曼珠沙華~二人の決着~
後編


 ――コツン、コツン、と。
 駅から少し外れた位置にある、取り壊し直前の廃ビルに足音が響く。
 駅前の喧騒も届かないビルに異様なほど反響していたそれは、不意に止んだ。
 足音の主・ハヤトは、日の光も力を減じられて薄暗いビル内の、更に深い闇を睨みつけて。
「いつまでそうしているつもりだ」
 厳しい呼び掛け。
 しばし後、不気味な笑い声が響いて、何もなかった闇に青白い肌の男が現れた。
「久し振りだなァ、はぐれ野郎」
 姿を現したのはハヤトのよく知る人物。白い肌、銀の髪、赤い瞳。聞き馴染んだ声と呼び名。すべてが記憶にあるままの、バノッサ。
 いい思い出などないその相手だが、それとは全く別の理由でハヤトは顔をしかめる。
「同じことを言わせるな。そんなことをしても俺には通じないぞ。おまえは、バノッサじゃない」
「ほォ? 俺様が俺様じゃねえってんなら、何だってんだ?」
「……魔王だろう。バノッサの姿を模しても無駄だ」
 確信を込めた答え。しばしの睨み合い。
 やがて、バノッサは喉を鳴らして笑い始めて。
「クックック……流石におまえはそう簡単に騙されてはくれないか。なァ、誓約者?」
 バノッサの姿をした魔王は、その事実をあっさり認めた。
 それは同時に、ハヤトの推測を完全に肯定したようなもの。
「あの時……送還しきれなかった、ということか……」
 リィンバウムに顕現した魔王を皆で倒し、アヤと二人でサプレスへと送還した。あとに残ったのは、憑代となっていたバノッサの身体だけ。
 サプレスのエルゴが欠けたことで壊れかけていた結界も、新たなる誓約者の下に元通り修復した。サプレスへと続く路は――閉ざされている。召喚術によってでしか開くことはないだろう。
 ――けれど、ここ『名も無き世界』への路は、ハヤトがもう一度リィンバウムへ戻る時のために繋がったままだ。
 つまり、リィンバウムに残っていた魔王が、その路を通って名も無き世界へ来たということに他ならない。
「誓約者が二人もいるってのは不便だよなァ? 片方だけじゃあ、力を使いこなせねェ」
 アヤの――バノッサを失ったことでできた心の弱さが原因だ、と……魔王は言った。
 ハヤトとしても、それは自覚していることなので、あえて反論はしない。無駄な口論をするつもりなど、毛頭ないし。
「けどまあ、そのお陰で俺様は今、ここにいられるんだがな」
「――どういうことだ?」
「あの女の悲しみを辿ってこの世界に着き、悲しみや絶望、自責といった感情を喰って力を回復させ、この姿になれたってことさ」
 告げられた事実――推測の正解。
 ハヤトは沸き上がる怒りに強く拳を握り締め、魔王を睨みつけた。それは、アヤを食い物にした魔王に対するものだけではなく、昨日この目で悪魔を見るまで、その存在に気付けなかった自分自身に対する……怒り、だった。
「ついでだから誓約者の力も奪ってやろうとしたんだがな」
「……アヤはどこだ」
 低い、怒りを孕んだ問い――否。反論や拒絶を許さぬ絶対者の求めに、魔王はバノッサの顔のままニヤリと不快な笑みを浮かべ、一度だけ指を鳴らした。
「ここにいるぜェ?」
 魔王の斜め後ろに浮いて現われた光る球体。その中に、蹲るような姿勢のアヤの姿が。
 意識は――ない。
「アヤに何をした」
「別にまだ何もしちゃいないぜ? おまえが守りの結界をこの女の周囲に張ってるお陰でな」
 名も無き世界へ戻ってきて、ハヤトがまず最初にしたことは、アヤの周囲に結界を張ることだった。
 それは彼女に及ぶ悪意等から守るためのモノではない。この世界に於いて、それはほぼ無用な代物だから。
 ハヤトが張ったのは、それとは全く逆のモノ。――即ち、アヤの持つ力が外へ及ばないため。
 魔力を制御するのは、精神力に比例する。精神的にかなり弱っていて不安定になっているアヤは、何がきっかけとなって魔力を暴走させるかわからない状態にある。
 魔力という概念に乏しいこの世界で生きていく上で、無用な騒動を招くことは決して好ましくはないから。
 万が一暴走させてしまった時に、周囲に被害を出さないように。何よりも、アヤ自身の生命を守れるように。
 そのために張っていた結界は、彼女の内から魔力を奪おうとした魔王の目論見をも阻止してくれたらしい。……今のところは。
「まァ、それも時間の問題だけどな?」
 魔王が片腕を真っ直ぐハヤトに向けて伸ばしてきた。気付いたハヤトは真横に飛び退き――黒い風が、ハヤトのいた場所を吹き過ぎていった。
 僅かに余波を受けただけで、腹部に激痛が走る。じわり、と。血が出ていくのがわかる。
「その怪我でよく動けるもんだよなァ」
 膝をつくようなことはしないが、明らかに呼吸は乱れている。限界など、疾うの昔に超えていた。今立っているのは、ほとんど気力のみでだ。
「俺様たち悪魔の放つ瘴気は、人間には猛毒だ。傷口にまといつかせりゃ、そこから腐蝕していく。それを癒せるのは天使共だけだが、お前が持っていた天使と誓約した召喚石は俺様の手の中だ。クククク……」
 エルエルさえ呼べれば、この怪我は完治できる、それはハヤトもわかっていた。だが、魔王が言った通り召喚石はハヤトの手元にはなかった。
 エルエルの石だけは常に内ポケットに入れて持ち歩いていたのだが、刺された時に悪魔に奪われてしまったのだ。
 プラーマでも治療は可能だがその石はカシスが持っているし、手持ちに未誓約の石もなかった。
 だから、応急処置として、リプシーに憑依してもらっている。
 それでも腐蝕速度を緩める程度の効果しかないのだが……その間に何とかするより他はない。
「もう、立ってるだけでやっとだろう。いい加減、楽になれよ?」
「冗談じゃない。こんなところで死ねるかよ」
 脂汗が滲むのを感じながら、手にしていた剣を構える。
 小馬鹿にしたようにその様を眺めた魔王の瞳に、剣呑な光が宿った刹那。

「俺様が直々に葬ってやるから、大人しく死にやがれッ!!」
 ――ゴウッ!!

 先程の比ではない黒い風――瘴気が竜巻のようにして向かってくるのを、何とかかわして距離を縮める。
「手前ェが死ねば結界も消え、誓約者の力もこの女の中に集束する!! その状態のこいつに憑依して肉体ごと俺様が使ってやるよ!!」
 もう一発、発生した竜巻は、ダメージを覚悟の上で避けずに魔力をまとって剣で真っ二つに切り裂いた。
 そうして、見えた――本体。
「そんなこと、絶対にさせるか!!」
 魔王に向けて、ハヤトは剣を振りかぶった。
 目前のバノッサの口端が、吊り上がる。――余裕の笑み。
 そして……

 ――ドシュッ。

 鈍い、音が。辺りに響いた。



 ふと、作業の手を止めて、カシスは窓の外へ目を向けた。
 何があるわけでもない。呼ばれたわけでもない。ただ、何となく。
 何となく……だけど……胸騒ぎのような、予感めいた何かを感じた。
「カシス? どうしたの?」
 何となく程度だったはずが、一度認識してしまったためかどんどんそれは強くなっていって。
「ごめん、リプレ……あたし、ちょっと出かけてくる!!」
 いても立ってもいられなくなって、そのまま飛び出した。



 ――…………ろ……――

 初めて会った時から、心奪われていた。
 もっと知りたいと思ったし、あの紅い瞳に映る悲しみを癒したいとも思った。
 けれど、彼にとって自分は敵で――憎しみの対象。側にいることさえ叶わなかった。
 それどころか、自分の無力さを思い知らされた。
 助けられる可能性はあったはずなのに、助けられなかった。
 最後の最後で伸ばした手をようやく取ってくれた彼の、最期の願いを叶えてあげることしかできなかった。
 今でも残っている、感触。
 人間の身体に剣を突き刺した、あの音・手応え。初めて唇に感じた、あの冷えゆく体温。
 忘れ、られない。忘れたくない。つらくてもつらくても、忘れてはいけないと思うから。
 彼の最期を、彼が生きた日々を。
 何よりも、バノッサを殺したのは自分である、と。
 決して、忘れてはいけないと――思う……

 ――起きろ――

 忘れずに、いなければいけない。自ら選んで犯した罪を。
 人間の生命を奪った自分は、幸せになどなってはいけない。
 決して忘れない。彼を愛していたことを。
 愛していたのに、その生命を奪った己の愚かさを。
 誰も裁く者がいないなら、自分が自分を裁けばいい。
 忘れることなく、狂うことなく、ただ己を苛め続けること。
 それが、自分が犯した罪に対する――罰。
 彼の幸福を奪ったその代償として、己が不幸を背負えばいい。
 そのためだけに……生きれば、いい……

 ――起きて現実を見ろ!!――


「――ッ!?」
 世界に響いた怒声に、アヤは息を呑んだ。
 そうして、気付く。自分が、眠っていたという事実に。
 何故、どうして、いつから、いつの間に……様々な疑問が次々に浮かぶ。その中で最も大きく気になったのは、ここはどこかということ。
 現状を把握するために最も重要なその疑問は――

「グ……あアァあアあぁァッ!?」

 突然に聞こえた悲鳴によって、掻き消されてしまった。
 全ての疑問も、事情も、どうでもよくなってしまったのだ。
 彼の、姿を。その瞳に映した瞬間に。
「バノッサ、さん……」
 確かに今、己の目の前にいるのは死んだはずのバノッサだ。
 死んだはず、なのに……
 背後から剣に貫かれ、苦悶の表情を刻んでいる。
「お、のれ……ッ、ニンゲン風情が……ッ」
「離れろ、トウヤッ!!」
「身の程を知れいッ!!」
 憎々しげな怒声と同時に光が――魔力が迸った。それに煽られでもしたのか、アヤの身体はバノッサから離れていく。
 その、すぐ後。床から生えるように、植物とも違う不気味な何かが、串のように四方八方へと伸びて。
「ぐ……っ!?」
「ハヤトっ!?」
 悲鳴にも似た叫びは、己のすぐ側から。
 それの叫んだものは――先程の串に右足と左肩を貫かれている、兄の名前。
「バノッサさん!? ハヤトくん!?」
「アヤ!? ……気がついたのか」
「トウヤ、くん……どうして……」
 先程は兄を、今は自分を呼んだ声の主は、幼馴染みであるトウヤのもの。
 何故彼がこの場にいるのかわからない。リィンバウムに関わっていないはずなのに……何故、バノッサを刺したのか。
「ハヤトから全て聞いた。僕は……君を助けたくて、今ここにいる」
「わたし、を……『助ける』……?」
 トウヤの言っていることは、まだアヤには理解できなかった。
 助けてもらう、理由がわからない。状況把握すらまともにできていないのでは当然だが。
 未だ鈍い思考を導く――否。更に鈍らせる声が、アヤの耳に届く。
「助けられる必要なんかねェよなァ? 手前ェは自分の意志で俺様のとこに来たんだから」
 身体に剣を刺したまま、痛みを堪えてそれでも笑ってバノッサが言った。
「バノッサさん……の、もとへ……わたしの、意志で……?」
「忘れたのかよ? 俺様を助けてくれるんじゃねェのか?」
「バノッサさんを、助ける……?」
「アヤ! 聞くな!!」
「あァ、そうさ。俺様を生き返らせてくれるんだろ? そのために必要な誓約者の力をくれるって、言ったじゃねェかよ」
 ――バノッサが、生き返る?
 その言葉は、静かにアヤの中に浸透していった。
「生き、返る……?」
「そんなことはできないッ!! 誓約者の――エルゴの力でもそれは不可能だ!! 死者を蘇らせる方法なんて存在しないんだ!! そんなことができるなら、あの時カノンもバノッサも救えただろ!!」
「うるせえ!! 手前ェは黙ってやがれッ!!」
「ぐあっ!?」
 バノッサの怒号で串が再びハヤトの身体を貫き、身動きのとれない彼へ黒い風が襲う。
「が、はっ……」
「ハヤト!!」
「ハヤトくん!?」
 大量の血が、ハヤトの口からこぼれた。コンクリートの床に、赤黒いシミがいくつもできる。
 その、光景は。
 あの魔王召喚儀式場の祭壇を、思い出させた。
 カノンの、そしてバノッサの血で濡れた石畳。魔王の抜けた、ボロボロのバノッサの胸に突き刺した短剣。その短剣から、滴り落ちる赤い雫。
 自分が、この手で殺した男を、自分の手で蘇らせる――?
「オイ。手前ェはどっちを信じるんだ? 俺様か? それともこいつか?」
「わ、わたし、は……」
「手前ェ、俺様のことが好きなんじゃねェのかよ?」
「あ……」
「いいのかよ。俺様がこのまま消えても。この姿も、長くは保たねェんだぜ」
 バノッサが、言う。彼の口から出る言葉のひとつひとつが、アヤの心に突き刺さる。
 消える……既に死んでいる彼には肉体がない。あとは、魂が滅びるだけ……
 アヤは、手を伸ばした。自分を包んでいる光球に触れる。
 ――わかる……これは、ハヤトの力によるものだ。ならば、自分に解くことは可能。
 ほんの僅かに魔力を加えるだけで、それは上部から順に粒子になって消えていった。
 難なく床に降り立ち、バノッサのほうへ一歩踏み出す。――と。
「ダメだ、アヤ。あいつは、君の愛した男じゃない!」
 手を掴み、引き止めてきたトウヤ。
 アヤは振り返ることもせずに、魔力で彼の手を弾く。
「アヤ!!」
「ごめんなさい……それでもわたしは、バノッサさんを信じたいんです……」
 静かに歩くアヤの足元で、道を開けるように突き出ていた串がぼろぼろと崩れていく。
 真っ直ぐに、何の障害もなくアヤはバノッサの前に立つ。
「あ、アヤ……ダメだ……」
 バノッサの肩越しに、何とか顔を上げてこちらを見ているハヤトへ、アヤは微笑みかけた。
「わたしの心配はいりません。ですから、ハヤトくんは自分のことだけを考えていてください。カシスさんの許へ、帰るんでしょう?」
「――っ、アヤ……っ」
 驚いた顔のハヤトから、バノッサへと目を向けた。
 記憶にあるまま、不健康な白い肌、狂気を孕んだ紅い瞳。他者を見下し嘲笑うような笑みで自分を見下ろしている。
「俺様を、助けてくれるのか?」
 頷くようにして、バノッサの胸に頭をつける。そのまま両手を伸ばして、抱きついた。
 確かに、これは肉体ではない。僅かにぬくもりは感じても、鼓動は聞こえない。コレは――魔力によって実体化した、偽りの器。
「……ごめんなさい、バノッサさん……弱い女で……あなたを、助けられなくて……」
 アヤは目を閉じて呟いた。
「でも――今度こそ、助けます……」
 魔力を――自分の中にある、ありったけの魔力を、アヤは解放した。
 その力が、バノッサへと集まる。
「ア、ヤ……っ、一人じゃ、無理だ……っ!」
 ――ザシュッ、と。恐らく串を断ち切ったのだろう音の後、もうひとつの同種の力も加わったのを感じた。――刹那。
「なに……っ!?」
 魔力は、集まる。バノッサの――身体に突き刺さったままの剣・サモナイトソードに。
 路が、開く。サプレスへ続く路が。
「て、手前ェ!? 何でだ!!」
「どうせ死ぬなら、手に入れられなかった女に殺されたい……あの時のバノッサさんの言葉を、わたしは信じたいんです……」
 抱きしめているバノッサの身体が、消えていくのがわかる。
 圧倒的な力の前では、欠片である彼は動くことはできないから。逆らえないから。
「……さようなら、魔王……もう二度とわたしたちに、リィンバウムに関わらないでください」
 その言葉が、最後の鍵。
 まばゆい光に包まれた魔王は、完全にこの場から消え去った。カラン、と。支えを失った剣が床に落ち、そして――
 アヤの、腕の中には。ひとつの、淡い輝き。
「わたしは……今度こそ、ちゃんと救えたんですね……」
 腕の中の輝きに目を向けて、微笑んだ。
 輝きは応えるように光を増して。

 ――ったく……手前ェは、くだんねェこといつまでもぐだぐだ考えやがって――

 バノッサの声が、心に響いた。
 邪気のない、ただ呆れたような声音。
「バノッサの魂、今度こそ完全に魔王と分離できたみたいだな」
「はい……間に合ってよかった……と、言っても、バノッサさんのお陰なんですけどね」
「――は?」
 きょとんとするハヤトと、何やら居心地悪そうな気配のバノッサ。
 アヤはくすっと笑う。
「バノッサさんが、わたしを起こしてくださったんですよ。だから、わかったんです。あれは魔王だと」
 再会した時――昨日の時点では、本気であれはバノッサだと思っていた。理由なんて考えず――考えられず、ただ再び会えたことが嬉しかった。例えそれが、夢幻だとしても……
 けれど、違った。それを、他ならぬバノッサ本人が教えてくれたから。
 だから、道を間違えずに済んだ。
 今度こそ、本当に助けることが――できた。
「そう、だったのか……」
「はい……本当にありがとうございます」
 ハヤトに答えた後、バノッサに礼を言うと、また更に居心地悪そうな気配が腕の中から伝わってきて。

 ――別に手前ェのためでも、助けて欲しくて起こしたワケでもねェよ。ただ、俺様をダシにしてくだんねェこと考えてんのが気に食わなかっただけだ――

「はい、すみません」
 素直に謝ると、言葉を詰まらせ不機嫌っぽい気配になった。
 嫌味等を素直に受ける相手というのは、バノッサにとって苦手な人種らしい。……以前なら、鼻で笑うだけで気にも留めなかったのだろうが。
 ややあって、溜息が聞こえた。

 ――まだあんなこと考え続けるんなら、手前ェを恨んでやる――

「……はい……もう、考えません……ちゃんと、前を向いて生きていきます」
 本当は、まだ考えてしまいそうだけど……恨まれてもいいと思う気持ちも、少しはあったりするけど……
 でも、それがバノッサの望みであるならば、そのように生きようと思う。
 それこそが、本当の贖罪。
「アヤ……」
 安堵の色で呼んだ兄へと、アヤは笑顔を向けた。
「もう、大丈夫です。心配かけてすみませんでした」
「いや……元気に、なってくれたなら、それでいいんだ」
「はい。……ハヤトくん、ひとつ、お願いを聞いてもらえますか?」
 急な言葉。けれどわかっていたのか、ハヤトは驚いた様子もなく頷いてくれた。
 アヤはそっと、腕に抱えている輝きを差し出す。
「バノッサさんを、お願いします。リィンバウムへ一緒に連れて帰ってあげてください。そして、いつか……カノンさんと一緒に生まれ変われるように……」
 輪廻の流れに戻して欲しい。
「本当は、自分でできれば一番いいんですけど……でも……」
「……ああ」
「わたしは、この世界で生きていきますから」
 ハヤトは、頷いた。そして、輝きへと手を伸ばす。
 彼が触れると球体だった輝きは揺らめき、形を変えた。
 それは、一輪の花――白い、曼珠沙華。
 器のない魂だけでは、界の狭間を渡ることができないから。それまでの、仮の器。
「本当に、リィンバウムへ戻るつもりは、ないんだな?」
 念を押すように聞いてきた言葉に黙って頷き、抱いていた輝きとは別の光を作り出して同じようにハヤトへ差し出した。
 その光は――アヤの内にあった、誓約者としての力の全て。
「バノッサさんのことも、リィンバウムでのことも、忘れるつもりはありません。けれどわたしの生きる世界はここなんです。この世界で、誓約者としてではなく、樋口綾として生きていきます。ですから、ここへの路は閉ざしてくださって構いません」
「……わかった」
 力を渡す側と受ける側。同等同質の力を持つもの同士、その意志さえ一致していれば、力の譲渡は容易い。
 特に何の動きがなくとも、光は自動的にハヤトの内へと吸い込まれて消えた。
 力がひとつになったのを確認してか、ハヤトは手にしていたシャインセイバーを送還し、床に転がったままだったサモナイトソードを拾い上げた。
「それじゃあ、俺は行くよ」
「はい……気をつけて……」
「……ちゃんと、幸せになってくれよ? アヤ」
 サラッと、髪を手で梳くようにしてハヤトが言った。それは、兄としての言葉。
 今まで、お互いの関係を知ってからずっと、守り続けてくれた兄。
 その最後の言葉に――想いに、アヤは笑顔で応えた。ハヤトの手を、しっかりと握って。
「はい。今すぐには無理でしょうけど、いつか必ず。ですから、あなたも幸せに暮らしていてください、ハヤト兄さん」
 一瞬、目を瞠ったハヤトは、すぐに笑顔になって力強く頷いた。それから、アヤの後ろへと顔を向けて。
「あとは任せたぜ、トウヤ」
「ああ。死ぬなよ、ハヤト」
 ふわり、と。光に包まれ消えゆく途中で、大丈夫だと告げるように笑顔で親指を立てて見せたハヤト。
 光の粒子が上へと登り、ハヤトの姿が消えていく。
 完全に消え去る、その一瞬前のこと。

 ――あばよ……アヤ――

 聞こえたのは、信じられない言葉。
 決して呼ばれることのなかった名前を、バノッサは最後の最後で呼んでくれたのだ。
 涙が、溢れた。
 泣かないように頑張っていたのに……バノッサはずるいと思った。それでも、ハヤトが消えた後だっただけ、まだマシだろうか。
「アヤ……」
 控えめなトウヤの呼び掛け。
 アヤは流れる涙を拭うことなく、また振り返ることもせず、ハヤトを見送った姿勢のままで長く息を吐いた。
「わたしは、バノッサさんが好きです。忘れることなんてできませんし、忘れるつもりもありません」
「ああ、わかっている。それでも僕は君が好きだ」
「わたしは、トウヤくんの想いには応えられませんよ?」
 遠まわしな拒否は、挑発的にも聞こえたのかもしれない。
 トウヤはおかしそうな声音で言った。
「僕はね、君が思っている以上に気が長いんだ。それに、わがままな自覚もある。君の中の彼を消せるなんて思い上がったりはしないし、ハヤトの代わりになれるとも思ってはいない。それでも、今は側にいることが出来ればそれでいいんだ」
 それくらいは、認めてくれるだろう?
 その声は、あまりにも優しすぎて。
 留めることのできない涙に、とうとう顔を両手で覆って。それでも嗚咽を殺して泣いた。
 震える肩をそっと抱き寄せてきたぬくもりを、拒むことはせずに……



 再び降り立った大地。そこは、見覚えのある荒野。
 ハヤトとアヤが、初めて呼ばれた――あの儀式跡のクレーターの中だった。
 長く息を吐き出すと、ハヤトは手にしていた曼珠沙華を空へ掲げた。
「バノッサ……今度、生まれ変わった時は、道を誤るなよ」
 花の形が崩れ、光の粒子になって空高く昇っていくバノッサの魂に、そう語りかけた。
 すると、不機嫌そうな……けれど、どこか楽しそうな声が返る。

 ――ふんッ、手前ェに言われるまでもねェよ――

「ははッ。おまえらしいな、そのほうが」
 高く、高く。昇っていく光を見送る。
 その最後の光が消えたのを見届けて、再び長く息を吐き出した。

「……ハヤト?」

 不意に呼ばれた名に、ゆっくりと振り返る。
 斜面の上に、ひとつの人影。逆行ではっきりとは見えないが、シルエットで――声で、誰であるかはわかった。
 間違うはずもない。約束を交わした相手。自分の――居場所。
「カシス……っ」
 こちらへ降りてくる彼女へと、一歩踏み出した――が、膝が意志に反して折れた。
 剣を支えにしても、もう立ち上がることはできなかった。
 限界を超えていた身体を、今まで気力だけで動かしていた。その気力が、切れたのだ。愛しい者の許へ帰れたという安堵が、そうさせた。
「ハヤト!? しっかりして、ハヤト!!」
 すぐ側へ駆け寄ってきたカシスの腕の中へ、ハヤトは倒れこんだ。
 もう喋ることすらままならない状態。同じく限界を超えていたリプシーが、身体から抜けてサプレスへと還っていく。
「――っ、プラーマ!!」
 悲鳴のような呼び声の後、あたたかな光に包まれた。
 血が流れすぎて冷えた体に、ぬくもりが染み込む。腹部を中心にして苛んでいた痛みが、ゆっくりと引いていった。
 癒されていく、身体。死の淵から、引き上げられていくのを、実感した。
 プラーマの癒しが続く中、カシスの膝枕のもとでハヤトは安堵の息をこぼした。
「……カシス」
「ハヤト……一体、何があったの? アヤは……一緒じゃないの?」
 当然の問い掛けに、ハヤトは苦笑した。この二日間は、随分とハードだったから。
「いろいろと、あったんだよ……アヤは、向こうに残ったよ。向こうで、生きていくってさ」
「そう……やっぱり、そうしたんだね……」
 ほんの少し、淋しそうにカシスは言った。
 ハヤトにとっては大切な妹。カシスにとっては――初めての親友だから、それも当然。
 離れるのは、やはり淋しい。けれど、その意志を責めるつもりもない。
 その想いが、「でも……」と続けさせた。
「ハヤトは、帰ってきたんだね……?」
「ああ、帰って、きたよ……約束、しただろ?」
「うん……」
 ぽたっ、と。ハヤトの頬に、あたたかな雫が落ちてきた。
 別れた時と同じように、カシスの瞳は涙で濡れている。
 けれど、顔は笑っていた。心底、嬉しそうに。ハヤトも、笑う。

「ただいま、カシス」
「おかえり、ハヤト」

まんじゅしゃげ~ふたりのけっちゃく~・完