全てを……己の生命以外の総てを失くしたこの身に、もう一度意味を与えてくれた人だから……二度と手にすることはないと覚悟していたぬくもりを与えてくれた、大切な大切な人だから。
護りたい……もう二度と、失いたくない……ただ、それだけのこと――……
「『右目』一人か? キングはどうした?」
いつもの時間、今日の分の書類を執務室へと運んできた補佐官は、丁度顔を見せた青年に問い掛けた。
青年は一瞬言葉に詰まったが、すぐに答える。
「あの……探しているところなんです」
「――は?」
「一度こちらへ伺った時にはまだいらっしゃらなかったので、墓地へ行ってきたところなんですが……ご婦人方も今日はまだいらしていないと……」
王は毎朝朝一で墓地に行く。墓参りを済ませてから朝食を摂り、政務に取り組むというのが日課だ。基本単独行動が多く、青年の日課は王を探すことから始めなければならないのだが……大抵は、墓地か執務室で合流できた。
ところが、今日に限って時間を過ぎてもどちらにも姿を現していないのだ。
「単なる寝坊じゃないのか? 寝室へは?」
「まだ行ってません」
寝室には『番犬』がついているのだから滅多なことはないと思うが、この国の事情が事情なだけに心配になるのは当然。
単に寝坊なだけだとしても、いい加減に起きてもらわなければ、今日の執務にも響いてくる。
「起こしてくるか……」
溜息をひとつこぼして、補佐官は青年と共に王の寝室へと向かった。
ベッドの上で悠然と尾を振りながら、銀公はくつろいでいた。時折、忍び笑いがこぼれるのは、この後が楽しみで仕方がないからだ。
――と、その耳にノック音が飛び込んできた。
「誰だ?」
「俺と『右目』だ。キングは中にいるのか?」
「おう。オマエら二人だけなら入っていいぜ」
誰何(すいか)への答えを聞き、銀公はニヤリと笑って入室を許可した。
一拍の後、扉が開いて補佐官と青年が入ってきて、また扉は閉ざされた。
「おはようございます、銀公」
「おう」
「フェンリル、キングはどうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「いんや、爆睡してるだけだ」
二人の言葉にそれぞれ答え、銀公はこぼれる笑みを隠すことなく顎で枕元を指し示す。補佐官と青年は頭に疑問符を飾ったまま顔を見合わせると、どちらからともなく近づく。
扉側からだと銀公の陰になって見えなかった枕元。ゆっくり近付き、ようやく見える位置に来た二人の反応は正反対だった。
青年は対応に困ったように足を止め、補佐官は驚愕を顔一面に貼り付けて駆け寄り――
「!?」
叫んだのは、一ヶ月以上前に、当人の意志で捨てられた名前。
何故、その名なのか。答えはひとつ。もう二度と見ることはないと思っていたその名を持つ女性が、王と共に眠っていたからだ。
「な、面白ぇだろ?」
「いや、面白いとかいう問題じゃないだろ!?」
「あの……ご存知の方、なのですか?」
笑ったまま心底楽しげに訊く銀公と、混乱気味に突っ込む補佐官。一人だけ全く事態を飲み込めない青年が、とりあえずといった体で問い掛けてきた。それによって我に返った補佐官がひとつ頷く。
「あ、ああ……知っていることは知っているが……だが、一体どうして……」
頷きはしたものの、信じられないといった風体。
その姿で現状を把握できていないのは彼も同じだと悟った青年が、答えを求めて銀公へと目を向ける。ほぼ同時に補佐官も、同じ眼差しを向けてきて――べっ、と。銀公は舌を出して見せた。
「本人が知らなきゃオレにわかるわけがねえっつーの」
「それはそうだが、他にも情報があるだろ!? いつとか――」
「っせーぞ……っ」
補佐官の声にかぶさって、くぐもった声が力なく踊った。ほぼ同時に、銀公の腹の下がもぞもぞと動き出す。
「おっ、やっとお目覚めか」
「何だってんだ、朝っぱらから……」
布団から出てきて光を遮るように顔を覆った王の手を、補佐官は少し乱暴なくらいの勢いで引き剥がして王を覗き込んで。
「朝っぱらなんて言える時間はとっくに過ぎてる! いいから起きて状況を説明しろ!!」
「あ? そりゃ俺のセリ、フ……んあ?」
有無を言わさぬ感の補佐官に怪訝な顔をしてとりあえず起き上がろうとした王は、ようやく異変に気付いた。
いつもならあるはずのないぬくもりに目を向ければ、二度と見るはずのなかった顔。
「……何でこいつがこんなとこにいんだ?」
「おまえも知らないのか……」
不機嫌さも綺麗に吹き飛び、驚きに染まる王。その様子を実に楽しげに眺めて、銀公ははたはたと尾を振りながら茶々を入れる。
「ケケケッ。コイツが隣に潜り込んだのにも気付けねえほど爆睡かよ。そんなに寝心地よかったんか?」
「るせェ、ケダモノ。おい、起きろ」
「……ん……」
瞬時に不機嫌復活で銀公の茶々を一蹴。王は状況把握のため、唯一事情を知っているであろう女を起こしにかかる。
軽く肩を揺さぶられ、女の口から小さな声がこぼれて蒼い双眸が姿を現した。けれど、どこかぼんやりとしていて夢心地のよう。焦点の合わない目が、すぐ前の王を見上げて。
「……へいか?」
「あ?」
珍しい――というか、初めての尊称呼びに思いっきり違和感を覚えて眉間に皺を刻んだ王。そんな変化も夢現状態の女には認識できるはずもなく、きゅっと蒼い瞳が細められる。そして――
「ラルクォルド陛下……」
花が綻ぶような、綺麗な綺麗な笑顔を見せた。
普段のものとは全く違う美しい笑顔に、また聞き覚えのないその名に。全員が動きを止めた時間は、一体どれだけだったのか。
「陛下?」
真っ先に復活したのは王。大きな溜息をつくと、中指を親指に添えた状態で女に近付け――
「寝ぼけてねえで、とっとと目ェ覚ましやがれ。」
デコピン。
「きゃっ!?」
痛みによって急に夢が消えて驚いている女とは、別の驚きをその顔に刻んでいる青年。
「あの、陛下……今、『』と仰いましたか……?」
「んあ? ……いたのか、『右目』」
「あ、はい。おはよう、ございます……」
驚きをそのまま問い掛けたことで、王はやっと青年の存在に気付いたらしい。青年は驚きから複雑そうな表情に代わり、挨拶を口にした。けれど、そのまま青年に対して明確な答えが返ることはなかった。
「……あら? キング?」
ようやく意識がはっきりしてきた女の声で、注目は再び彼女へと移った。
「どうしてキングが私の隣で寝ているの?」
「アホウ。手前がベッドに潜り込んでんだ」
「え、まさか? 毛皮があるのにベッドに潜り込む必要は――……え……」
途切れた言葉は疑問へと変わる。大きく目を見開いて己の手を見つめる女。――と、がばっと勢いよく起き上がり――青年はくるっと回れ右をした。
「……どうして……」
手を、腕を、そして身体を見下ろし、信じられないと物語る表情のまま、ただ疑問を呟く女の姿には、からかおうという気は起きない。……まあ、王はともかく元々女をからかう気は銀公にはないのだが。
女自身も理由を知らない事態に、銀公が己の知る事実を告げる。
「夜中に急に変化したんだがよ、寒かったんじゃねえの? のそのそとベッドに潜り込んでそのまま寝ちまったのだよ、オマエ」
獣ならいざ知らず、人間――しかも裸体では寒くて当然だろう。無意識にぬくもりを探し、近くにあった王のベッドへ潜り込むのは、ある意味自然な流れといえる。
「それでキングの寝坊に繋がった訳か」
「繋げんな」
「事実だろう? けど、のことは結局謎のままということか?」
「見た以上のことがわかるワケねえっつーの」
舌出し再び。睨んでくる補佐官の視線から顔を背けた先、王は何かに気付いたのか目を瞠ったかと思うと、急に女の手首を掴んでどけ、その身体を凝視して。
「おまえ……あの赤い刻印、どこ行った?」
「――え?」
その言葉で、思い出した。そもそもの原因。女が獣へと変化した、その理由を。
――呪いの、刻印。対象物を喰らい尽くして異形へと造り変える、生きた刻印……
今現在、女の白い肌にあの赤い模様は見当たらない。それの意味するものは――
「呪いが、解けたのか?」
「……違うんじゃね?」
半信半疑の王の問いを、銀公は否定してみた。理由を問う眼差しに、顎で女を示す。女の身体にある、獣の時の名残……首輪と、もうひとつ。
「首んトコ、触手はそのままだぜ?」
指摘によって意識を向けたのか、力なく垂れていた二本の触手がゆらりと動いた。
「……つまり……どういうことだ?」
「これが、呪いの完成形――ということなのかもしれないわね」
それでも答えを導けずにいた補佐官へは、女自身が答えた。
女はおもむろに片手を持ち上げると、目を細めて凝視する。――と、ざわざわと奇妙な動きが現われ、白く滑らかな人間の手は漆黒の毛皮をもつ獣の足へと変化したのだ。
「ほら? 人間に戻ったのではなく、刻印と完全に同化することによって人型への擬態能力が追加されたと考えるのが、一番可能性の高い推測だと思うわ」
「擬態……」
肘から先が獣化した手を示して言った女の言葉を、補佐官は驚愕の表情で鸚鵡返しに呟いた。
王はおもむろに獣化した手に触れ、幻などではないことを確かめている。
「なるほど、な……」
「ということなので、やっぱり『』はもう、私を示す名前じゃないわ。獣姿と区別がつけたいのなら『』でどうぞ」
にっこり笑って続けた女を見て、王の眉がぴくっと跳ねた。
「……よく覚えてんな、おまえ……」
「それは、もちろん。あなたがつけてくれた名前ですもの」
『』は、獣を番犬にする際に『』と共に、王が候補として出した名前。獣が『』を選び、そのまま用無しとして消えたはずのものを、まさかここで復活させるとは。
この女の思考回路が理解不能なのは、今に始まったことではない。王は諦めを溜息で露にして。
「で、今日はどうする気なんだ?」
「どう、とは?」
「そのままでいるのか、獣に戻るのかってことだ」
考えたところで答えの出る問題でもないものは、適当に片付けるに限るとでも言いたげに、現状把握を切り上げて今日の予定へと目を向けた王。
女は小首を傾げて少し考える素振りを見せたあと、再び笑みを浮かべて答える。
「他に何か能力が追加されているのか確かめたいから、このままでいるつもりよ。なので、『右目』ちゃん、キングのお守(も)りは任せるわね」
「あ、はい……」
「お守りとか言うな」
「お守りじゃないか」
「ケケケ、でっけえガキだもんな」
急に話を降られて、背を向けたまま思わず返した青年と、『お守り』発言に不満を示す王。その王に対して補佐官は突っ込みを、銀公は茶々を入れて、本人から鋭い視線が返される始末。
けれど、そんな視線など微塵も堪えず笑っていると、王のほうがさっさと諦めたようだ。
「ウォルフ。誰かにこいつの服、何か適当に持って来させろ。俺は出掛ける」
「あ、ああ、わかった。『右目』、あとは任せたぞ」
「はい。では、おれは陛下が着替えられている間に、花を用意しておきますので。失礼します」
王の指示を皮切りにして、少し遅めの日常へと戻っていく。急に忙しなく動き出した男たちを、女と銀公だけがのんびりと見送って――静寂が室内に訪れる。
ぴったりと閉じられた扉を見たまま、不意に銀公は笑い声をこぼす。先程の遣り取りを思い出したからだ。
いつだったか、女は存在自体が突拍子ないと話したことがあった。そこが、王にとっては彼女を気に入った要素のひとつであり、銀公にとっては彼女の言動によって周囲に広がる波紋が面白くて、有難いモノだった。
ソレは、つまり、王をからかうネタが増えるということ。言い換えれば、女は王をからかうネタを発生させてくれる存在だからだ。
初めはあんなに癪だった『毛皮ちゃん』呼びも気にならなくなるほどに、いつの間にかこんなにも気に入っていたことを改めて実感した銀公は、その不思議な存在へと目を向けて――首を傾げた。
先程までの笑顔は消え失せ、女は無表情で己の手を、身体を見下ろしていたのだ。
「……どした?」
「いえ……何も、ないから……」
「は?」
「綺麗に、何も残っていないから……本当にコレは、擬態に過ぎないのね、って……そう、思っただけよ……」
いつもとは全く違う――否、初めて見るかもしれない完全な無表情。質問には答えているものの、どこか独白のような色を強く見せる声。
銀公は目を細めて女を見上げ、口を開く。
「つらいのか?」
元々は人間だった。呪いをかけられ、異形の生物へと変化してしまった経緯を持つのが彼女だ。ある日突然刻印が消えて人の姿になっていれば、呪いが解けたのかと思うのは当然のこと。
僅かでも期待を抱いたのなら、現状は絶望を与えるには充分だろう。
しかし、女は手を握ると、銀公へと笑みを向けて。
「いいえ。解けない呪いなのは知っていたし、『』に未練もないわ。今の私の名前は、。『王の番犬』としてキングを護る手段が増えたのなら、むしろ喜ばしいことだわ」
――やはり、強い……
人間だった自分を、人間として生まれた尊厳を捨てるなど容易なことではないだろうに……この切り替えの速さは、ありのままを受け入れる強さの源は、どこにあるのだろうか。
奇しくもいつかの王と同じことを思った銀公は、穏やかな笑みを返して、一言。
「そっか」
それ以上、言うこともなければ、聞く気もなかった。
この女は、今という時の大切さを知っている。未来を見据え現在に満足する術を知る者にとっては、過去を尋ねることほど愚かなことはない。
過去に何があろうと、それが現在の自分を作り、そして今をどう生きるかで未来の自分が決まるから。
銀公にとっては、王の益となるならそれで良いのだ。それが延いては、この国――カトルディーナを護ることになる。それ以上に重要なことなどないのだから。
――だから。
「ねえ、毛皮ちゃん。着替えたら、散歩に付き合ってもらえないかしら?」
「あ? 新能力確認ってヤツか?」
「ええ、それも兼ねてルアーフィッシングをしたいのよ」
女の意図を悟り、銀公は挑発的な笑みを浮かべて了承を返したのだった。
王の指示通り、女の衣服を手配し終えたあと、補佐官は不意に溜息をこぼした。今し方見てきたばかりの、王の寝室でのことが頭から離れてくれないのだ。
呪いの刻印との完全同化、人型擬態……耳慣れない言葉の羅列。しかし、補佐官は女が刻印に喰い尽されて獣へと変化したその瞬間を目撃している。確かに驚きはしたが、その衝撃は以前ほどではない。
気になっているのは、獣が再び人型になったことではなかった。
そこではなくて――あの、笑顔だ。
花のように美しく笑うあの顔を、補佐官はよく知っている。何度も、何度も、目にしているから。
あの笑顔で呼んだ知らぬ名と、尊称。それは、ひとつの仮説を導くには充分すぎる。そしてその仮説は、今まで彼女に対して抱いた疑問を簡単に繋ぎ合わせてくれるモノ……
着ていた上質な布地のドレス、どこか気品のある立ち振る舞い、優秀すぎる頭脳、『国王』という存在への充分すぎる理解――アーバイン国王女へ向けた忠告の真意……それら全てが仮説の中に、まるでパズルのピースのようにぴったりとはまってしまうのだ。
仮説がもし本当に真実だったならば、かつて期待した通り、彼女は王を支えてくれる存在としては申し分ない。
――けれど、それはなんと残酷なことだろうか。
そんな重いものを背負いながら、何故『王の番犬』となる道を選べたのか。彼女が見せた強さの源を、誇りの在り処を疑わずにはいられない。
少なくとも、補佐官には理解できないことだった。
だから、ただ願うしかなかった。彼女が選んだ『現在』が、彼女にとって真の幸福であることを。
願わずには、いられなかったのだ……
――それを見た時、一瞬我が目を疑った。
偶然に目を向けた窓の外、階下に見える渡り廊下を歩くひとつの人影。白銀の毛皮は、王の証たる銀公。しかし、彼を肩に担ぐその頭は銀髪ではなく――黒髪。
王以外の者が銀公を担いでいる。しかも、人気がほとんどない城内の一角を。
その事実を認識した途端、近衛騎士団長は駆け出した。最悪の事態を避けるため、先回りして人影の動きを警戒する。
急ぐ様子もなくのんびりと歩いてくる人物。柱の陰に身を潜めていた近衛騎士団長の横を、普通に通り過ぎた。――その、顔は……
「、殿……?」
思わず口をついて出た名前に、銀公を担いだ人物――女が振り返った。
「あら、まあ……思いがけない人が釣れちゃったわね」
驚きを言葉(かたち)にしている声も、そのくせ穏やかに微笑んでいる顔も。確かに、記憶にあるまま……王の執務室に発生した『時空の亀裂』だという黒い雷と共に現われ、『呪いの刻印』というものによって消えてしまったはずの――その女性に、間違いなかった。
「ま、優秀な証ってこった」
「そうね。団長さんですものね」
肩に担いだ銀公と親しげに話す女。幻などではないようだが、全く事態が飲み込めない。
「一体、何故、殿が――」
「『』よ」
「――え?」
呆然としながらも何とか事情を知ろうと問い掛けた言葉は、女によって遮られた。
女は変わらず穏やかな微笑を浮かべたままで、言った。
「この姿は化け犬の擬態能力によるものなの。だからと呼ぶことに抵抗があるのなら、『』と呼んでもらえないかしら」
「擬態……わかりました、殿」
短い言葉に秘められた想いを、覚悟を汲み取ることが出来た近衛騎士団長は、静かに了承を返した。満足げに笑った女へと、改めて問いを投げかける。
「今は、ここで何をなさっていたのですか?」
「キングが出かけている時間を利用して、お散歩と称したルアーフィッシングを――ね」
「……はい?」
「この擬態能力が判明したんが今朝でよ。他の能力も何か増えてないかっての確認――つーか、ぶっちゃけ人型での戦闘力を知りてーんだろ、オマエ」
「ふふっ、当たりよ。だから毛皮ちゃんに付き合ってもらっているの。そうしたら、思いがけない相手に会ってしまったというわけ、なのだけれど――」
穏やかに続いた会話が不意に途切れた。女と銀公のまとう雰囲気が、鋭くなる。静かだった城内に、小さな金属音が幾つも踊り始めていた。
「やっと、目的の獲物が釣れたようね」
不敵な笑みを浮かべて横目で周囲を窺っていた女が、ふと顔を上げた。近衛騎士団長を真っ直ぐに見据えて、問う。
「悪いのだけれど、付き合ってもらってもいいかしら?」
『ルアーフィッシング』……その言葉の意味を悟った近衛騎士団長は、剣の柄に手を添えて笑んだ。
「ええ、もちろん。喜んでお付き合いさせていただきます」
銀公含め、三者の意志が投合して笑いあった時間は、僅か。
動きだした周囲の気配に合わせ、それぞれに地を蹴った。
墓参りを済ませ、執務室へと向かう途中のこと。
「あの、陛下……今朝のこと、なんですが……」
控えめに切り出した青年を振り返ることもなく、王は黙って足を進めた。
必要な情報は、あの時の会話でほとんど出ている。改めて語ることは多くはない。青年も大体のことは推察済みなのだろうが……かつての自分たちと同じく、信じ難いのだろう。だからこそ、はっきりと事実を知る者の口から聞きたい――と、いったところか。
青年の心情は理解できるのだが、はっきり言って気が進まなかった。
自分のことすら話さないのに、他人のことを当人の知らぬところで暴露する趣味もないのだし。……まあ、当人は図太い神経の持ち主だし、全くもって気にしないのだろうが。
しばらく進み、人気のなくなったあたりで王はやっと口を開いた。
「は、元々人間だった女だ。俺らがあいつに会った時、既にあいつの身体には『呪いの刻印』があってな」
「のろいの、刻印――ですか?」
「呪いをかけられた対象を喰らい尽くして異形の姿に変えちまう刻印なんだとよ。それ以上の詳しい事情は聞いちゃいねえが、とにかくそれのせいで、おまえもよく知るあの犬もどきになったんだ」
「そう……だったんですか……」
青年が求める情報だけを簡潔に伝え、王は再び口を閉ざし、ただ足だけを進める。
詳しい事情は、確かに聞いていない。過去に何があろうと、今の女は『王の番犬』であり、その言動が面白くて気に入っているという事実は変わらないのだし。
だから、聞く必要もない――と、そう思っていたはずなのに……
――キィンッ。
「ぐあっ!?」
不意に耳に飛び込んできた不穏な音と声に、王は足を止めた。
「今のは……」
「剣戟音のようです。侵入者、でしょうか?」
「いや、でも、俺はここに――」
否定しかけた言葉は、途中で飲み込まれた。『国王』たる己はここにいるが、『王の証』たる銀公は別の場所。刺客が狙うのは何も王の命だけではない。『王の証』を盗むという手だって――
「あの、バカ犬共……ッ」
「陛下!?」
気づいた時には、音のする方角へと駆け出していた。
戦闘が行なわれていると思われる場所は、寝室とはまったく別方向だ。盗み出された銀公を追って戦闘になったというよりは、銀公と共に部屋の外に出た女を刺客が襲ったと考えたほうが確率は高い。
間近に迫った音。勢いのまま角を曲がった――そこで、足は止まった。
「陛下? ……、殿」
追いついた青年の声を耳に入れながら、王はただその戦闘を見つめる。
銀公を肩に担ぎながら、軽やかに動く女。武器とするは、両の手。獣のもつ鋭い爪だ。攻撃をかわし、懐に飛び込み、爪で切り裂く――その動きは、まるで舞踏のよう。
近衛騎士団長と互いに背を預け合い戦う様は、騎士としても充分やっていけると思わせるほどのものがあった。
戦闘経験が全くない状態で『番犬』になったが、経験を積み、擬態能力も加わった今、その肩書きに充分釣り合うまでになったといっていいだろう。今までなら、ただ安堵していただけなのに――今は、それだけでは済まない胸中をざわつかせる何かがある。
王は深く溜息をつくとおもむろに銃を取り出し、侵入者に向けて撃ち放った。
見事命中し、倒れたそれが最後の一人。戦闘終了と、王の登場に驚き言葉を失っている三人。銃声の余韻が僅かに残るだけの静寂は長くは続かず、銃声を聞きつけやってきた騎士たちが、我に返った近衛騎士団長の指示で早々に片付けに取り掛かっていく。
ざわめきが満ちる中、銃を仕舞った王はゆっくりと彼らに近付き、声を掛けた。
「何やってんだ、手前ら」
呆れた問い掛けに対し、姿勢を正す近衛騎士団長と、にっこり笑った女。――口を開いたのは、女のほうだ。
「おかえりなさい、キング、『右目』ちゃん」
「挨拶はいい。質問に答えろ。何してんだよ」
「あら、いやだわ。今朝、言ったじゃない。自分の能力について確かめてみるわ、って」
「……で?」
「手っ取り早く知るには戦ってみるのが一番ってこったろ。オレもヒマしてたから付き合ってな」
「ルアーフィッシングをしてみたというわけよ。ふふっ、お陰で目的は果たせたから、毛皮ちゃん、返すわね」
自分の肩から下ろした毛皮を王の肩へと移す女。受け取るでもなく、ただその様子を王は見るだけ。頭の中は、今し方聞いた言葉によってぐるぐると思考が回っていた。
ルアーフィッシング、即ち『疑似餌釣り』。『王の証』たる毛皮は本物だから、この場合の『疑似餌』は恐らく女のほうだろう。――『国王』の身代わりとなり、刺客をおびき出した、ということ。
「成果としては、擬態での戦闘力が使い物になるとわかったことかしらね。能力としては、今のところ他に追加されたものはなさそうよ」
くすくすと笑いながら話す姿は、実に楽しそうだ。
だが、王の目にはそれの上に今朝のあの笑顔が重なって見えた。それと、知らぬ名前……今まで感じた疑問が全て、それの元で答えを形作った。
「そうやって、王妃としてラルクォルド王を護っていたのか……」
己を、囮とすることで――……
それが、今の『ルアーフィッシング』の言葉の真意……
「陛下……?」
怪訝な呼びかけは近衛騎士団長のもの。目を瞠り、驚愕をその顔に刻む彼の少し前で、背を向けていた女が振り返った。一瞬の無表情の後、明らかに作った笑顔を浮かべて。
「どうして、そう思ったのかしら?」
問われた言葉で、思考を声に出してしまっていたことに気付いて目を瞠る。言うつもりなどなかったのに、どうにもこの女といると調子が狂わされる。
だが、言ってしまったものは仕方がない。王は腹を括った。
「……否定、しねえんだな」
「それは……っ」
初めて、女があからさまに失言だったと表情に出した。けれど、すぐに溜息をついて冷静になったようだ。
「主に対して嘘をつくわけにはいかないでしょう?」
「別についたって、おまえの場合ばれねえだろうが。単に嘘つくのが下手なだけだろ」
「それこそ本当に否定できないわね。そのせいで大失敗しているのですもの。だから、なるべく語らないようにしていたのに……どうして、バレたのかしら」
最後はほとんど独白のようなそれに、やはり今朝のことは完全に記憶に残っていないことがわかった。
王はあからさまに溜息をつく。
「今朝、寝ぼけた手前が俺を『ラルクォルド陛下』って呼んだんだよ。ソレが決定打。他にも山ほど理由はあるが全部言う気はねえぞ、面倒くせえ」
「そう……また、失敗してしまったのね……」
俯き呟いたその顔には、諦めにも似た自嘲が浮かんでいた。
その姿が、その言葉が、真実であると告げてはいるけれど……信じ難いのは、出会って日の浅い青年と、今朝のことを知らない近衛騎士団長だろう。
「本当、なのですか? 殿」
顔を上げた女が、半信半疑といった体で問い掛けた近衛騎士団長を振り返って。
「ええ、事実よ。『』は確かに王妃の肩書きを持つ女だったわね。でも……何ひとつ護ることが出来なかった、ダメな王妃だったけれど……」
自嘲を浮かべる女の姿に、王の胸中にはざわめきが大きくなっていく。――嫌な感覚だ。
「国も、我が子も、夫さえ護れずに失ってしまったわ……ラルクの代わりに呪いをこの身に受けることは出来ても、結局彼を救うことはできなかった……」
呪いを受けた背景、事情……予測を裏付けるだけの言葉を、聞きたくないと思った。
「だから、刻印に喰い尽くされて犬に似た姿になった時は、当然の報いだと思ったのよ。何ひとつ護れなかったのに一人生き残った私が受けるべき裁きだと……」
理由のわからぬ嫌悪感に苛まれていた王を、それと知らぬ女が見据える。真っ直ぐに向いた顔にはもう、自嘲はなかった。
「その私に、貴方はもう一度何かを護るチャンスを与えてくれたのよ。わかるかしら、この意味が」
「……わかんねえよ。回りくどい言い方すんな」
ぶっきらぼうに言い放つと、女は笑った。
「私が貴方を護るのは、ラルクの代わりとしてじゃない……全てを失くした私に、失くしたはずのものをもう一度与えてくれたから……居場所を、名前を、存在意義を、新しく与えてくれた大切な人だから。貴方の願いが叶うその時を、貴方の側で見届けたいと思ったからよ」
作り物ではない、心からの笑顔。いっそ清々しいほどのそれに、またその言葉に、嫌悪感の理由がわかり――また、同時にそれは霧散した。
誰かの代わりにされるのが、嫌だった……自ら負うのは構わないが、知らぬ誰かの代わりに勝手にされてしまうのが癪だったのだ。
「だから、あの時決めたの」
思わぬ告白に目を瞠る王の眼前で、女はその場に膝をつき頭(こうべ)を垂れた。騎士がするのと同じ姿勢でその口から紡がれたのは――
「貴方だけを我が生涯の主とし、我が全ては主のものであることを誓う。主が与えし『』の名にかけて」
忠誠の、誓い。
あの時既にこれだけのことを考えていたなんて……確かに「番犬になれ」と言い出したのは王だが、これだけの覚悟をあの時から持っていたとは。
気付けなかった自分が悔しいというか……やはり一筋縄では理解できそうにない。
王はがしがしと頭を掻きながら、盛大な溜息をついて。
「しつけーぞ。んなもん一度で充分だ」
頭を上げた女は、笑っている。その顔は、こちらの心情も全て見透かしたかのよう。
これからも、この女には勝てない気がした。――だが、それも悪くない、と。
王はこぼれる笑みを隠すように踵を返した。
「行くぞ、『右目』、」
「「 はいっ 」」