――バタン、と。
背後で閉じられた扉の前に佇み、王は頭を掻いて溜息をついた。扉の向こうからは、外にいる近衛騎士の声が聞こえてくる。『王の右目』たる青年が入室を求めているのを拒んでいるようだ。
青年には『王の証』たる毛皮・銀公を持たせたので、適当なところで諦めるだろう。
青年の前任である護衛騎士の殺害嫌疑による謹慎ということで、見事に室内からは人影が消えガランとしている。しかし、室内にはまだ、王以外の気配がひとつ残っていた。
その残る気配が動き、扉の正面にあるソファーの背後から黒い毛皮の大きな獣が顔を覗かせて。
「私のことは何も言わずに行っちゃったわね、あの大臣」
獣が口を開き、人語を話した。
『王の番犬』たるこの獣は、首筋から触手を生やした犬もどきだ。毛皮が生きて喋り、尚且つ王を選定するような国においては、通常ではあり得ない姿の獣が言葉を話したとて然して驚くことではない。
王はソファーへと歩きながら、鼻で笑った。
「貴族出のジジイに、気配読む力なんざあるわきゃねえよ」
「このまま居てもいいってこと?」
「おー、居ろ居ろ。気付かねえほうが悪いんだから。暇潰しにゃ丁度いいしな」
獣の居るソファーにどっかり腰を下ろすと、王は煙草を取り出して火をつけ、背もたれに体重を預けた。
頭の位置が近付き、小声でも充分に会話ができる状態。密談には丁度いい。……まあ、密談をする気はないが、この獣が話せることを知らない者も城内には多いので、念のためというやつだ。
大臣が獣のことを何も言わなかった理由も、もしかするとそこにあるのかもしれないのだし。
そんな王の考えに気付いているのか、それとも暇潰しという言葉を拾ってか。獣が割と小声で話しかけてきた。
「そういえば、一度聞いてみようと思っていたことがあるのだけれど……」
「あん? 何だ?」
「私もあなたのこと、『陛下』って呼んだほうがいいのかしら?」
「あぁ?」
予想だにしなかった話題に、王は思いっきり眉根を寄せた。――否、眉根を寄せたのは、強く感じた違和感のせいだ。
どうにもこの獣に尊称で呼ばれると、おかしな感じがしてならない。
「何だよ、急に……」
「いえ、その……私は飼い犬で、あなたは飼い主だから……やっぱり、ねえ?」
「今更かよ……」
獣は『番犬』となってからずっと、補佐官や銀公と同じく王のことを『キング』と呼んでいる。
補佐官は、個人的に付き合いの長い悪友であるし、銀公は言わずもがな。
しかし、王と獣の関係は、誰の目にも明らかな主従関係だ。青年がそうであるように、立場的には尊称で呼び敬語を使うのが当然――なのだが、一度もそれがないのが実状だった。……忠誠の誓いは別として。
王自身、『国王』らしい振舞いをしていないからか、大してこだわっていないというのが正直なところ。注意したこともなければ態度で示した覚えもないのに、今更何を気にしているのか。
最近の出来事を思い返してみて――見つけた理由に、王は溜息と共に紫煙を吐き出した。
「無理すんな。おまえにとっての『陛下』は旦那だけなんだろ」
元は人間で、しかも王妃という経緯の持ち主がこの獣だ。全てを失い、今この場にいる。
王妃から番犬へと立場は変わったが、国王の傍らに在って護るというところは変わっていない。その中で同じ呼称を使うということに躊躇いがあったから、今まで使えずにいたのだろう。
横目で獣の様子を覗き見れば、王と背中合わせになる形で座っているため表情はわからなかったが、耳がピンと立っているあたり、沈んだりしてはいなさそうだ。だが、返答はない。
王は昇っていく紫煙へと視線を移し、ぼんやりと眺める。
獣の問い掛けに対する王の率直な気持ちとしては、現状維持が好ましく思えた。理由の大半は拭えぬ違和感のためだ。
――だが、その違和感を感じる原因は……?
答えは、呆気ないほど簡単なものだった。
「その気持ちは、わからんでもないしな……俺も」
「……キング?」
「俺にとっての王は、ゾーイ――先王だからな……『陛下』って呼ばれんのは、未だに違和感あるぜ」
先王に変わって『王の証』を背負うと決めたのは、他でもない己自身。だが、それでも違和感を覚える。心のどこかで、拒否する思いがある。
自分は、国王ではない――と。
恐らくそれは、獣の内にある思いと同じカタチ。
「そう……私たち、似ているわね……とても……」
「……だな」
静かな獣の声に、王も小さく同意を返す。
宙へと投げた視線の先に映るのは、今はいない大切な存在。王は先王の姿を、獣は夫の姿を。互いにそうとは知らずとも、同時刻に二人は同じように想いを馳せた。
無意味なこだわりだとわかってはいても、譲れない想いがある。越えることの出来ない壁や溝もある。それは決して消えない傷跡のように、胸の内に在り続けるモノ。
それでも――
「慣れていくしか、ねえよな……自分で決めた道なんだからよ……」
これだけは、決して変えたくないと思える己の誇り――でもある。
だから、背負って生きるしかないのだ。どれだけつらくとも、背負っていくしか……
「――……?」
不意に頭に触れてきた手の感触に目を向けると、黒髪の女が立っていた。――獣だ。衣服を着た状態での擬態変化が出来るようになったらしい。
女は穏やかな微笑を浮かべたまま、優しく王の頭を撫でてきて……王はしかめっ面になった。
「なんで、いきなりガキ扱いしてんだよ」
「私の願いは貴方の望みが叶うこと。私の全ては貴方のためにある。貴方の進む先が、私の生きる道よ」
質問に対する答えの代わりに返ってきたのは、いつぞやの忠誠の誓いと似た内容の言葉。今このタイミングでそれを口にした意図は、遠回しな返答に他ならない。
そしてそれは同時に、己の弱さを認めてくれる言葉……同じ痛みを知るが故に、弱さを認め、包み、進む道を共に歩み、支えるのだという意思表明。
ずるり、と。背もたれに沿って王の身体がずり下がった。
情けないったらない。同じ痛みを抱える似た者同士でも、女のほうがずっとつらいだろうに。慰められてしまうとは……
『母』という存在が持ち得る強さを見た気がして、王は頭の上にあった女の手を取り己の左目の上に押し当てた。
「……はっ……飼い主をガキ扱いする奴に今更尊称で呼ばれたって、嫌みにしか聞こえねーよ」
「それも、そうよね。今更変えるのは私も違和感があるし、補佐官も凄い顔しそうですものね」
女の強さにすがりながら強がってみせるという、非常に情けない状態。それでも女は、変わらぬ態度で返してくれた。
情けない――けれど、確かに救われるのも事実。
ぎゅっ、と。最後に一度だけ女の手を握り締め、それから放して後ろへと首を傾ける。いつものように挑発的な笑みを浮かべて。
「おまえはそうじゃねえとな。こっちも調子が狂うぜ」
完全に元通り。けれど内に抱える思いには、僅かに変化があった。
目的も願いも変わってはいない。この傷跡のような誇りを背負って歩んでいくだけ。
けれどその道を行くのは、一人ではない……ただそれだけの事実が、ひどく心強かったから。
目的を達するためにも、今起きている問題を片付ける。裏切り者を――洗い出す。
その決意を、女の存在に支えられ、王は改めて固めた。