殺す』という手段を捨てられないということ。『逃げる』という手段を阻まれたなら『殺す』という手段を用いなければ、『自由』を失う――と、いうこと……
 突きつけられた現実に、唇を噛む。悔しい……
「つよく、なりたい……っ」
 殺さなくても逃げ続けられる強さが――否。本物の自由を手にするための強さが、欲しい。やっぱり、諦めきれない……っ。
 一人で立って、真っ直ぐ歩いていける強さが、力が欲しい。
「なれば?」
 あっさりと、何でもないことのように言う雲雀を、思わずは睨みつけた。そう簡単に強くなれれば、今こうして捕まってなどいない。力を持つ者には、それを持てぬ者の気持ちなど理解はできないのか。
 力は緩めているものの手首は未だ掴んだまま、雲雀は静かにを見下ろして。
「君にその気があるなら、付き合ってあげてもいいけど?」
 思いもよらない言葉を、降らせてきた。
 今、彼は、何を言った――?
「…………え?」
 理解できずに呆然と見上げるへ、手の平が差し出される。
「暇してたし、君が強くなれば僕も楽しめるわけだしね。……どうする?」
 不機嫌さはどこへ行ったのか。いつの間にか雲雀のまとう空気は和らいでいて。それでもその瞳には、好奇心と共に好戦的な色を宿している。
 それは、つまり――鍛えてくれるということ、だろうか……?
 予想外の展開に、けれどの心はすぐに決まった。
 再びチャンスを与えてくれるというのなら、今度こそ掴みたい。
 差し出された雲雀の手に、確かな決意を持っては自分の手を乗せた。

 強く、なろう。今度こそ……血に染まらぬ自由な道を歩くために。