「あら、近衛騎士団長さん」
城内の一角。人通りの途切れた廊下で、やわらかな女性の声に呼び止められた。このような気安い調子で呼びかけてくる女性など、限られている。
ゆるりと振り返れば――案の定。大きな漆黒の獣が一頭いて……近衛騎士団長は疑問を僅かに表情に出した。
「殿……お一人とは珍しいですね」
「今は『右目』ちゃんがいてくれるから、昼間に私がずっと側についていることは減ったわね」
大概、王の側を離れることがないはずの獣が、今は単独。銀公もいないので、いつぞやのルアーフィッシングでもなさそうだ。
一体どうしたものかと思いきや、答えは実にあっさりしたものだった。
「それよりも、私に対してまで敬語は必要ないと思うのだけれど……今は特に単独(ひとり)ですし」
「いえ、それは……」
「飼い主が国王だと、やっぱりそうもいかないものなのかしら」
「そのように納得していただけると助かります」
『王の番犬』という肩書きを持つこの獣は、王を守護する役目にある。しかし、『王の証』である銀公のように、ずっとこの国にいた存在ではない。ある時期、護衛騎士を側に置くことを拒んだ新王が、その代わりとして飼い始めたものだ。――名目上は。
王の真意は知る由もないことだが、獣自身はその役目に誇りを持って忠実に働いていた。……少なくとも、近衛騎士団長の目にはそう見えていたのだが――何故。
今、王の側には護衛騎士がいる。傭兵上がりの上に、王がその右目を犠牲にして庇ったことで『王の右目』となった青年が。
いくら護衛騎士が側につくようになったからといって、何故こうも簡単に王の側を離れることができるのだろうか。王に対するあの忠誠の誓いは、単なる形式上のものだったというのか。それ以前に、己の立ち位置に新参者が現われたことに対しては、何も思うことはないのだろうか。
次々に浮かんだ疑問が、獣に対する好奇心へと変わったのは、すぐのこと。
「ところで、今お時間はございますか?」
「ええ、あるけれど……?」
「少し、お付き合い願いたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「……? ええ、構わないわよ」
突然の申し出に首を傾げつつも了承を返してきた獣へ笑みを返し、近衛騎士団長は己の執務室へと獣を案内した。
「よろしければ、どうぞ」
「まあ、私にまでお茶を淹れてくれたの? ふふっ、ありがとう。久し振りだわ」
席を勧めても床に座ったままだった獣に、カップに注いだ紅茶と砂糖菓子を出してテーブルに置いた。すると喜色を浮かべたあと、見る間に人間の女性の姿へと変化して椅子に腰を下ろし、紅茶に口をつけた。
まず香りを楽しみ、そして味を楽しむ。流石に元王妃というだけあって、所作(しょさ)が優雅だ。
獣姿のままでいられるより人間の姿のほうが話しやすいし、細かな表情を見つけるのにも向いているだろうと思ってのことだったのだが、正解だったようだ。
久し振りの紅茶を味わう女を観察していた近衛騎士団長へ、カップをソーサーに戻した女が問いを投げかけてきた。
「それで、何のご用かしら?」
「実は……あなたの故郷のことを教えていただけないかと思いまして」
「――……」
用件を聞き、女は言葉を失ってしまった。
……時空の亀裂によって、遠い異界の地からこの国へとやってきた稀な存在。元いた世界でかけられていた呪いによって化け犬へと変化し、更に再び人間の姿への擬態能力を得た者。
近衛騎士団長が知る彼女の経緯はこれだけだ。彼女に関する様々な疑問を解き明かすには、過ごしてきた環境を把握するのが手っ取り早い。
異世界という存在に対する興味もあって、この形となったのだが……
「…………ああ、近衛から裏切者が出てしまったものね。素性の確認はしなきゃいけないわよね」
用件と肩書き、そして近況から推察したのだろう。女は勝手に勘違いしたまま、納得している。
確かに、裏切者の存在が明らかになり、近衛騎士全員の身元確認はしているところだ。口実としては丁度いいし、あえて訂正はしない。
「話しにくいとは思いますが、できることなら教えていただけませんか?」
「そうね……もし私がいた国がこの世界の遠い過去だったのなら、調べることができるかもしれないものね。……簡単になら構わないわ」
「ありがとうございます」
「何か書く物はあるかしら? 地理は書いたほうがわかりやすいでしょう?」
「はい、お願いします」
求めに応じて紙とペンを差し出すと、すぐに女は筆を走らせた。白紙の上に踊る線がいくつかの囲いとなり、その中にいくつもの文字が書き込まれていく。
その文字は、間違いなくこの国のもの。書く速さは、生まれた時から慣れ親しんだ者と大差はない。
女にとって全くの未知である言語を、この国での一般常識と共にたった七日間で覚えたのだと、以前補佐官から聞いたことがあった。言葉としては、実際に聞いていたので知っていたが、文字は今が初めて見た。……やはり、その優秀さには驚くものがある。
相手の事情を察する洞察力や多方面から物事を見ることのできる力、求められたことに的確に応じられる頭の回転の速さもかなりのものだ。
教養の域を遥かに超えるこれらの能力は、『王妃』という立場からきているのだろうか。
観察を続ける近衛騎士団長の視線の先で、地図は完成に近づいていた。ある一角が、随分と細かく文字が書き込まれている。――と、女がペンを置いて紙を近衛騎士団長のほうへと向けて置き直した。
「はい。覚えている限り、世界地図はこのような形だったわ。ラルクの国はこの大陸のこの辺り。名前はラスティカ国。第五代国王がラルクよ。ラルクォルド・フェレスト・ラスティカ」
「第五代国王……新興国だったのですか?」
「ええ、この周辺はみんなそうよ。ほら、土地も小さいでしょう? ここ一帯の小国は互いに同盟を結んで繋がりを強めることで、周辺の大国と対等に渡り合う力とし、身を守っていたのよ」
例の細かく書き込まれた場所を指して、女が説明した。言葉通り、小国群を全て合わせると、土地面積だけなら大国に匹敵する。主に北側に大国があり南側に小国が多数あるという点では、カトルディーナ周辺と似てなくもない。しかし大陸の形などは全く違い、この世界の過去と考えるよりは、完全な別世界と判断したほうが良さそうだった。
不意に女の指が止まり、沈黙が降りた。見ると女は紙面に視線を落としたままで。
初めに、簡単になら構わないと女は言った。簡単な説明というなら、確かにこれでも充分と言える。彼女がいた国と国王の名前、そしてその国が置かれていた状況はわかったのだから。
だが彼女なら、終わりならそうと告げるだろう。そうしないということは、まだ何か言う気がある……若しくは言うか迷っているのではないか。
その推測が正解だと告げるように、女は再び口を開いて。
「……私が生まれたのも、そんな小国の中のひとつの王家だったわ」
「それ、は……まさか……」
「そうよ。アーバイン国のフォトナ殿下と同じ境遇だったの」
アーバインの王女が、カトルディーナ国王暗殺を企てた件は、当然近衛騎士団長も報告を受けている。王位継承権優位なる男児の誕生によって、姉である王女は同盟締結の人身御供として嫁に出されることになり、それに反発。『国王』になるために彼女はカトルディーナの玉座を狙ったのだった。
その暗殺が未遂に終ったあと、王女へと獣が何事かを話しかけていたと部下から聞いた。そのあと、偶然機会があった際にその内容を補佐官から聞いており、もしやと思ったのだが果たしてその通りだったようだ。
顔を上げた女は――笑っていた。偽りではない、笑み。
「私もまだ若かったから、相当反発したわね。王家に生まれた者として、国を護るための犠牲となる覚悟はしていたから嫁ぐこと自体は拒まなかったけれど、ラルクに対してはとことん反発したわ」
「……お世継ぎ問題、ですか?」
「それも含めた『妻』としての役目のほとんどを――かしらね。そうやってあからさまに嫌だと示しているのに、ラルクは怒らなかったのよ。ただの一度もね。初めて会った時から変わらず、優しく大切に扱ってくれたの。どうしてそんな風にできるのかわからなくて……理由を知りたくて彼を観察していくうちに、ね……いつの間にか、私は彼を愛するようになっていたのよ」
伏目がちに語る女の顔は、穏やかだ。懐かしさと、優しさ……幸せだと如実に語る笑みを浮かべていて、それが彼女の持つ亡き夫への愛情の深さに思えた。
そして、その愛情の故に、現状を甘んじて受け入れたのか――と。
「呪いを、代わりに受けても構わないほどに――ですか?」
確かめるための問いには、笑顔が返ってきた。
その通りだと口にするのは少し気恥ずかしいように笑った女は、カップへと手を伸ばす。
「あら、やだ。ごめんなさい、ただの惚気話になっちゃったわね」
「いえ……」
こうなる気がしたから語るか迷っていたのか。
今度こそ本当に彼女から語られることはなさそうだと思い、近衛騎士団長は更なる情報を求めてこちらから問い掛けてみることにした。
「ひとつ、伺っても構いませんか?」
「答えられることであれば、どうぞ」
「ラスティカ国周辺の人々は、あなたと同じ黒髪碧眼の方が多いのですか?」
「え……いいえ? ラルクは茶髪茶眼だったし、髪も目も色は様々だったわ。どうして?」
逆に問い返され、軽く目を瞠る。
あれだけ頭の良い女が、本気でわからないようだ。ということは、余程馴染みのないことなのか。
「民族色からも、出身地を割り出すことができますから。……そういう遺伝的なものはない世界だったのですか?」
「……いえ、あったと思うわ。私の両親は私と同じだったし……ただ、この新興国群は、様々な土地から来た人々が開拓した場所だったから……そう、民族色……カトルディーナに銀髪碧眼が多いのも、民族色なの?」
「はい。北の大陸における民族色の大部分は黒髪紅眼ですので、『右目』殿もおそらくは……」
新たな知識を得て、的確に問い掛けてくる女。その知的な眼差しを受け、スポンジのように吸収する様を目の当たりにすると、更に教えたくなってくる。
思いがけずに補佐官と同じ気分を味わうことになり、女にとって最も馴染み深いであろう青年を例に出して与えた情報だったのだが――
「『右目』ちゃんのことも調べたの?」
「いえ、彼のことは陛下が調べるなと……ですから、わかるのは北部の生まれか、それに近しい血を引いている可能性が高いということだけです」
答えを聞いた女は、じっと近衛騎士団長を見つめてきた。
女のことを聞きたくて招いたはずが、いつの間にか青年のことで質問を受けていると気付いたのは、この時だった。そして……
観察しているというより、まるで心まで見透かされそうに感じた女の眼差しを苦手だと思った――刹那。
「……調べられないのは、歯がゆい?」
「それは――っ、…………」
答えに詰まり、初めて己の首を絞める情報を与えてしまったのだと知った。苦手だと感じた直感も的中、見事胸中を言い当てられてしまって……どう言い繕えるというのか。
近衛騎士の中から裏切者を出してしまった責任を感じているのは事実だ。大臣の推薦というだけで信用し、身元確認を怠った落ち度は、確かに団長である己にある。
だからこそ、王の近くに勤務する全ての騎士の身元を確認しておきたかった。二度と同じ過ちを繰り返さないために――取り返しのつかない事態を、避けるために。例え、王の命令に背いたとしても、護衛騎士である青年の素性も調べたい――と。確かにそう、思っていたから。
傭兵という職業自体が信用できないものだというのに、青年はそれ以外のことが全く不明なのだ。名前すら、名乗っていない。いくらこれまで王を護り抜いてきたとはいえ、それだけで信用するなど到底できない相談だった。
そこまで考えて、ふとあることに気付いた。――ならば、目の前にいる女のことはどうなのか、と。
異世界など、青年の素性以上に調べられるはずがないのに、己はこの女のことを今の今まで疑いもしていなかったのではないか――と。
「もし、あの子がキングにとって害になる存在になったのなら、その責任は私にあるわ」
動揺の理由が別のものへと変わったことなど知る由もない女の言葉で、近衛騎士団長は己の思考の中から現実へと意識を戻した。
女の言葉を理解した上で、疑問の眼差しを向ける。
「殿に、ですか?」
「ええ。あの子とキングが出会うように仕向けたのは、私だもの」
初耳の事実に目を瞠ったのは一瞬のこと。衝撃はすぐに引き、次いで怒りにも似た思いが湧いてきた。
「何故そのようなことをなさったのですか?」
「護衛が必要だと思ったから……私だけでは力不足だったもの。でも、近衛騎士の中から護衛を置くのは断固拒否していたでしょう?」
「それで傭兵ですか? 傭兵という存在の危険性はご存知だったのですか?」
「もちろん、傭兵だからという理由で選んだわけじゃないのよ? 腕がいいのは当然だけれど、それ以上に精神的にキングの支えとなり得そうな者を……カトルディーナ国王にではなくて、キング自身を慕う可能性がある者をと思って見つけた子が、たまたま傭兵だっただけで……」
「傭兵は、金次第で簡単に裏切ります。その判断基準は間違ってはいませんが……彼は、陛下を慕う可能性があったということですか?」
女が言った判断基準は、確かに間違いではないと思うし、護衛の存在を必要だと思っていたのは己だって同じだ。
しかし、他人の心などという不確かなものを、どのようにして判断したというのか。
近衛騎士団長の問いに女はどこか一点を見つめ、当時を思い出しているようで。
「……初めてあの子と正面から向き合った時、まるで自分を見ているような気分になったわ。あの子の瞳には、私と同じモノが映っていたのよ」
「殿と同じモノとは、一体何なのですか?」
「んー……」
何故、そこで悩む。やはり、全て偽り――作り話だったのか。
一度疑い出すと、全てが嘘に思えてしまい、口調は敬語を崩さずともどこか強くなってしまう。
そんな近衛騎士団長の思いとは裏腹に、女は穏やかに落ち着いたままで断りを入れてきた。
「これは私が勝手に思ったことであって、『右目』ちゃんから話を聞いたわけではないから、不確かなことよ?」
「わかっています。それでも構いませんから、お教え願えますか?」
「……あの子は多分、大切なモノを失っている。そして、孤独だったのよ。私が家族も故郷も失い異界の地へ放り出されてしまったように、あの子もきっと帰るべき故郷(ばしょ)を持っていない。名前を名乗らないのも……おそらく、名乗れないからではないのかしら……」
同類、または同業者のことは、会った瞬間にわかるという話は、割とよく聞く。近衛騎士団長とて、身に覚えのあることだ。
同じニオイをまとう者……同じ重荷を背負う者。感じ取った同類の気配が判断の決め手ということか。
「だから、ね? 新たな名前を、居場所を、存在意義を与えてくれたキングを、あの子は決して裏切れない。私がそうであるように……これが、私があの子をキングに引き合わせた理由。そして、あの子を信頼している理由よ」
――わからなくはない。
判断基準も、己の経験に基づく女の言い分も。自分に置き換えて考えてみても、恐らく王を裏切る気になどなれないと思うし。
だから、わからなくはない。わからなくはないのだけれど……受け入れることは、できなかった。
気付いてしまえば、もう気付かなかった頃には戻れない。青年も、女も、素性が不確かで証明できるものは何もないのだ。
信用に値するものに欠けている状態。それなのに――何故。
それでも己は、この女を信用したいと思っているのか。
自分自身の心が理解できずに戸惑っていると、どう解釈したのか女が似たようなことをもう一度言ってきた。
「万が一にもあの子が敵になるようなことがあったのなら、その責任は私が取るわ」
「……どうするつもりなのですか?」
「キングを護るだけよ? 私の命が尽きるその時まで、私の主はキングただ一人だもの。彼の望むまま、彼の全てを護る――それが『王の番犬』・の存在意義だから」
真っ直ぐに近衛騎士団長を見据え、女は言い切った。その姿と――瞳を見た近衛騎士団長は、己の心を理解することができた。
それは――先程、女が言ったことと全く同じだった。
女を信用したいと思った理由は、女が持つ王への忠誠と己の存在意義――責務を全うする覚悟が、自分と同じものだったからだ。
忠誠の向かう先が同じならば、敵とはならない。意見の違いから対立することはあっても、敵対することはない。
だから信用できる――と。そう思うことは簡単だけれど……それで青年まで信用してしまっては、裏切者・クーガーの時の二の舞だ。だから――
「私は……手放しで彼を信用することはできません」
近衛騎士を束ねる者としての判断を間違うことなく下した。それが女自身への不信と取られたとしても、己の取るべき道であると自負しているから。
すると女は、気にした様子もなく優しげな微笑を浮かべて。
「団長さんって、損な役回りね。身内でも、信じる前に疑わなければならないんですもの」
理解を持った言葉を、向けた。
真実を知る者、己の心を理解している者がいるということの心強さを、改めて知った。自分の選択は間違っていないと、確信をもてた。
だから、応える。その、想いに。
「陛下を護るために全ての可能性を考慮し、全力を尽くす――それが、近衛騎士団団長である私の存在意義ですから」
信じるためには、まず疑うのが己の役目。信じたいのなら、疑いをひとつひとつ潰していけばいい。
女が黒い雷と共に現われた場面を目撃している。時空の亀裂、異世界という存在を示した銀公の言葉を頭から否定しているわけではない。ただ、証明したいのだ。
今日、女から得た情報を調べればいい。女が言った国名や歴史が見つけられなかったのなら――それが女がこの世界に属さぬ者であるという証明になる。
一人になった室内。好奇心半分責務半分の状態で、近衛騎士団長は歴史書へと手を伸ばした。