第 0 標
運命の出逢い

 の趣味兼日課はジョギングだ。
 時間を問わず、決まったコースもない。暇さえあれば護衛代わりの番犬ドーベルマンとともに、気の済むまで神奈川県内を走っている。
 何故そんなに走るのかと問われれば、体力作りというのが答えのひとつとして挙げられる。だが、別にスポーツをやっているわけではない。
 ジョギングの一番の目的は――走っている間は余計なことを考えずに済むから、だ。
 答えの出るはずもない問題に頭の中が占拠され始めるとは、それを忘れるため、気持ちをリセットして己の精神安定を図るために走りに出るのだ。
 他の方法もいろいろと試してはみたのだが、これが一番効率的且つ効果的で、性に合っていたため、今では趣味であり、また日課にもなってしまっていたのだった。

 この日も、そんないつもの日常の中にあった。
 何の変哲もない日常の中の、取るに足りない小さな出来事。
 にとってはそんなものでしかなかった。少なくとも、この時は――

「は、はっ……はぁ……っ」
 休日の夕暮れ。青空の下で家を出て、気付いた時には夕焼けももう半分しか残っていないような時間にまでなっていた。
 それだけ長い時間走れば、流石に息も上がる。
 たまたま目についた公園に入り、は水飲み場で自身と愛犬の喉を潤して少しの休憩をとっていた。
 呼吸も整い、軽くストレッチをして、家まで再び走り出そうとしたその時。ふと聞こえてきた馴染みのある音に、何の気なしに足を向けてみた。
 道形に進むと、木々の先にはひとつのテニスコートが現れた。どうやらストリートテニス場のようだが、人影はない。けれど、ボールを打つ音は等間隔で聞こえてくる。
 耳を澄まし、音源に向かって更に足を進める。テニスコートの少し先に見えてきた壁打ち場にて、音の発生源を見つけることができた。
 癖の強い黒髪の、一人の少年だ。幼い顔立ちと身長から見て小学生か、若しくは入学したての中学生といったところか。夢中で壁打ちに取り組んでいる。
 壁打ちは、一人でするテニスの練習としてはよく知られている。ボールをラケットで打つという行為に慣れることから始まり、フォームを作り、点検することや、ボレーやスマッシュといった基本的な練習を積むことができる。初心者から上級者まで、幅広く利用されている練習法だろう。
 彼の少年は、がその音を捉えてからずっと、途切れることなく一定のスピードで球を打ち続けている。見たところ正しいフォームも身についているようだし、初心者ではない。
 ただ一点、普通でないところがあるとすれば、打つ度に左右に大きく走っていること。
 コントロールに難があるということではなさそうだ。何故なら、ボールは壁の決まった一点にしか当たってはいないから。つまり少年は、わざと左右に走るようにボールを打っているのだ。
 打ってはすぐに走り、返ってきたボールを打ってはまた走るという繰り返し。珍しいその壁打ち練習は、脚力と瞬発力を鍛える目的か。汗だくな様子から、もう随分と長く続けていることが窺える。
 綺麗な姿勢とインパクト音。充分に間に合う動きは、決して悪くはない。
 悪くは、ないのだが……
「惜しいな。重心移動を2度先行させれば、もっと楽に動きを繋げるだろうに……」
 の目には、余計な力がかかっているのが見えてしまって、思わず呟いた。
 けれど、少年は赤の他人。自分は単なる通りすがり。
 わざわざ話しかける気など毛頭なく、は踵を返して走り出し家路についた。



 切原赤也は焦っていた。
 王者と歌われる強豪校である立海大学附属中学校のテニス部に、憧れ、また野望を抱いて入部した。幼い頃よりテニススクールに通い、同年代どころか高校生にも勝てる強さを身につけていたからこその、野望……全国一の学校で、No.1になるという野望は、入部早々に崩れ去った。それも、三人の鬼才によって破られたのだ。
 たった一年しか違わないのに、自分よりはるかに強い先輩たち。No.1になるには、この三人を倒さなければならない。
 テニススクールから、元プロテニスプレイヤーが指導しているテニスクラブへと移り、部活とは別に指導を受けるようになったが、思うように強くはなれなくて。――否、客観的に見れば確実に力はついているのだろうが、それはあの三人も同じであって、差が全く縮まっている気がしないのだ。
 それでは全く意味がない。あの三人より強くならなければいけないのだ。もっと、強く……もっと、早く――っ。
 その焦りがミスを呼び、余計に苛立つ悪循環。けれどテニスをしないこと自体がストレスになるため、テニス以外にストレス発散方法も見つけられなくて。
 部活もクラブも終わった日曜日の夕方、自宅近くの公園で一人延々と壁打ちをしていた――その時のことだった。

「惜しいな。重心移動を2度先行させれば、もっと楽に動きを繋げるだろうに……」

 聞こえてきたのは、小さな呟き。ともすれば掻き消されてしまいそうなそれを拾えたのは、途切れぬ集中力によって神経が研ぎ澄まされていたために他ならない。
 ボールを追う体はそのままに、一瞬だけ目を周囲に走らせ――見つけた、人影。
 薄暗くなった中でもわかる明るめの茶髪が、一番印象に残った。背は、恐らく赤也より高い。しかし、見えたのは後ろ姿だけ。髪も短く、男か女かも判断できなかった。
 他に人影はない。ということは、声の主はその人であり、その内容は赤也のことを示していることは間違いないだろう。
 けれど――よく、わからなかった。重心2度なんて、具体的にはどうすればいいというのか。
 苛立ちが更に募った。だが、赤也の思いはとにかく強くなることに傾いていたため、それで何かが変わるなら、と。わらをも掴むような気持ちで、彼の人物が残した言葉を物にしようと試みることにした。
 とはいえ、やはり具体性は何もなく、自分の感覚だけが頼りとなる中では、そうそう上手くいくはずもなく。色々と試してはみたが、何の手応えも得られなくて。
「く、そ……っ!」
 半ばヤケクソで打った、その後。
 ――ふっ、と。
「あ――……」
 一瞬、体が軽くなった気がした。
 ほんの僅かな、小さな変化。気のせいではないことを確かめたくて、再度チャレンジするが、なかなか上手くいかなかった。それでも続けて、何度目かで再びあの感覚が。
 あの人の言葉通り、随分楽になった気がする。無駄な力が抜けたとでもいうのか……その感覚が何故だかとても新鮮に思えて、疲れも忘れてそれを完全に捉えようと何度も挑戦を繰り返す。
 一回、二回、三回――と。何度かその感覚を捉えコツをつかめた頃、赤也の心から苛立ちは消えていた。

 その日から赤也は、部活やクラブの後にその公園に立ち寄り壁打ちをするようになった。
 目的は、壁打ちではなく、彼の人物にもう一度会うため。
 ジャージを着て走り去った、その人。多分ジョギング中だったのだろう。習慣的に走っている人なら、待っていればもう一度会える可能性は高い――と踏んだのだが……
 残念ながら、会うことはなかった。休日だけという可能性も考え、翌週の日曜日の同じ時間にも行ったのだが、待ち人は現れなかった。
 丸一週間通い続けて、全く収穫がないまま訪れた二週目の月曜日。
「……はあ~……」
 肩を落とし、重い足を引きずるようにして登校する赤也の姿があった。
「全っ然、会えねぇー……あ~、なんか一回ぽっきりしか会えねえとかいう言葉があったなぁ……いっきいっかい?」
「それって、ひょっとして『一期一会いちごいちえ』のこと?」
「そう、それ!」
 朝練が終わって、一緒に校舎へと向かっていた同じ一年生の一人が半ば呆れたように聞いてきた言葉に、即座に同意を返した赤也。
 さらに別の一人が呆れ返って言った。
「おまえ、それでよくこの学校入れたな」
「うっせえよ!!」
 どっと沸く笑いが、沈んだ気持ちをほんの少しだけ浮上させてくれる。
 つられて浮かんだ笑みは、次の瞬間にはまた消えてしまったが。
「というか、誰に会いたいの?」
「テニス一筋のバカ也が一目惚れでもしたか?」
「バッカ! ちげえよ!! オレは今でもテニス一筋だっての!!」
 なんて勘違いをしてくれるのか、と思ったものの、よくよくこの一週間の自分の行動を思い返してみると、それは名も知らぬ相手に一目惚れしてもう一度会いたいと願う女子となんら変わりないことに気付いてしまった。
「じゃあ、よっぽど強い相手にまたボロ負けでもしたか――って、何してんだ?」
 何故か妙に情けない気持ちになって、思わずしゃがみこんで頭を抱えていると、怪訝な声が降ってきて。
 溜息をひとつこぼして立ち上がる。
「負けてねえし、なんでもねえよ。つーか、またとか言うな」
「じゃあ、何があってそんなに会いたがってるワケ?」
「アドバイスくれたんだよ、その人」
 その人物にとってはただの独白だったのだろうが、そのお陰で赤也が一歩成長できたのは事実。テニスをしている人なのかはわからないが、少なくとも運動関係の知識と経験があるのは確かだろう。
 だからこそ、もう一度会いたいのだ。
「あー、うん、納得」
「そりゃ確かに会いたいわな。おれだってアドバイス欲しいぜ」
「やっぱそう思うよなぁ……でも会えねーんだよ!!」
 気持ちばかりが募り、思う通りにはならない現実に苛立ちすら湧いてくる。これでは一週間前と何も変わりがない。
 い゛ぃーっと唸りつつ頭をがしがし掻いて苛立ちをやり過ごし、大きく息を吐いて何とか気持ちを落ち着けることに成功した。――まあ、落ちすぎてまた沈んでしまったが。
「ホントに一期一会だったのかもね。切原君にとっては良い結果があったんだから、それでいいことにしておけば?」
 その沈んだ気持ちに更に追い打ちをかけてくれる、蓮井充はすいミツル。こいつは本当に中学一年生かと疑いたくなるほど、達観したことを言う。
 だが、赤也にはそのような大人の考え方はできない。
「イヤだね、ぜってー諦めたくねえ……オレは、No.1になるんだ!!」
 自分の望みははっきりしている。そして停滞していた歩みを進めさせてくれた者がいるのだ。それで、どうして諦めることができようか。
 決意を新たにした赤也の肩に、ふたつの手が置かれた。
「じゃあ、本末転倒にならない程度に頑張るといいよ」
「人捜しにかまけて練習忘れて、おれらに追い越されるなよ」
 充の言葉に一瞬疑問符が浮かんだが、次に続いた片平諒一かたひらリョウイチの台詞で思いっきり頭に血が昇った。
「追い越されるわけねえだろ!!」
 怒りのまま叫ぶも、二人はひらりと手を降ってそれぞれの教室へと行ってしまった。
 心配してくれての台詞なのだろうが、生憎とそれに気付けるだけの頭は赤也にはない。腹を立てたまま上履きへと履き替え、廊下を進んでいった。
 部活やクラブを優先させるのは当たり前だ。第一捜そうにも、顔も知らないし性別すらわからないのでは捜しようがない。わかっているのは、明るい茶色の髪と、赤也より高い身長と、そして声だけなのだ。
 改めて思い返してみて、手掛かりのあまりの少なさに気付き、赤也は自分の気持ちが急速に萎えていくのを感じた。けれど諦めたくない思いが勝り、頭を振って消極的な感情を振り払った。
 その赤也の目の前を一人の男子生徒が早足で横切っていき、赤也の意識は現実へと戻ってきて。――そして、拾った。ひとつの会話。

ー! 丁度よかった! この英文の訳教えてくれ! 一限英語で俺当たるんだよ!」
「上西……この学校は文武両道が原則だろう? 成績が悪いと部活動禁止になるのではなかったか? バスケ部のエースがそれでは、皆が困るだろう」
「だから教えてくれって頼んでるんだって」
「自分でやらねば身につかぬと私は言っているのだがな」
「テストまでには自分でやって覚えるから! な、頼むって!」

 先程、赤也の前を横切った男子生徒が廊下の先で頭を下げている。それは別にどうでもいい。問題は、その相手だ。
 この声、この喋り方……一週間前の彼の人物に間違いない。まさか、同じ学校内にいたなんて……
 思いがけなく見つかった目的の人物。あまりに唐突だったため、赤也は目を見開いたまましばし固まってしまっていた。
 けれど、その人物が男子生徒と別れ、歩き去ろうとしたところで我に返り、その背を追いかけて走り出していた。
「ま、待ってください! そこの……あのっ、、さん?」
「……ん?」
 先程の男子生徒の呼び掛けを思い出して声をかけると、その人は立ち止まり振り返った。
 近付くことで、より鮮明に見える容姿。身長は確かに赤也より高く、中性的な顔。しかし着ている制服は女子のもので、やっと性別もわかった。何より目を惹いたのは、髪と目だ。光の下で見る髪は金に近い茶色で、そして瞳は海のような深い青――純粋な日本人ではなく、西洋の血を引いていることが窺える人物だった。
「何か用か?」
 思わず目を奪われていた赤也は、問いかけで我に返る。
「あ、あの、一週間前、公園のテニスコートで声掛けてくれましたよね?」
「…………ああ、あの時壁打ちしていた子供か」
 一瞬、考えるように沈黙した彼女は、すぐに思い出したのか呟いた。
 その自分を示す表現に、赤也はがっくりと肩を落とす。
「子供って……」
 確かに目の前の人物と比べれば10センチは低いだろうけど……まだまだこれから伸びるはず――と、横道に逸れた思考を戻すため、姿勢も正して。
「オレ、一年の切原赤也っス」
「私は二年のだ。声を掛けたつもりはなかったのだがな……聞こえたのか」
 自ら名乗ることで、相手も名乗ってくれた。年齢と名前もわかった後、彼女――は独白に近い形で問い掛けてきたので、赤也はしっかりと頷き肯定を返した。
「はい! あの言葉通りになるように自分なりに色々試してみたんス。そしたらホントに楽に動けるようになって、今まで上手くできずにいた一本足でのスプリットステップもできるようになったんスよ! ありがとうございました!!」
 どうしても言いたかった、停滞していた成長を促してくれた感謝を、まずは伝えて深く頭を下げた。その頭を軽く叩くように手が乗せられて。
「いや、それはおまえ自身の努力の結果だ」
「でも! どうやっていいのかもわからなかったオレに、そのヒントをくれたのはあなたです!! 先輩のヒントがあったからこそ、できたんス!!」
「……そうか……役に立ったのなら何よりだ」
 感謝を受け取ってくれないに、それでも彼女のお陰だと思っていることを主張すると、苦笑しながらではあるが受け入れてくれた。
 安堵に浮かんだ笑みはすぐに鳴りを潜め、赤也は少し俯き加減になる。
 まさか同じ学校の、しかも一学年しか違わない先輩が探し人だとは思っていなかった。喋り方やその内容から、高校生か、若しくは社会人かと思っていたのだ。
 けれど――同じ中学校にいるのなら、好都合、と。
 赤也は心を決めて、顔を上げた。
「あの、先輩は何か運動系の部活やってるんスか?」
「いや、部活は文化系だが?」
 疑問を含んだその答えに、赤也は本題を口にした。

「お願いします! オレたちテニス部のマネージャーになってください!!」

 目を瞠り驚きを表わすの顔が、ひどく印象的だった。