箱庭の太陽 前編


 ……コンナノハ……ウソ


 目の前に広がる変わり果てた町の光景をその瞳に映し、少女は思った。


 ……コレハ……ゲンジツジャ……ナイ
 ソウ……コレハ、ゲンジツジャナイ……


 累々の屍。瓦礫となった建物。
 自分が起こしてしまった凄惨たる現実を、幼い少女は受け入れることができなかった。


 ダカラ『あたし』ニハ、カンケイナイ
 ミンナ……ミンナ……『外』ノコト
 『あたしの世界』ノ『外』ノコト
 ダカラ……だかラ……
 あたしには関係ない!!


 壊れそうな精神を支えるために少女が選んだ道は、外界と精神を切り離すこと。
 こうして少女は、心の揺り籠『箱庭』の住人となった。

1・箱庭の少女

「ここが君の部屋だ」
 少女の兄弟子という少年が、そう言った。
 蒼の派閥。少女が連れてこられたところ。これから少女が生きていく世界。
 けれど、少女にとってそれはどうでもいいこと。
 すべて、『箱庭』の外の出来事。
 何の反応も見せない少女に兄弟子は、それでも必要事項を伝え、部屋を出て行った。薄暗い部屋に一人取り残される。
 少女は歩いた。ただ機械的にベッドへと進む。
 ベッドの上のシーツに手を掛け、それを身にまとうとベッドの下に座った。
 孤児であった少女には当然家などなく、そういう風に眠ることが彼女にとっての『普通』だった。
 だから、そのように眠りについた。


 少女は夢を見た。
 自分と同じ孤児だった子供たちの夢を。
 いつも一緒にいた。共に支えあって生きてきた。
 盗んで、分け合って、捕まって、また集まって。
 町の大人たちに疎まれようと、子供たちは生きることに必死で……
 そして楽しんでいた……否、『仲間』がいたから楽しめた。
 そうして生きてきた。
 だが、あの日、仲間の一人が拾ってきた石。それに少女が触れたことで彼らの儚い『幸せ』はその命と共に終わりを告げた。
 まぶしい光。衝撃。白い煙。そして……
 親しい者たちの変わり果てた姿――
 何が起きたのかわからず立ち尽くす少女。
 そして思う。
 これは夢だと。


 明るい光が目に映った。
 それが窓から射し込む朝陽だと気付くまでしばらくかかる。
 少女はおもむろに立ち上がると窓辺へと歩いた。窓の外を見る。
 光……
 あの時とは違う暖かなひかり……
 少女は窓を開けた。
 そして……
 光の中へと身を乗り出した。

2・出逢い

 蒼の派閥本部、見習い召喚師たちの部屋の一室。
 ノックが響き、朝食をのせたトレイを持った少年が入っていく。
 部屋に入った少年は眉をひそめた。
 ベッドから引きずられるように窓辺へとのびているシーツ。開け放たれた窓。
 昨晩ここに案内したはずの部屋の主の姿はどこにもなかった。
 少年は溜息をひとつ洩らすと、トレイを机に置き、少女を探すべく部屋を後にした。

「……あれ?」
 中庭に面した渡り廊下を歩いていた青年は、相棒の声に立ち止まった。
「ミモザ、どうしたんだい?」
「あんなところに子供がいるわよ、ギブソン」
 ミモザと呼ばれた少女は青年――ギブソンに、中庭のほうを指し示した。
 そこには木の下に佇む小さな人影が確かにある。人影は木の上のほうを見たまま動かない。
「別に、いてもおかしくはないんじゃないかな」
「だって……アレ、寝間着姿に見えるんだけど……」
「……本当だ」
 昼にはまだ早いとはいえ、太陽は高くに昇っている。そんな時間に、本部の中庭でその子供は寝間着のまま佇んでいた。
「……気になるわね……」
「え……? ――って、おい! ミモザ!!」
 ギブソンの制止の声も聞かず、ミモザは子供のほうへと駆けていく。木の下にいたのは紫紺の髪の幼い少女だった。
「ねーキミ、ここで何してるのかな?」
 ミモザの問いに少女は答えない。ただ虚ろな瞳に葉の間から落ちる光を映していた。
「……何か面白いものでも見えるの?」
 ミモザは少女の視線の先を追ってみた。しかし、別段変わったものはない。
 もう一度少女に目を向ける。
 よく見ると少女は裸足だった。髪もボサボサでくしを入れられた様子はない。体のあちこちに小さな傷も見受けられた。
「……ねぇ、何があるのよ……」
 やはり、少女は反応を示さない……かに思えた、が。
「……木が……へん……」
 少女が小さな声で、そう言った。
「……木?」
「何が変なんだい?」
 ミモザの後を追ってきたギブソンが優しく問う。
 少女は上を向いたまま、呟くように答えた。
「……はっぱが……おおきいの……へん」
「?」
「……キラキラ……してる……へん」
 二人は、少女が何を言いたいのかわからなかった。
 だが、それ以上にわからないのが自分の相棒であることを、ギブソンは思い出していた。
「ん~、でもここ気持ちいいわね。お昼寝にはもってこいって感じ!」
「……ミモザ……」
「……おそとでねたら……しんじゃうよ……」
 その言葉に少女を見る。少女ははじめて動いていた。じっと二人を見上げている。
「……え? 何で?」
「さむい……から……」
「え~? あったかいでしょ? ホラ」
「……あったかい……?」
 疑問符だらけの二人の会話に、ギブソンはひとつの真新しい情報を思い出した。
「……ひょっとして……君は昨日、北の町から連れてこられた新しい見習いかな?」
「あ、そうなの? キミ、名前は?」
「――トリス!!」
 少女の代わりに、二人の背後から彼女の名前らしきものを呼ぶ声がした。聞き覚えのある声に振り返ると、少女とそう変わらない年齢の少年がこちらへ駆けて来ていた。
「あら、ネスティじゃない。久し振り」
「あ、ギブソン先輩、ミモザ先輩、お久し振りです」
 深々と頭を下げる少年――ネスティにギブソンは穏やかに微笑みかけた。
「やあ、ネスティ。彼女は君が?」
「はい。僕の妹弟子となりました、トリスという名です」
「へぇ~、トリスっていうんだ。ところで何でこんなカッコでここにいたわけ?」
「……起きてすぐに部屋を抜け出したようで……探していたんです」
「ふ~ん。一体何に惹かれたのかしら……」
 ミモザは小さく呟いた。それから少女を見、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 少女は無反応のまま、じっとミモザを見上げている。
「ラウル師範が待っていますので、失礼いたします」
 そう言い、ネスティは少女の手を引いて建物へと向かった。
「またね、トリス」
 ミモザの声に、少女は一瞬だけ視線を向けた。そのまま去る二人を見送り、ギブソンは独り言のように呟く。
「何があったのかな……彼女に……」
「心を閉ざしてしまわなければいられなかった何か……じゃない?」
 ミモザの答えに、ギブソンは哀れみのこもった瞳を少女の去った建物へと向けた。
「何も感じない今の状態……彼女がここで生きていくには良いのかもしれない」
 外部から連れてこられたということは、彼女が『成り上がり』であることの証。
 そしてここは、『成り上がり』に対して特に冷たいことを二人は良く知っていた。
 同じ見習いだけではなく、教師となる者たちからすら与えられるであろう、理不尽な罵声、差別、暴力……幼い彼女が受けるには、あまりに重い。
 ならば、何も感じないほうがずっと幸せではないのか……
「――でも、それじゃあ、つまらないのよね……」
 ギブソンの暗い思考を打ち消し、言ったミモザの顔はどこか楽しげだった。
「……ミモザ?」
「辛いからって逃げても、辛いことは消えないもの。どうせなら、その中で楽しいこと見つけてかなきゃね!」
 なにやらヤル気満々の相棒に、ギブソンは一抹の不安を抱く。
 一体、何をやらかす気なのか……
「無理強いは良くないと思うぞ、ミモザ……」
「だぁ~って、あたし、本当のあの子を見てみたいもん」
 そう言って笑う彼女の顔は、好奇心ではなく、心からの優しい笑顔をしていた。
 滅多に見ないその笑顔に、ギブソンは先程の不安が希望に変わるのを感じた。
「……そう……だな……見てみたいな」
「でしょ!? よっしゃ! 根気よくオトすわよ!」
「……それは違うだろ……」
 やはり不安のほうが大きいかもしれない。

3・日常

 やわらかな陽射しが鮮やかな新緑をまとう木々を優しく包み込んでいる季節。
 大地を彩る花の甘い香りが清々しい風と共に窓から流れてきていた、そんな午後。外の陽気とは全く裏腹な面持ちの父子の姿が室内にあった。
「……相変わらず……かね?」
 父が問う。手には息子から渡された紙がある。そして、その紙面には文字と呼ぶにはかなり難のあるミミズたちが踊っていた。
 もちろんこれを書いたのは眼前の少年ではない。
 問いで指した人物。少年の一歳年下の少女だ。
「……はい。すべてにおいて機械的に動いているだけです」
「……そう……か……」
 気持ち眉根を寄せて答える息子に、父は落胆の溜息を洩らした。
「あの子の抱えている傷は……時間が癒してくれるようなものではなかったのか、それとも……時間が足りないのか……」
「ラウル師範……」
 呟き歩く父の姿を少年は目で追う。
 ラウルは窓辺に立ち、光の中に視線を落とす。そこには、木々の間を力無く歩く彼(か)の少女の姿があった。
 幾許(いくばく)かの成長と共に、支給された制服がようやく似合うようになった今日。少女がこの場所での生活を始めて一年の歳月が流れていた。
 この一年、進んだのは文字の書き取りだけだった。それも、かろうじて文字と読めなくもないような、そんな程度のものだ。読みは……おそらく全く理解はしていないだろう。
 当然といえば当然かもしれない。
 心のない抜け殻。少年ははじめ、妹弟子をそう称した程なのだから。
 あながち間違いでもないそれを、ラウルも感じていた。原因も……知っていた。知っていたからこそ、時間が癒してくれると思っていた。
 自分ではどうしようもないことだと、痛い程理解していたから。
 それでも……
「願ってしまうのは酷なことなのかの……」
 ただ彼女に人並みの幸せを。
 普通の少女と同じようにいられる未来を。
 例え、彼女を取り巻く環境を変えることができなくても。召喚師という未来しか定められていなくても……心だけは……自由でいて欲しいと。
 そのためには、彼女がすべてを受け入れなくてはいけなかった。
 自分の力。事故の結末。与えられた未来。失(な)くしたもの。
 それらを受け入れきれないが故に今の少女があることは重々承知の上でも、やはり望んでしまう。
「あの子の笑顔を見たいというのはエゴなのか……のう、ネスティ」
「……義父(とう)さん……」
 すぐ側まで来た息子にラウルは寂しげに微笑んだ。
 おまえも中々笑ってくれんがの。
 そう言って、息子の頭を優しく撫でた。



 箱庭の少女は、外界の人間たちの想いなど知る由もなく、そこにレールが敷かれているかの如く一本の木の元へと歩いていく。
 それはここへ連れてこられた翌日に見つけた場所。ミモザたちと出会ったあの木だった。
 自分が見知ったものとは全く違うその理由を、少女は一年かけてようやく理解した。
 ここは、自分がいたあの町よりずっと暖かいこと。外で寝ても平気なこと。そして、ここで見える光は、もっとずっと暖かくて優しいということを。
 少女にとっては意味のない文字の書き取り練習は、今のところ午前中で終わっている。午後は丸々自由時間なので、晴れの日はいつもここへ来ていた。
 いつも木の根元に座り、天を仰ぐ。
 葉の隙間から落ちてくる光を見て、ただじっと眺めて……そして日が暮れる。
 この繰り返し。
 ただぼんやりと時間を潰す少女に、見る者のほとんどが聞こえよがしに罵声を浴びせていたが、彼女が何の反応も見せないでいると、それも徐々に減っていった。
 一度、彼女を叱責した講師がいたが、返された虚ろな瞳に……何も映さず、ただ闇を湛えたその瞳に一瞬居竦まれたようになり、そのまま立ち去って二度と声を掛けることはなかった。
 それらもすべて、少女にとっては些細な出来事。そこには意味など存在しない。
 ただ自分の思うように動くだけ。
 一日、光の移り行くのを眺めて……箱庭に似たその景色の中で過ごす。
 変化のない日常。
 今までも、そしてこれからも。
 続いていくと……少なくとも箱庭で眠る『トリス』は、そう――思っていた。

4・小さな光

 あたたかな春の陽気の中、いつもの場所に座りいつものように木洩れ日を眺める。
 変わらぬ日常。
 だが、変化は突然にやってくる。
「キュウゥ~」
 奇妙な声と共に。


 普段全く使っていない頭が更に真っ白になって数十秒。息苦しさを覚え、とりあえず自分の顔に張り付いているモノを引き剥がした。
 今し方頭上から降ってきたソレは、大きな帽子を被った瑠璃色の毛を持つネズミともモグラとも言えない不思議な生物。召喚術の勉強をまだ一度も受けたことのない少女には、その生物が獣属性召喚獣テテであることなど知るはずもなく、その見たことのない動物に興味を惹かれた。
 好奇心の赴くまま無造作に手を伸ばし……短い尾を掴んだ。
 その動きは、善悪も力の加減も知らぬ幼い子供がするそれと同じで。
 相当強く掴んでいるのか、テテは嫌がるようにじたばたとしているが、それでも少女に爪や牙を立てることはなかった。
 しばらくその様子を眺めていた少女は、不思議な感覚が湧いてくるのに気付いた。
 微かな意志を持って眼前の動物を見る。
 尾を掴んでいることへの抗議だけではなく、何かを訴えている。そんな気がした。
 少女は手を放した。するとテテはきちんと少女に向き直り、視線を合わせて鳴き声を発する。
 話をするようにリズムのある声と身振り手振りを交えて。一見するとただ暴れているだけにも踊っているようにも見えるそれは、確かに何かを伝えようとしていた。
 少女はおもむろに上を見上げた。
 何があるわけでもないのだが、なんとなくそうした。いつも通りの光の雨だけが見える。
 テテに視線を戻して、
「……のぼればいいの?」
 そう……訊いてみた。
 テテは正解と言うように一鳴きすると、器用に木に登り始めた。
 少女もゆっくりと登り出す。
 ゆっくり進む少女の目にテテが映る。
 少女が進もうとしていた枝にテテがいた。テテは少女が近づくと次の枝へと移動し、また少女が追いつくのを待っていた。
 ――まるで、一番登りやすい場所を案内するように。
「キュイ」
 大分登った頃、テテが鳴いた。
 見ると、一本の太い枝の上で女性が一人静かな寝息を立てていた。
 少女はその枝に近いところまで登り、夢世界の住人となっている人物を覗き込んだ。
 丸い大きな眼鏡をかけた栗色の髪のその女性を少女は覚えていた。少女がここへ来て初めて興味を持った人間。それが彼女――ミモザだったから。
 テテはミモザの上でチョロチョロ動き回っている。頬を叩いたりお腹をくすぐったり……どうやら起こそうとしているようだが……ミモザは一向に起きる気配を見せない。
 そのうち、テテは少女がいるのとは反対側にある枝に移動し、力を溜めるように一度体を丸め――そのまま勢い良くミモザに向かって跳んだ。
「ぅきゃあ!?」
 流石のミモザも突如襲ってきた衝撃と浮遊感には一瞬で覚醒し、反射的に近くの枝に掴まってなんとか落下を免れた。
 安堵の息を洩らしたのも束の間。すぐさま元いた枝まで登ると、テテをがっちり捕らえて睨み付ける。
「主人を突き落とすとはどういう了見なのかしら……ねぇ? ――起きないからって、理由にならないわよ! あたしが死んだらどうしてくれんのよ!? あんた『はぐれ』になりたいの!? ったく。自分の召喚獣に木から突き落とされて死亡なんて、いい笑いものじゃない」
 等々。お仕置き兼愚痴を一頻(ひとしき)り続けたミモザは、ようやく自分が何のためにテテを召喚したのかを、少女の姿を見て思い出した。
「あ、連れきてくれたんだ。じゃ、今度はギブソンかネスティが探しにきたら教えてね」
 そう言ってテテを無造作に放り投げた。
 流石獣と言うべきか。テテは見事にくるりと回転して手近な枝に着地し、そのまま下へと降りていった。それを見届けて、ミモザは少女に向き直る。
「久し振りね、トリス。……あたしのこと、覚えてるかな?」
 少女は静かに頷いた。
 それから小さな声で言う。
「おそとでおひるねがあったかくていいっていったヒト……」
「キミにとってのあたしって……」
 返ってきた少々文法のおかしい答えにミモザは項垂れる。
「……それから………あたま……なでてくれたヒト……」
 その言葉に顔を上げる。一年前と変わらぬ無表情がそこにはあった。
 だが、その瞳は……虚ろなままではなく微かな光を宿して、ミモザを映していた。
 自分が少女にとって全くの無関心ではないことに笑みが洩れる。
 ふと、少女が俯いた。
 怪訝に思いその視線の先を追ってみると、すでに中程まで降りそこで下を窺っているテテがいた。
 ミモザは笑顔で訊いてみる。
「アレが気になる?」
 少女は再びミモザを見ると、こくんと頷く。
「アレはテテっていって、幻獣界メイトルパに棲む獣精。割と役に立つのよね~。見目もカワイイし」
 説明しながらポケットから緑色の石を取り出す。
 それを見た少女は一瞬眉根を寄せ少し身を引いたが、ミモザは気にせずそれを放り投げた。
「我が魔力を持ってここに異界の門を開け。我が声に応じて門をくぐれ、獣精プニム!」
 緑色の光を放ち、石は獣へと姿を変えた。
 長く垂れた耳が人の手のような形の生物、プニムはそのまま少女の隣へ降り立つ。
 愛嬌のある顔で少女に挨拶するように耳を片方持ち上げるプニムに、少女は少し距離を取る。
 怯えたような少女にミモザは苦笑を浮かべた。
「心配しなくても噛み付いたりなんかしないわよ。――って、キミが怯える原因は別のコトか」
 誰に聞かなくてもわかること。
 『成り上がり』と呼ばれる見習い召喚師たちがここ、蒼の派閥に来るきっかけは皆同じ。
 『召喚術の暴発』を起こすこと。その大小はあれど彼らは必ず何かを失くした罪人。
 トリスも例に洩れずその一人。
 ミモザは噂で聞いていた。彼女が起こした暴発は小さな町を壊滅させてしまったことを。多くの死傷者を出したことも……知っていた。
「その子はちゃんと制御されているから平気よ。大丈夫。何も起きはしないから……」
 言葉の意味を少女が理解したかどうかはわからないが、しばらく硬直していた少女は一度ミモザのほうを向き、またプニムへと視線を戻して、恐る恐るといった感じで手を伸ばす。
 それまでじっとしていたプニムはその少女の行動に、にっこり笑うと握手を求めるように耳を差し出す。
 一瞬手を引きかけたが、それでも少女はそれに触れた。
 危険がないことがわかったからなのか、それともふわふわした毛の感触でありながら柔らかいその奇妙な手触りが気に入ったのか、耳を握ったり頭を撫でたりする。
 完全に少女から警戒心が取れたのを見て、ミモザは声を掛けた。
「プニムー。その子連れてこっち来てー」
「ぷにぃ」
 主の命を受け、見た目に反して力持ちなプニムは少女をその大きな耳でひょいっと持ち上げ、そのままミモザがいる枝へと跳躍する。
 バランスを崩すこともなく不自然なほど自然に着地して、持ち上げた時と同様に少女を枝へと降ろした。
 一瞬のことで何が起きたのかわからないといった様子で呆然としている少女に、ミモザは笑顔で手を伸ばす。
「おいで、トリス。一緒に寝よ」
 少女はミモザを見た。そのまま静止すること数分。少女はゆっくりと手を伸ばし、ミモザの手を取った。
 ミモザは満面の笑みを浮かべるとトリスの小さな体を引き寄せ、抱いた。
「ふふ。トリス捕まえた」
 もぞもぞ動く少女に少し強く抱きすぎたかと彼女を見る。少女はミモザをじっと見上げていた。
 何かに気付き、ミモザは声を出す。
「あ、ごめんごめん。自己紹介してなかったね。あたしはミモザ=ロランジュ。ミモザお姉さんって呼びなさいね」
「………ミモザ……おねーさん……?」
「そ。これからちょくちょく遊んだげるからちゃんと覚えなさいよね」
 ポンポンと少女の頭を叩き、ミモザは幹に背を預ける。
「とりあえず今日は一緒にお昼寝。あたしがちゃんと抱いててあげるから安心して眠りなさい」
 そういうと、ミモザはあくびをひとつしてうとうとしだす。
 少女はミモザに抱かれたまましばらくじっとしていた。
 風が吹き、サワサワと葉が鳴る。光が動く。
 聞こえてくるのは心地よい鼓動。伝わるのは懐かしい温もり。
 ゆっくりと瞼を下ろした少女の頬を一滴の涙が濡らしていた。
 葉ずれの音に紛れるようなふたつの寝息を聞きながら、プニムだけがそれを見ていた。



 なぜ、その手を取ってしまったのか。
 なぜ、涙が出たのか。
 トリスにはわからなかった。
 ただ、箱庭に変化が起きたことだけはわかった。
 青々と茂る木々に抱かれるように眠っていたトリスに、『外』から一筋の光が届いた。
 弱々しく儚い光。
 未だトリスは眠り続ける。『外界』の『夢』を見ながら。
 曇硝子に囲まれた箱庭の中で……静かに……

5・変化と企て

 ネスティは我が目を疑った。
 無理もない。
 あのトリスが本を読んでいたのだから……

 時を遡ること五分前――
 常に機械的に……言われたことだけを行っていた――逆に言えば、言われたことは大抵こなしていたトリスが時間を過ぎても授業に来ないことから始まる。
 不審を抱いたネスティが、ラウルにも促され彼女の自室へと赴いた。
 そこで目にした信じ難い光景……彼にとってある意味天変地異にも匹敵するそれは、ベッドの上に座りそこに広げられた本に目を落としているトリスの姿。
 全く予想だにしなかった展開に、ネスティは珍しくも思考をしばし停止させてしまった。

 そして現在に至る。

 我に返ったネスティはベッドへ歩み寄る。
 トリスが読んでいたのは子供向けの絵本だった。
 文字を読んでいるのか絵を眺めているだけなのかは怪しいところだが、彼女が『本』に興味を持ったことは確かだ。
 ――その過程が気になるが……
「トリス」
 呼びかけに対し、割とすぐに顔を上げた。
 明らかに反応速度が上がっている。トロンとした空虚な瞳にも微かな意志が見えた。
「その本は……どうしたんだ?」
「……ミモザおねーさんに……もらった」
「ミモザ先輩に?」
 頷くトリスにネスティは目をすがめた。
「……面白いか?」
 その問いにトリスは少し小首を傾げ、それからはっきりと頷いてみせた。
「……そうか」
 ネスティは自分の中に安堵の他に全く反対の感情があることに気付いた。だがそれが何なのか、何に対してなのかはわからなかった。
 その感情を払拭するように言葉を紡ぐ。
「それは結構だが、授業にはきちんと来い。それから先輩のことは『お姉さん』ではなく『ミモザ先輩』と呼ぶんだ。いいな」
「……どぉーして?」
「それが礼儀だ」
「……でも……ミモザおねーさんがそうよべって言ったのに……?」
「いいから!」
 まだ納得していない様子のトリスに嘆息すると、たたみかけるように言う。
「ほら、ラウル師範が待っている。行くぞ」
 しぶしぶ動き出す妹弟子にネスティは付け加えた。
「その本も持ってこい」
 自分の言葉にトリスが少し嬉しそうに目を細めたことを、先に部屋を出たネスティは……気付かなかった。

 数分後、ラウルの部屋に歓声が満ちたことは言うまでもない。



 さて、同時刻。派閥内書庫室では、ネスティと同じく生真面目な青年が、彼とは違う意味の天変地異的光景に頭を悩ませていた。
 本来行動派でデスクワークを何より苦手とする相棒が、鼻歌混じりに調べ終えた資料を山積みにしていく姿は、異様を通り越して不気味だった。
 その顔に、満面の笑みが張り付いていれば尚のこと。
 仕事が進んでくれることは有難いが、この異様な光景を見せつけられては精神衛生上、大変よろしくないのである。
 とうとう限界が来たのか、憔悴した声で問う。
「……ミモザ……一体何があったんだ……?」
「『あった』し、『ある』のよ! イ・イ・コ・ト・が♪」
 尚も不気味に笑い続けるミモザに、ギブソンは頭を抱え込んでしまった。
 そんな彼を気にすることもなく、また一冊資料を積み上げるミモザ。そして、
「ねぇ、ギブソン。お願いがあるんだけど」
 山となった資料の陰から背筋の凍るような猫なで声を出す。
「そのイイコトのために協力して欲しいのよね♪」
 丁重にお断り致します。
 そう言ってしまいたいが、ミモザの『お願い』は断ると後が怖い。
 結局、了承の意を返すより他に道はなかった。

6・記憶の扉

「トーリース」
 名を呼ばれて少女は目を開き、下を見た。
 枝の間に見知った人影があった。それは、最近会える時を楽しみに思っている人物。
「ミモザ……せんぱい……」
「こーら。『ミモザお姉さん』って呼びなさいって言ったでしょ。何で今日に限って『先輩』なのよ?」
 下にいたミモザは、少女のいる枝まで登ってくるとその額を小突いた。
 それに対し、相も変わらず然して反応も見せずに答える。
「……メガネのヒトが、れーぎだからそうよべって言った……」
「ネスティか……相変わらずお堅いのね~……って、ちょっと待った」
 自分に向けて手の平を上げるミモザに、少女は小首を傾げる。
 ミモザはずいっと少女に顔を近付け、言った。
「ねえ、トリス。ひょっとしてキミ、自分の兄弟子の名前、覚えてないの?」
 訊かれたことに少し考える。
 兄弟子という単語は知っている。それの指す人物が『メガネのヒト』であることもわかる。
 では彼の名前は……?
 考えて――少女は頷いた。
「あわれ、ネスティ」
 項垂れ呟いた後、ミモザは少女に向き直る。
「キミの兄弟子の名前は『ネスティ』。ちゃんと覚えてあげなさい。師範は『ラウル』様。それと、あたしと二人の時は『お姉さん』で呼ぶこと!」
 言われたことをひとつひとつ頭の中で復唱して、了承の意を込めて頷いた。
 その反応に満足したのか、ミモザは微笑むと少女の頭を撫でる。
 暖かな手の感触の、その心地良さに少女は目を細めていたが、次の言葉でまた無表情になる。
「でも、何で名前覚えてなかったのよ? 毎日顔合わせてるのに」
 毎日会っているからこそ、だ。
 少女は兄弟子に対して、あまりいい感情は持っていなかった。
 彼の態度は昔を思い出させる。あの町にいた大人たちと同じ、黒い感情を自分に向けているのがわかっていたから。
 黒い、黒い感情。突然消えた、黒い――
 一瞬、脳裏を掠めた映像に少女は肩を震わせた。
 考えるな――と、何かが言う。
 あれは夢だから、と。
 俯いてしまった少女の頭を軽くリズムをつけてミモザは叩く。
「ま、いいけどね」
 顔をあげた少女の目に映ったのは、変わらぬミモザの笑顔。くしゃくしゃと頭を撫でる手。
 彼女から感じるのはぬくもり。失くして久しいもの。
 ここで感じられる木洩れ日のような、暖かな光。
 少女は手を伸ばし、ミモザの服の裾を掴んだ。それに応えるようにミモザは少女をその腕に収める。
 やわらかい、ぬくもり。あたたかな、ひかり。
 もっと感じていたい、と。少女は思った。
 もっと側にいたいと。
 そう、思っていたときの『お誘い』。
「あ、そうそう。トリス、今日さ消灯後ここに来れる?」
 顔を向けて、視線に疑問を乗せる。
 少女の意図を正確に読み取り、ミモザは悪戯っぽく微笑んだ。
「イイコト、教えてあげる♪」
 断る理由がどこにあるだろう。
 光の暖かさも、人のぬくもりも、昼寝の気持ちよさも……教えてくれたのは皆彼女だ。
 少女の知る中で、ミモザは自分に黒い感情を向けてきたことはなかった。彼女がくれるものは全て心地良いものだった。
 だから少女は頷く。
 ミモザと逢うために。彼女との時間を増やすために。
 心地良さを、もっと手に入れるために……