それは、突然のことだった。
何の前触れもなく張り詰めた空気が室内に満ち、王は執務の手を止めて身構える。
「……キング? どうした?」
椅子の背もたれに張り付く白銀の狼の毛皮が訝しげに問い掛けてきた。
毛皮が喋る――あり得ないことだが、この国ではこれが常識だった。何故なら、この毛皮こと銀(しろがね)公・フェンリルがこの国の王を決める存在であり、彼を従える者が国王となる――つまり、王の証だからだ。
それ故、この国の王は常に命を狙われる。力づくでも認めさせることができれば、一国の主になれるから。
自分も、その例に洩れることはない。彼に王と認められて数ヶ月、幾度襲撃を受けたか知れない。何人の護衛が、己の代わりに散っていったことか……
だから、慣れている。
「手前(テメエ)は、気付けねえのかよ」
悪態づいて、仕込んでいる銃を袖口から出し、その手に取った。
言葉と一連の動作に、銀公は目を細めて。
「襲撃か?」
耳を立て、周囲を警戒しながらの問い。しかし、肯定を返すことはできなかった。
「…………いや……」
襲撃には慣れている。あの独特の張り詰めた空気は、肌に馴染んでしまっている。
けれど――
「違うな。これは……人間の殺気じゃねえ」
今、この場に満ちるものは、己の知るものとは違う。
何が違うと問われても説明はできないが、わかるのだ。これは、違う。別物だ――と。
そうはいっても、それが何かわからない以上、警戒を解くこともできない。どう考えても、のほほんとしていられる類の空気ではないから。
――と、銀公の耳がピクッと動いた。そして。
「……ああ、そういうことか」
舌打ちと共に出た呟き。
理由を問う前に、銀公が声を荒らげた。
「銃は役に立たんから仕舞っとけ! で、今すぐ壁際に行って動くな!」
「な、一体なんだって――」
「説明してる時間はねえ!! 早く――」
「おーい、何騒いでるんだ? 追加の書類持ってきたぞ」
「失礼いたします。陛下、何かございましたか?」
銀公の声にかぶさり、新たにふたつの声が入ってきた。
よりによって、何故このタイミングなのか。ついでに言えば、ノックぐらいしろ――とは、思ったことさえ覚えていられぬ刹那の思考。
「入るなッ!! 巻き込まれるぞッ!!」
銀公の叫びに、来訪者である補佐官と近衛騎士団長は反射的に動きを止めた。
「……フェンリル? 一体な――」
疑問を呟いた補佐官も、言葉を途切れさせた。戦いに慣れていない身でも、この場の空気の異様さには気付けたのだろう。
ピシッピシッ、と。音が聞こえ始めた。――否、耳ではなく頭に……意識に直接響くようなそれ。
「何だってんだよ、一体……」
「よりにもよって何でココなんだ……っ」
「銀公?」
「来るぞッ!! 絶対巻き込まれんじゃねえぞ! 生きては戻れねえからな!!」
「チッ! グレン! ウォルフを押さえとけ!!」
言うが早いか、先程の比ではない音が響く。
そして、突如現われた黒い雷(いかずち)。
己に向かってきた雷を、間一髪で避ける。
「キング!?」
「補佐官!!」
こちらへ駆け出そうとした補佐官へと向かった雷は、彼を庇った近衛騎士団長の横を通り過ぎた。補佐官の手を離れた書類を呑み込み、消える。
他にも幾筋かの雷が室内を切り裂くように走り、そして――
――バリィンッ!
一際大きな音と共に、執務室の中央で雷が弾けた。
それは、まるで流星でも落ちたかのような光景……中央に黒い物体だけを残し、雷は余韻すら残すことなく消え去ってしまった。
戻ってきた静寂。言葉を失くし、立ち尽くすしかない男たち。その視線はすべて、残された物体――倒れ伏している黒髪の女へと向けられている。
その身にまとっている衣服は、ドレスと言っても差支えがないような高級感のあるもの。ただ、賊にでも襲われたのか、所々刃物で切り裂かれ、血が滲んでいた。美しい漆黒の髪も、無造作に掴んで切られたように、長さが合っていない。
果たして生きているのか、それとも死んでいるのか。
「…………う……っ」
不意に、女から声がこぼれた。まるで、こちらの疑問に答えるかのようなタイミングで、おもむろに女は上体を起こした。
露になった体前面には、かなりの量の血が染み付いている。
彼女自身の血ではなさそうだ。大きく開けたデザインの胸元から見える肌に、目立った傷はない。ただ、刺青のような赤い模様が、いやに目立つけれど。
「運の強いヤツもいたもんだな……」
銀公の声が、呪縛を解く。
ようやく動くことを思い出し、王は深く息を吐いて。
「おい、説明しろ。何だったんだ、今のは」
「とりあえず、ソコ閉めろ」
言われるまま近衛騎士団長は扉を閉め、銀公、王、補佐官、近衛騎士団長、そして未だぼんやりと座ったままの女が室内にいる状態となった。
人間は、誰一人として事態を把握できていない中、唯一それを知る銀公は重い溜息をついてから口を開いた。
「さっきのはな、時空の亀裂だ」
「時空の亀裂……?」
「時間と空間、そこに何らかの理由で歪みが生じると、元に戻ろうとする力との摩擦によって亀裂ができるんだよ。そん中に落ちて、生きて戻れたヤツの話は聞いたことねえな」
「中間を飛ばすんじゃねえ。落ちたら、どういう状態になるんだ?」
「消えちまうんだよ。神隠しとか言われてる、アレみたいなもんだ。亀裂の向こうは時間と空間の狭間。死ぬまでソコを漂うしかねえ――と、思ってたんだがな」
つい、と。銀公が女に目を向けたのにつられ、再び視線が女に集まった。
「狭間に落ち、生きて戻れた稀な例が彼女――ということですか?」
「かなりの強運――つーか、亀裂に巻き込まれる時点で運悪い気もするが、それでも生きて戻れたんだから、やっぱ強運な女だよな」
近衛騎士団長の確認に、銀公はふんっ、と鼻を鳴らし、独白のように言った。
説明を一通り聞き終え、補佐官の口からは盛大な溜息がこぼれた。
「俄かには信じられない話だな……」
「あのな~、このオレを目の前にして今更何驚いてんだよ。だったら、オマエが持って来た書類はドコに消えた?」
「あっ、そういえば……っ、また作成し直しか!?」
「ガンバレ。で、その女がドコから現われたのか、他に説明できるとでも?」
「ぐ……っ」
銀公の指摘に言葉を詰まらせる補佐官。
この口の悪い毛皮に勝てる者は、そうはいないだろう。伊達に長く生きて在るわけではないのだから。
まあ、説明自体は事実だろうから、信じるより他はないのだが……それでも、突然に起こった未曾有と言っても過言ではない事態を受け入れるには、多少の時間が要るというものだ。
未だ混乱気味の己を落ち着かせようと、溜息をこぼしかけた――その時。
「《本当、なの……今の、話……?》」
それまで黙っていた女が、喋った。
その言葉に、男たちは一様に目を瞠り、女を見る。銀公だけが目を細めていて。
「ああ、事実だ。オマエがどれだけ狭間にいたのか知らねえが、ココが以前いた場所と違うのはわかるだろーが」
「《それは……わかるわ……でも…………いいえ、ここはどこなの?》」
「カトルディーナ国の王城。その王の執務室だ」
「《王、城……? まさかとは思うけど、毛皮ちゃんが王様――なんてことは……》」
「王はオレが張り付いてるコイツだ。つーか、毛皮ちゃんとか呼ぶな」
「……おい、ちょっと待て手前ら」
すらすらと続いていた銀公と女の会話。王は額を押さえてそれを制した。
二人分の怪訝な視線を受け、恐らくは合っているだろう予想を確かめるべく、肩にいる銀公へと目を向ける。
「手前、この女の言ってること、わかるのかよ?」
「あ? 質問の意味がわかんねえぞ?」
「俺にはこの女の言葉は理解不能だって言ったんだよ。聞いたこともねえ言葉だぞ」
「あァ?」
全く信じていない風体で、訝しげな眼差しを向けてくる銀公を見返し、次いで補佐官と近衛騎士団長へと目だけで確認を促す。
「俺にもわからない」
「私にも、理解できる言葉ではありませんでした」
「ほらな」
「あァ!? オレだけってか!? おい、オマエはコイツらの言ってることわかってんだよな!?」
「《え……? 毛皮ちゃんの言葉しかわからないけれど……》」
「マジかよ!? つーか、毛皮ちゃんって呼ぶなっつってんだろ!!」
「毛皮じゃねえかよ」
何をそんなに気にしているのか、二度目の注意を女に向けた銀公へ、王は小さく呟いた。
銀公はギッ、と。鋭くこちらを睨んだ後、再び女のほうを向いて。
「いいか! この国では、オレは王の証だ! 何故なら、オレが王を決めるからだ!!」
「《……でも、毛皮ちゃんは毛皮ちゃんよね?》」
「~~~~っ!」
女の言葉はわからない。けれど、目的を達せなかったらしい銀公の反応と、同じ音を繰り返していた女の様子を見る限り、何となく予想はついた。
王は女に近づくと、目線を合わせるためにしゃがむ。そして銀公を指差して。
「手前はこいつを『毛皮ちゃん』って呼びたいんだな?」
「おい、キング!?」
「け・が・わ・ちゃ・ん、だ。言ってみろ。け・が・わ・ちゃ・ん」
「何を教えてんだよ!?」
わめく銀公を無視して、何度か同じようにゆっくりと繰り返した。すると、初めはきょとんとしていた女も理解できたようで、口を開いた。
「け……ぐぁ……」
「が」
「が……わ……ちゃ……ん……?」
「そうだ。毛皮ちゃん」
「け、が、わ、ちゃ、ん」
「それがここでの発音だ――って、ほれ、通訳しろ」
しれっと命じれば、思いっきり嫌そうな顔で睨んできたが、やがて諦めたらしく銀公は嫌々ながらも通訳する。
「今の発音がココでの『毛皮ちゃん』だとよ」
「けがわちゃん」
「わかったんならもう呼ぶなッ!!」
がなる銀公を見て、とうとう女は笑い出した。
くすくすと笑うその声は、鈴を転がしたかのよう。上品に笑う女だ。
つられるように笑みを浮かべ、王は立ち上がる。
「面白え女だな。ひでえ格好の割には物怖じする様子もねえし、毛皮が喋っても大して驚かねえし」
呟きながら銀公を一瞥する。意図を察した彼がまた通訳すると、女は笑い声を止めて。
「《時空を越えるなんて体験をしたんですもの。それに比べてしまうと、毛皮が話すなんてことは然して驚くことでもないわ》」
「まあ、そう言うこともできるか」
通訳された女の言葉に、ひとつ頷く。
どうやら華奢な外見に反して、頭の切り替えの速い図太い神経をしているようだ。
だとするならば。
「なら、はっきり言ってもいいな。手前の説明聞く限り、この女が元の場所に戻る方法はねえんだろ」
「ああ、少なくともオレは知らん」
「ウォルフ。こいつにここの言葉と一般常識、教えてやれ。身の振り方は、それが済んでから決めりゃあいい」
無関係だとして放り出すという選択肢もあった。けれどそうせずに最低限の世話を焼いてやろうと思ったのは、単に相手が女だったからということではなく、何となく気に入ったから。もう少し話してみたい気になったからだ。
結果として、王の下した決定に否を唱える者は、この場にはいなかった。
本人の意向を確かめもせずに決まった事柄について、通訳の言葉を聞いた女はまっすぐに王を見て微笑を浮かべる。
「《ありがとう》」
ただ、そう一言告げてきた。
やはり、面白い。どこがと聞かれても困るが、面白いと思う。
彼女と話せる時を楽しみに思い、王は煙草に火をつけた。
「すごいぞ、彼女は」
執務室に時空の亀裂なんてものが発生して三日後。
入ってくるなり言った補佐官の言葉に、王は眉根を寄せた。
「あ? どの彼女だ? 妻子自慢なら他所でやれよ」
「だよ! おまえが俺に預けた、時空越えした女性のことだ!!」
「……ああ」
合点がいくと同時、そういえば名前聞くのをすっかり忘れていたな、と。ようやく気付いたその事実。
女の存在を忘れていたわけではない。ただ、会話ができるほど言葉を覚えるには時間がかかると思っているし、政務や襲撃などで忙しい日々を送っていたから、気に留める余裕がなかっただけ。
補佐官自身、あの日以来話題にしてこなかったし。
「何がすごいんだ?」
四日目にしてようやく話題に出してきた内容を促すと、補佐官の顔はぱっと明るくなる。
「こっちが教えなくても、既にコツを知ってるんだよ、彼女! 名詞や動詞といった単語はもう、日常生活には不足ないくらい覚えたんだ。あとは、文法さえマスターすれば、普通に会話ができるぞ」
「そりゃ、確かにすげーな」
最低でも一ヶ月はかかると踏んでいたものを、たった三日で七割方習得するとは……元々が頭脳明晰だったのか、それとも必要に迫られたある種の危機感による底力か。
どちらも、最初の様子を見る限り、あまりしっくりこない気がする。
まあ、それはさておき。
「最初はもっと手間取るかと心配してたんだがな。あれだけ飲み込みが早いと、教え甲斐もあるぞ」
上機嫌で報告してくる補佐官の顔が、妻子自慢の時と同じに見えるのが引っかかる。……というか、これはもしや、教え子自慢なのか――と、そう思ったりもしたのだが。
「エルヴィラも『お姉さんと妹が一度にできたみたいで楽しい』って言ってたしな。そう、エルヴィラも教えるのなかなか上手いんだぞ」
結局はいつも通りだっただけらしい。
「だから……娘自慢は他所でしろって言ってんだろーが」
「のことを知らない相手に話せる内容じゃないだろ」
「適当に誤魔化しゃいいだろ。言い訳考えるのが補佐官の仕事なんだから」
「勝手におかしな仕事を増やすな!」
怒鳴った後、ぶつぶつ言いながら書類を確認し始めた姿を見て、王は溜息をひとつこぼす。
まあ、娘自慢はともかくとして、かなり有意義な情報ではあったか。
そんなことを考えた、一呼吸の後。
「ウォルフ。俺、ちぃーと出てくるから、言い訳は任せたぜ」
「――は?」
椅子を鳴らして立ち上がり、一言声を掛けてから窓を開け放って外へ出た。
「おいッ!? 言った側から変な仕事押し付けるな――っ!!」
補佐官の叫びが追いかけてくる中、さっさと目的地へと向かって歩いた。
「よぅ」
辿り着いた目的地である補佐官の自宅。彼の妻に案内された先にいた女へと声を掛ける。
女は、王とその肩にいる銀公に気づくと笑顔を見せた。
「王様、毛皮ちゃん」
補佐官の報告通り、その口から発せられた単語には、以前のようなたどたどしさはない。
確かにかなり上達しているようだが……ふと女は小首を傾げて。
「毛皮ちゃん、怒る……ない?」
恐らくは『怒らないのか』と言いたかったのだと思われる言葉。
やはり会話にはまだ遠いようだが、できないこともなさそうだ。
銀公は、ふんっ、と。鼻を鳴らした。
「オマエにゃ、言うだけ無駄みてえだからな。諦めたんだよ」
「毛皮ちゃん、妥協。私、勝者」
「やかましい!」
結局はがなる銀公を見て、また女が笑うと言う構図が出来上がった。
銀公に勝てる、数少ない人間。その存在に、くつくつと喉を鳴らして笑っていると、ギッと鋭く睨まれた。気にせずに王は、女へと目を向ける。
「単語はほとんど覚えたんだってな。こっちの言ってることは理解できてるのか?」
返る、首肯。
「随分覚えんの早えけど、学者でもやってたのか?」
「……慣れ? 勉強、好き……割合……?」
小首を傾げて、何とか答えようとしている女。
その努力は認めるが、これはやはり慣れないと理解が難しいようだ。
しばし後、単語から連想できる文章を組み立ててみた。
「勉強はどっちかってーと好きなほうだから、慣れてる――ってことか?」
どうやら当たっていたらしく、笑顔の首肯が返ってきた。
「勉強好きねえ……そりゃまた珍しいな。俺はあんまり好きじゃねえし」
「王様、大変?」
「あ? 何がだ?」
「王様。……仕事? 全部、色々、たくさん」
「王でいることが大変かって言ってんのか?」
確認に対して肯定が返り、王は煙草に火をつけて空を仰ぐ。
「そりゃ、楽なわけはねえよ。特にこの国は、継承方法が特殊な所為で、暗殺者の襲撃が多いしな」
「……毛皮ちゃん?」
「ああ、そうだ」
「オレが国王を決める。オレを力ずくでも認めさせりゃ、玉座が手に入ると思い込んでる輩が多いってこった。認めるわきゃねえっつーのに」
「毛皮ちゃん、判断、基準、国、国民、守る、人?」
「オマエなァ……オレに話しかけんなら元の言葉にしろって。わっかりづれえ……」
「練習」
「あーそーかい」
呆れ、また諦めきって呟く銀公。
空から視線を戻した先、女は真面目な顔で答えを待っていた。
その様子を見つめ、今度は銀公が空を向いて。
「そうだ。国を護れねえような――自分可愛さに国を見捨てるような根性のヤツは認めねえよ」
国王を決める者。その立場から、答えを返した。
「王様、覚悟?」
「してっから、こいつに認められてんだろ」
次いでこちらへと向けられた質問。答えは、これだけで充分だろう。――そう、思ったのに……
真っ直ぐに見つめてくる青い瞳が、まるで王を試しているようで。それはどこか、銀公がかつて己に向けていたそれに似ている気がして。
「……俺には、やるべきことがある……それを果たすまでは、何があろうと俺は玉座にあり続ける……」
更に、言葉を続けていた。
そのことに気付いたのは、女が満足げに微笑んだことにより、あの選定者のような眼差しが消えてからだった。
「王様、良い王」
「るせー……よ?」
言葉が拙い所為か、からかわれている気分になって、そっぽを向きかけた。その時、何か違和感を覚え、女を凝視する。
「……キング?」
急変した様子に銀公が訝しげに呼びかけてきた。女も理由がわからないらしく、小首を傾げる。
その動作で、肩辺りで綺麗に切り揃えられた漆黒の髪が首元で揺れた。――そう、首だ。
「手前……その赤い模様、首んトコまであったか?」
透き通るほどの白い肌に、飛び散っていた血よりも目立っていた、あの赤い模様。あの時は胸元が開けていた服だったからこそ見えていた……そう思える程度だったはずだ。
今着ている服は鎖骨が見えるか見えないかという襟元だ。記憶が正しいなら、赤い模様は見えるはずがない――のに、確かに、首の半ば辺りまでそれは見えているのだ。
違和感の理由を言葉にした途端に女は、得心がいった顔になった。ただ答えは……何かを言いかけて、口を閉ざし、眉根を寄せている。それは、言いたくないというよりは、丁度良い言葉が見つからないという風体。
「あのよォ、オレがいんだからわかんねえ言葉無理に探さなくてもいいだろ?」
見兼ねて銀公が助け舟を出すも、女は首を左右に振って拒む。――と、急に顔を上げて。
「毛皮ちゃん!」
「あ? オレがどうした?」
「同じ!」
「あァ?」
女の言わんとしていることを測り兼ねていると、女は己の体を……模様を示して、もう一度言った。
「毛皮ちゃん、同じ」
やはり、わからない。
銀公と同じようなモノだと言いたいのだろうが、その『同じ』はどれを指しているのか。情報が少なすぎて答えを導けないのだが、王の記憶が正しいことを前提に考えるなら仮定は立つ。
「こいつと同じってのは、つまり生きているってことか?」
その仮定を口にすると、女は笑みを浮かべ首を振――
「!!」
降って湧いた第三者の声。
少女のものであるその声のほうへと女は顔を向けてしまい、返答は宙に浮いたままになってしまう。
「エル」
「バカキングとの話は終わった? 終ったよね? ってか強制終了!」
乱入者と言っても差し支えないその少女は、補佐官の娘という己の立場を知ってか知らずか、遠慮の欠片もない言葉を発する。
女は己に抱きつく娘を見たまま、また首を傾げる。
「ば、か、き、ん、ぐ?」
「そう、コレ。バカな王だからバカキング」
「おいコラッ! 変な言葉教えてんじゃねえぞ!」
「うるさいわね~。いいからアンタはさっさと帰んなさいよ。騎士隊長さんがお迎えに来てるんだから」
王以前に年長者を敬おうという気など更々ない娘の態度は、思いっきり王の神経を逆撫でした。
とはいえ、ここで怒鳴り散らしても大人気ないだけ。近衛騎士隊長も来ているとのことだし、戻らないわけにもいかない。
溜息をつくことで怒りをやり過ごし、王はひらっと片手を振って別れを告げ踵を返した。
あの刺青のような赤い模様のことを、どこか気にしながら……
王が女に会いに執務室を抜け出した日から、更に三日後のこと。
補佐官は、女を伴って城内を歩いていた。それは別に、今度は抜け出されないためとかではなく、女自身が望んだためだった。
女が王に面会を求めた理由を知る補佐官は、もう何度目になるかわからない言葉を掛けた。
「本当にいいのかい?」
「ええ、初めから決めていましたから」
流暢な言葉で、女が答えた。
そう、彼女は、たった七日間で異国語を覚えてしまったのだ。更に、王が初めに指示していた一般常識も覚えている。
驚愕の優秀さ。だからこそ、惜しいと思う。
「でも、君ならここでも充分やっていけると思うけどな、俺は」
「王のことを思うのなら、得体の知れない者を長く側に置いておくべきではありません。臣民からいらぬ反感を買ってしまいます」
「君の能力なら、反感を越えて認めさせられると思うんだが……」
「彼にはやるべきことがあるのでしょう? その道を妨げないためには、陰りとなる可能性の者は早々に立ち去ることが最善なんですよ」
王が初めに彼女へ言っていたこと。言葉と一般常識を覚えたなら、身の振り方を考えろ――と。
その身の振り方を、彼女は最初から決めていたのだという。即ち、城を出て、どこか別の場所で暮らすということを。
女が言っている理由が正当なものだということは、補佐官にだってわかっている。けれど、それでも――陰り以上に、支えとなってくれそうな気がしていたから……
だからこそ、惜しくてたまらない。
とはいえ、女の意志の強さは半端ではないし、そもそも決定権を持つのも補佐官ではないから。
「……まあ、キングが決めることだしな……」
溜息と共に呟くと、補佐官は辿り着いた執務室の扉をノックした。――が、いつまで経っても返事はなく、嫌な予感がして扉を開け放った。
「あんの、バカキング! また抜け出したな!?」
案の定、もぬけの殻な執務室に、補佐官の叫びが響く。
とりあえず机上を確認するも、行き先を記したものはない。
「探してくるから君はここで待って――て……」
盛大な溜息をつき、王を探しに行こうとした――が、待機を頼もうとした女は、何故か胸元の服を掴み俯いていて。
明らかに様子がおかしい。
「おい、?」
近付くと、浅い呼吸音が聞こえる。まるで、痛みに耐えるようなそれ。
「具合が悪いのか? 何か、持病が?」
王医でもある補佐官は、異変のもとを知ろうと問い掛けると同時、胸元を掴んだままの手首に指を当てて脈を診る。――尋常じゃない速さ。
女からの答えは、首を横に振り……否定。――と、女はその場に膝をついてしまう。
「息が苦しいわけじゃないな? 心臓が痛むのか? 悪い、ちょっと診させてくれ!」
もう答えられる状態じゃないと悟り、胸元を掴む女の手を解いて診てみようとした――が。
「お、おい……?」
見た。解こうとして掴んだ手首から、赤い何かが出てきたのを。
それは、女の肌の上を伝う植物のように蠢く、模様。刺青などではない。それはまさに、成長する植物のようで、手だけではなく顔にも広がっていって――
そして、補佐官は信じられない光景を目撃した。
「……?」
呆然とした呟きに、けれど答える者はなく……
――ガゥンッ。
銃声が、城内を駆け抜けた。
「キングの銃……侵入者か!?」
そちらへと気を逸らした一瞬。
「――!?」
補佐官の呼び声を追い風にでもするかのように、駆けて行ってしまった。
広い城内、警備が手薄になってしまう場所はどうしても出てくる。
そこをついてやってきた侵入者たち。
いつもの襲撃に焦ることもなく王は侵入者を倒していた――が、いつもと違うことが今日は起きた。
懐に飛び込もうとした侵入者を撃ち殺した直後、仲間を犠牲にしてでも王の首を取ろうと迫っていたもう一人に対し、僅かに反応が遅れた。ある程度の怪我は覚悟で、後ろへと飛び退ろうとした――刹那。
黒い影が横手から現われ、侵入者を突き飛ばしたのだ。
一瞬だけ目を向けて確認した後、残りをさっさと片付けた。
「陛下!? お怪我は!?」
全ての侵入者が倒れてから、銃声を聞きつけた騎士たちがやって来た。
「ねえよ」
短く答え、件の黒い影へと向き合う。
「う……ッ、ぐ……っ」
耳障りな呻き声は侵入者のもの。その上に乗り侵入者の肩に牙を食い込ませているそれは――漆黒の体躯の巨大な獣。
「キング!」
「陛下、その獣は……」
補佐官と近衛騎士団長の声を耳に入れつつ、けれど目は獣を映したまま。
獣と見つめ合うこと、しばし。
「陛下……この獣は、どう……」
他の侵入者を片し、残りは獣の下敷きになっている者だけとなったのだろう。一人の騎士が警戒しつつ控えめに聞いてきたのが、視界の隅に映った。
「……敵じゃねえよ」
「しかし……」
「放せ」
一言。獣へ命じると、すぐに応じて獣は男の上からどいてその場に座り込む。目は変わらず王を見上げたまま、何かを待つようにその場に在る。
「ほら、さっさとソイツ連れてって、情報聞きだすなり何なりしろって」
「はっ!」
銀公に促されて、獣を警戒したままだった騎士が息のある最後の一人を連れて行った。
片付けも大方済み、この場には獣と王、銀公、そして補佐官と近衛騎士団長だけが残って。
「手前……まさか、か?」
王が、半信半疑で獣に問い掛けた。
「おい、キング? オマエ、正気か?」
「陛下、一体何を仰って……」
銀公と近衛騎士団長の怪訝な声には、半ば同調する。
わかっている。おかしなことを言っているとは。けれど、そうとしか思えないのだ。
見つめてくる青い瞳には、知性の光が宿っている。その眼差しは、いつかの選定者を思わせるあの目で。それに漆黒の体躯には……
不意に、獣の口が歪んだ――笑った、というべきか。そして。
「よくわかったわね?」
聞き覚えのある女の声が、獣の口から発せられた。
獣が喋るのは銀公で慣れているとはいえ、やはりどこか違和感は拭えずに、目を細めて獣を見下ろす。
「まあな……瞳はそのままだったし、それにその模様……の体にあったあの刺青みてえな赤い模様がうっすらと見えてるからな」
「鋭い観察眼……やっぱり貴方、良い王様だわ」
「……手前、人間じゃなかったのか」
くすくすと笑っていた獣の言葉を無視して呟いた言葉は、獣から笑い声を奪った。
「人間『だった』のよ。ついさっきまでは、ね」
笑みを消して見上げてきた獣は、つい、と。横へと視線を移す。
「補佐官が知っているわ。人間だった私の終わりを見届けた人だもの」
「――え゛っ、いや……えっと……」
「ウォルフ?」
「あ~……その、急にが苦しみだしたと思ったら、赤い模様が蔦のように動いて……あっという間に獣の姿に……」
しどろもどろでも何とか説明はしたが、やはりまだ信じられない風体。
実際に目の当たりにした補佐官でさえそうなのだから、見てすらいない者はもっと信じ難い。
「一体、何故人間が、獣に……」
近衛騎士団長の呟きを耳に入れ、ふっと獣は自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「『呪い』がかけられていたからよ」
「のろい、ですか?」
「あの赤い模様は、生きた呪いの刻印。成長し続け、対象物を喰らい尽くして異形へと変えてしまう……そういう呪いよ」
突拍子もない告白。しかし王は驚くよりも納得していた。
やはり、あの模様――刻印は大きくなっていた。銀公と同じと言った意味は『生きている』で合っていたのだ、と。
「別の次元に来たことで消えるか、それとも遅くなるかとも少しは期待していたんだけれど、逆に早まってしまってね。本当は呪いに食い尽くされる前にここを去るつもりだったのに……」
「オマエの言葉がオレにだけ通じたのは、その呪いの所為か……」
「恐らくは。確かめようもないことだけれど」
「……これから、どうするつもりだ?」
現状に至る過程はわかった。ならば次に考えるべきは、これから先のこと。
問い掛ければ、ピクリッと耳が跳ね、待ってましたと言わんばかりの目を向けてきた。
「どこか、人里から離れた山奥にでも棲もうと思っているわ。今日はそれを伝えるために来たのだけれど、呪いのほうが先だったみたい」
「死ぬ気か?」
「まさか」
「人に追われ、狩られるぞ」
「それでも死なないわ。私は、天寿を全うするまで生き続ける」
王の覚悟を問うてきた時と同じ、曇りのない澄んだ瞳を真っ直ぐに向け、獣はきっぱりと言い切った。それは、ある種の覚悟。
それを聞いた時には、もう王の心は決まっていた。
「よし、手前は今から俺の番犬だ」
宣言して数秒の沈黙。その後、見事に全員が「はあっ!?」と声を揃えて驚きを露にした。
「あの、私の言ったこと聞いていたの? 私はここを去るって言ったんだけど」
「俺は許可してねえ」
「番犬って、化け犬飼うつもりなの?」
「そう言ってんの、理解できねえのか」
「王、辞めさせられるわよ?」
「辞めさせられねえよ。ここは毛皮が国王決めるような国だぞ。王が化け犬飼ってたって納得されるだけだろ」
女が頑固なのは既に知っていたが、頑固さなら王とて負ける気はない。
どちらも引く気のない問答が続いたが、やがて獣は大きな溜息をひとつ。
「……物好き……大変ね、こんな変な王の補佐しなきゃならないなんて」
「ああ、胃腸薬が俺の常備薬になっちまったよ」
何故か補佐官へと向いた同情の言葉に、何の躊躇いもなく当人も同意を示し、王は彼を睨みつける。
「そうよね、そうなるわよね、やっぱり……補佐官の心労増やすようで申し訳ないのだけれど……」
――と、とうとう獣が根負けした様子。
王はにっ、と。口端を持ち上げ、笑う。
「気にすんな。胃腸虚弱なそいつが悪い」
「酷ッ!」
「……名前……」
「あ?」
「名前は?」
「誰のだ」
「私の」
「あぁ?」
何が言いたいのかわからずに眉根を寄せた王を、獣は見上げてきっぱりと言った。
「という名の人間はもういないのよ。だから、化け犬飼うと決めた貴方が、『番犬』の名前をつけるべきでしょう?」
ようやく得心がいった。と同時に、その潔さが気に入り、その気持ちを笑みへと変える。
そして、大して考えることもなく王は口を開いた。
「こいつが銀だから、手前はだ」
「単純だな、オイ! つーか、オレとセットかよ!?」
「外見的にはセットで違和感ねえだろ」
「それ以前に、性別は無視なの?」
「なら、」
「どっちもどっちねえ……」
名前決めろといった本人が随分と不満だらけじゃねえか、と。少々苛つきつつ、それでも別の名前を考えようとしていた王の視界に、獣が動いた姿が映りそちらへと注意を向ける。
獣は王の足元まで来ると、座って頭を垂れた。そして……
「王が与えし新たなる名、『』の名のもとに、我が命尽きるまで王を護ることを誓いましょう」
忠誠の誓い。
まさかそんなものをするとは思ってなかったので、王は目を丸くした。――と、獣は顔を上げて。
「これで満足?」
悪戯っぽく片目を閉じて、そう言った。
してやられた気分。しかし、その一筋縄ではいかない感じがいたく王の気に入って。
王は実に満足げな笑みを浮かべて、答えた。
「上等だ」