夜の帳(とばり)に包まれた派閥内宿舎。その廊下を足音も高く歩く少年が一人。
急用にも拘らず走るということをしないのは彼の生真面目さ故か。しかし、消灯を過ぎた時間に足音を抑えていないあたり、焦りが窺える。
少年、ネスティは数時間前のことを思い出す。
それは夕食の時のこと。
ネスティはいつも妹弟子の部屋で食事を摂る。それは、彼女を一人にしておくと食事に全く手をつけないからだ。
派閥に来る前の少女のことを、彼は詳しく知らない。だからその行動の理由はわからないが、彼女が与えられる食糧に対して異常なまでの警戒心を持っていることは、この一年で理解できた。
いつもネスティが食べる姿を見てからでないと料理を口に運ばないのだ。
今日もそれは変わらなかった。だが、ネスティは違和感を覚えた。
変わらぬ食事風景。なのに何かがおかしい。
その原因に気付けたのは消灯後。ずっと気になって寝付けず、トリスの部屋へ様子を見に行ったその時。
――トリスは部屋にいなかった。
何の小細工もなく、入った様子のないベッドと開け放たれた窓が部屋の主の行方を物語っていた。
違和感の理由――それは彼女の纏う空気だった。どこか落ち着きがなくそわそわしている感じ……何かを待っている、そんな様子だったのだ。
その場で気付けなかったことに内心舌打ちし、辿り着いた目的の部屋の扉を軽くノックする。
誰何の声に答え、了承を得て室内へと足を踏み入れた。
初老の男が優しく微笑んで迎えてくれたが、ネスティの焦りが薄れることはなくそのまま用件を述べた。
「こんな時間にどうしたね?」
「トリスが部屋にいません」
「……ああ……」
告げられた事実に然して驚きもせずに男――ラウルは微笑んだままゆるりと息子に向き直る。
「知っているよ」
「……え?」
養父の言葉にネスティは一瞬目を見開く。
「どういうことですか、義父さん!?」
「大したことではないよ。つい先程こんな物が届いてな」
差し出されたのは一枚の紙。
受け取りざっと目を通したネスティは、そこに書かれている内容よりも最後に記された二人分の署名に、更に目を瞠る。
「……これは……! でも、どうして……!?」
「理由は知らぬよ。だがな、ネスティ……ワシは託してみようと思うんじゃ。あの子が……トリスが元に戻るか否か……あの二人に賭けてみたいのじゃよ」
紙に書かれていたのは、たった数行の短い言葉。
トリスを今夜一晩預からせてほしいという旨の簡略な文章と、差出人の署名……ネスティの良く知る人物――ギブソン=ジラールとミモザ=ロランジュ。
その身に宿る遥かなる祖先より受け継ぎし記憶。それらが告げる忌まわしき人間たちの所業と、今現在自らの置かれている現状に絶望を抱きつつも見つけた、敬意を示せるその相手。
彼らが何の意図を持ってこのような行動に出たのかは皆目見当もつかない。そしてその二人に、心を閉ざして生きる自らの養い子を託す養父の考えも、ネスティには理解できなかった。
ただ、何故か落ち着かない。
自分の心と、先祖の記憶。双方が共にざわめくような、そんな感覚……それが苛立ちを呼んで。
何故、と思う。
――何故自分ではないのか、と。
思い浮かんだ言葉に、ネスティは大きく目を見開いた。
苛立ちの理由に――抱えていた想いに辿り着いて。
血が告げる、記憶が訴えるその事実。異邦人、融機人であるライルの一族にとって、唯一対等な友人である一族、クレスメント。融機人最後の一人となった自分が出逢ったクレスメントの末裔は、自らの犯した罪に耐え兼ねて心を閉ざしてしまった少女。それの意味するもの……
先祖が、そして自分が密かに抱いていた友との再会という希望の光が打ち砕かれたという――絶望。
召喚獣の意志を、生きる……そして死ぬ権利を奪うと言う大罪を背負うものが、たかが人の命を奪った程度で精神崩壊を招きかけたその弱さに対する――憤り。
自らの血に流れる大罪を全く知らずに生きてきたことに対する――失望。
そして、現実を……自分を見ない少女と、彼女を救ってやれない自分への――歯がゆさ。
答えなんて、気付いてしまえば簡単だった。
ただ、嫌だっただけだ。彼女に関する全てが、いろいろな意味で。
ネスティはもう一度紙面に視線を落とした。それから一度目を閉じ、そして養父を見上げる。
「……僕も……賭けてみようと思います……」
もし彼女が自我を取り戻した時、自分の中では憎悪が膨らむのか、それとも友愛が生まれるのか。
それは自分との賭け。
自分とはまた違った意味で、同じ言葉を口にした息子のその思いに気付いているのかいないのか。ラウルは彼の頭を優しく撫でてやった……
時間は少し戻って――
こちらは蒼の派閥本部の中庭。
既に明かりの消え失せた渡り廊下にランプを持った男が一人。彼はぐるりと周囲を見渡し、重い足音を響かせて建物へと姿を消した。
男……巡回の兵士の気配が去って、あからさまに安堵の息が茂みから洩れる。
「度胸ないわね~、ギブソン」
「こういう度胸はなくてもいいと、私は思うよ」
そんな小さな声も夜闇に現れた。
「びくびくしてたほうが見つかり易いって知ってる?」
実に楽しげに話すのは、勿論ミモザ。
「しないほうがどうかしてるよ……」
そして心底疲れきった様子で言葉を洩らすのは、彼女の相棒、ギブソンだ。
月明かりに照らされた中庭の一角、渡り廊下からは死角となる場所に二人はいた。
茂みの中に身を潜め、静かに到着の時を待つ彼らの側には、大きなバスケットがひとつ。中身はケーキと紅茶。これが、ミモザの『お願い』その一。
バスケットを遠い目で見ていたギブソンは、大きな溜息をひとつ洩らす。
「あんまり動くと、ホントに見つかるわよ」
「……ミモザ……何故こんな危ない橋を渡るような真似をするんだ?」
「あの子を派閥の外に連れ出すよりはマシだと思うけど?」
「にしても! もっと他の場所は選べなかったのか?」
「あそこが一番いいポイントなのよね~」
「だからって……!」
「しー」
声を荒らげそうになったギブソンの口を手でふさいで。二人はその状態のまましばらく静止し、周囲に他の気配がないことに安堵する。
口が自由になって、ギブソンは先程の言葉の続きを……今度は声を抑えて言う。
「許可なく夜間に本部へ侵入することは、幹部でさえ禁止されているんだ。もし見つかったら除名処分じゃすまないぞ」
ネスティに負けず劣らずお堅い相棒に、ミモザが何かを言いかけたその時、二人の間に一瞬淡い光が現れて、消えた。
光の後に残ったのは、空色の半透明な体をもつサプレスの召喚獣――グリムゥ。
「おかえり、グリムゥ。どうだった?」
ミモザの声に応え、グリムゥは一枚の紙を召喚主であるギブソンに手渡す。そして、彼の意思に従い送還の光に包まれた。
ギブソンは手渡された紙に目を通し、ミモザにも見せる。
紙面に目を落としたまま、ミモザはにんまりと笑む。
「思ったとおり♪ 流石ラウル様。わかってくれたのね」
「……全く……わざわざこんなことをしなくても、事前にきちんと許可をもらえばよかっただろう?」
『お願い』その二であるラウルへの許可申請も無事完了し、多少楽になった面持ちでギブソンは問う。
しかしミモザは、先程までの笑みも消し、真剣な顔つきで答えた。
「だって、それじゃあ意味ないんだもの」
トリスは未だ殻に閉じこもったまま。
外から喚き立ててもトリスには届かない。それだけではなく、下手すれば二度と彼女は元に戻らなくなる可能性も多分にあった。
だから。
「あの子が自分から動かなくちゃ、意味がないのよ……」
幸いトリスは外の世界を全く知らないわけではない。
窓から静かに外を窺っている。
ならばその先を促してやればいい。
力づくではなく、彼女自身の意志で扉を開けさせてやれば……
「ある意味……賭けよね、これは」
彼女を導けるか否か。
自分自身との賭け。
賭け金は――未来……
「もっとも、諦める気は毛頭ないんだけどね♪」
月を見上げ、微笑むミモザに、ギブソンも笑みをこぼす。
希望か絶望か。幸か不幸か。不変か変革か……
その結果はもうすぐ現れる。
そう、もうすぐ……
外光の一切届かない闇の中に響く異なる三つの足音。
それぞれの特徴を良く表すそれが、なるべく抑えているとはいえ響いてしまうのは、螺旋階段の置かれた円柱空間では仕方のないことだろう。
先導する女性特有の高い足音はミモザのもの。ランプを掲げゆっくりと階段を上っていく。
続く軽い足音は子供特有のもの。主はトリスだ。一段一段転ばないように上っている。
最後尾の足音は少し特殊で、成人男性よりも軽めの、けれど女性よりは低い音。主であるギブソンの生活を顧みればその理由は良くわかる。彼は片手にランプを、もう片方に大きなバスケットを持ち、前を歩くトリスを気にしながらも、慎重に足を進めていた。
足元を照らすランプのほかは全て闇に包まれ、まるで果てなどないかのような錯覚さえ覚えるが、実際はそんなに距離はない。
最上階へ着いたミモザは、どこで手に入れたのか、ひとつの鍵を取り出し鍵穴へと差し込む。
カチャリ、と小気味のいい音を立ててあっさりと障害は崩れ去る。
ドアノブを回し開くことを確認したミモザは、悪戯っぽく笑ってトリスを手招きし、扉の前に立たせた。
「さあさ、お待ちかね♪ この先にあるのがイイコトよ♪」
言って、扉を開け放つ。
途端、闇の中に淡い光が射し込んで。
淡く明るい光は青白色。それを発する源は――
数多の星に彩られた夜空に浮かぶ、大きな満月……
大きな瞳を更に大きくして満月に見入るトリスに、ミモザは満足げに微笑む。
トリスは人の負の感情に――自分に害なすものに敏感に反応する。自分を守るために心を閉ざした彼女は、『敵』だと思うものに対し、その殻の強度を増す。
トリスにとって敵だらけのこの場所では、彼女を守る殻が堅くなる一方のような気がするが、どうやらそれは違うようだった。
敵に対し殻を堅くする反面、好意のみ示すものや全く害のないものに対しては、少なからず興味を持つようだ。その対象はミモザや……自然。ミモザの召喚獣も一部当てはまる。
特に、『光』に対してが一番殻が薄くなっているような気がしていた。
そうして決行されたのが、本日の『お月見』。
一番良いポイントとして選んだのは本部実習棟の屋上。そこへ続く窓のない螺旋階段もいい相乗効果となったようだ。
ミモザは未だ呆けたように月を見ているトリスの手を引いて屋上へと導き、続いてギブソンが出たのを見て扉を閉める。
目配せして疲れきった顔で用意をはじめる相棒を眺め、ミモザはトリスへ声を掛けた。
「どう? 綺麗でしょ?」
一応は聞いているらしく、月に目を向けたまま小さく頷く。
「……やさしい……ひかり……なにかに、にてる……」
「……何かって?」
ミモザの問いに少女はゆるくかぶりを振る。
わからないのか思い出したくないのか。それでも結果は上々だろう。
閉じ込めてしまった記憶を刺激することはできたのだから……
「さぁーて。じゃ月見酒ならぬ、月見お茶会といきますか!」
準備の整ったその場所へトリスを導く。
小さな敷物の上に載せられた人数分のケーキと紅茶。
ミモザに促されるままちょこんと敷物の上に座ったトリスに、ギブソンが笑顔でケーキの皿を渡す。どうやらギブソンはケーキを前にすると上機嫌になってしまうようだ。つい先程までの疲れきった様子は微塵も残っていなかった。
「それじゃ、いただきましょうか」
ミモザの言葉が、開始の合図。
ギブソンは満面の笑みで生クリームのたっぷり乗ったケーキを口に運ぶ。
その様子を呆れ気味に見やりミモザも一口食べる。彼女のは甘くないミートパイ。
「う~ん……やっぱりあたしは辛いもののほうがいいわ~。不味くはないけど」
「辛いケーキなんて聞いたことないな」
「誰もケーキなんて言ってないでしょ」
「……おや? 君は食べないのかい?」
二人はトリスが皿を手にしたまま、じっとこちらを見ているのに気付いた。
彼女は二人の様子を眺め、やおらフォークを手に取るとケーキを一切れ口に含む。しばし咀嚼し……
「……あまい……」
無表情に感想を述べた。
「ひょっとして、甘いものは苦手だったかな?」
ギブソンの残念そうな問いにかぶりを振るトリス。
その様子を目を細めて眺め、ミモザは自分の皿のパイを一切れトリスの口に放り込んだ。
「んじゃ、こっちは?」
「……あまくない」
「どっちが好き?」
ふたつのケーキを見比べて……トリスは自分の皿を示す。
それにギブソンがあからさまに喜色を浮かべたのは、言うまでもないだろう。
中天に輝く満月を、紅茶の入ったカップ片手に三人は見上げていた。
青白色の淡い月光は、優しく……そしてどこか淋しげに地上にある全てのものを包んでいた。
「綺麗だな……」
「そうね。う~ん、でもお月見もいいけど、夜見る花も綺麗で好きなのよね。特にアルサック」
ミモザの言葉にギブソンは苦笑する。
そんな二人を眺め、トリスは小首を傾げた。
「アルサックの時期はもう終わっているだろう?」
「だから月見で我慢してるんじゃない。アルサックっていうのは、ピンク色の花で甘い香りのするやつよ。ここの中庭にもあったでしょ?」
トリスの疑問に気付いたミモザが答えと共に問い返し、トリスはしばし考えゆっくりと頷く。
可愛らしい仕草に、ミモザは微笑んでその頭を撫でてやる。
「……おはな……にてる?」
「ん? ん~ん? 今日の月……確かに何かに似てるわね~。というか何かを連想させるような……」
再び月を見上げ、紅茶を飲みつつ呟くミモザ。
同じように空を見、ギブソンはふっと脳裏を掠めた情報を口にした。
「ああ、それは花じゃないかな。確か……雪の降る地方だけに咲く花の中にこんな色のものがあったはずだ」
「ふ~ん……名前は?」
「いや……それが思い出せないんだ」
役に立たないわね、と洩らしたミモザに厳しい目を向けるギブソン。痴話喧嘩モードに突入しかけた二人の耳に、先程の問いの答えを届けた小さな声は……
「……ゆきげっか……」
儚く、震えていた。
「……トリス?」
異変に気付き呼びかけるが、トリスには届いていないようだ。
大きく目を見開き、月だけをその視界に納めていたトリスは、不意に俯き頭を抱えた。
「……や……やっ……ちが……う……」
明らかに怯えた様子を見せるトリスに、正直二人は焦った。
どうやら刺激しすぎたようだ。
このままでは一生殻の中か、最悪自我崩壊を引き起こしてしまう。
こうなったら……賭けるしかない――!
「……ちがう、アレは……ゆめ……」
覚悟を決め、虚ろな瞳で震えるトリスを、ミモザは優しく抱きしめた。
「夢じゃないわ。全て現実よ。ちゃんと見なさい」
「げんじつ……じゃ、ない……ゆめ……あたしには、カンケイナイの……」
「ある。大アリ。全て夢にしちゃっていいワケ? ここにこうしているあたしもキミも……全部幻?」
震える小さな背中を落ち着かせるように優しく撫でて。
「あたしはここにいる。キミもここにいる。これは夢? それとも幻? 違うわよね?」
しかしトリスは答えない。ただ震え続けるのみ。
「これは現実。過去があって今がある。辛いことがあったかもしれない。でも楽しいことだってあったでしょ? それも全部否定しちゃうの?」
変化のない現実に、最悪の結果が頭から離れない。
けれど一縷(いちる)の望みをかけて。
ミモザは言葉を紡ぎ続ける。
「ねえ、トリス。あたしはキミが好きよ。あたしはキミの味方。力になりたいと思ってるの。トリスはあたしのこと嫌い?」
月へと視線を移したミモザの顔が、今にも泣き出しそうなほど歪んでいたのを、ギブソンは見た。
「……ねえ……逃げないでよ……あたしはキミの力になりたいのよ。あたしが邪魔ならもう近付かない。だから答えて……キミの気持ちを聞かせてよ……」
やはり答えは返らぬままで。
ミモザは強く彼女の体を抱きしめた。
「ねえ、今何を思っているの……何が……あったの? ……ユキゲッカが、どうしたの……?」
涙が、こぼれた。
一人の少女を自我崩壊へ導いてしまったという現実と、救えなかったという無力感で。
もはや声すら出ずに涙を流す相棒にギブソンは一度目を閉じ、そして彼女に向けて手を伸ばした。
だが、その手はミモザの肩に触れることなく止められた。
同様に彼女もまた大きく目を見開いている。
それはひとつの変化故に。
「……トリス……?」
もう、元には戻らないと思われていた少女は、ミモザの腕の中で弱々しく、けれど確かに自分を抱く彼女の腕を掴んだのだ。
「……トリス」
もう一度呼びかける。
力を緩めて、トリスを覗き込む。
震える体。悲しみと恐怖に歪んだ顔。
けれど、瞳には微かな光が宿っていて。
「……ゆきげっかの花が、咲いたの……」
言葉が、紡がれた。
「夏になったら、実がなるねって……採りに行こうねって、言ってたの……なのに……」
涙が……頬を伝う。
幾筋も、幾筋も。
「……みんな、死んじゃった……あたしのせいで、死んじゃったの!!」
慟哭。
それは夢の終わり。目覚めの合図。
「ねえ、あれは夢なの?」
夢へとすり替えた過去を現実として受け入れたその瞳で、トリスはミモザを見上げる。
驚愕に止まっていたミモザは優しく、優しく微笑んで、今ようやく目覚めた少女の頭を撫でた。
「現実に決まってるじゃない。だからこうしてあたしに会えたんでしょ?」
「みんな死んじゃったのに、あたしは生きてるの?」
「そうよ。みんなのためにもキミは生きるの。生きて幸せになることがキミの償い」
「そして彼らのことを忘れず覚えていること。それが生きているものができる唯一の死者への弔いだ」
ミモザの後をギブソンが続けた。
トリスは掴む手に力を入れて、俯く。
「……でも……」
「心配しなくても、これから辛いことなんて山ほどあるわよ。その中で楽しいこと見つけていくのよ!」
顔を上げ、きょとんと見つめてくるトリスの額にデコピンをかまして、ミモザは笑う。
「このミモザお姉さんが、たっくさん教えてあげるから。覚悟しときなさい♪」
一度トリスは目を瞠り、ふっとミモザのほうへ倒れこむ。
慌てる二人を他所にミモザに抱きつき、トリスは涙を流した……
「……眠った……のかい?」
「みたいね」
ミモザの膝の上、泣き疲れて眠ったトリスを見下ろし、ギブソンは安堵の溜息を洩らす。
「一時はどうなることかと冷や冷やしたよ」
「あはは~。流石のあたしもダメかと思ったわ」
「あんな顔の君は初めて見たな」
相棒のからかうような言葉にミモザは返答に詰まる。
「わ、忘れなさい!」
頬を赤く染め、そっぽを向いたミモザの耳にくすくす笑う声が届く。
普段はからかう側のミモザにとって、からかわれるのは正直癪に障る。
仕返しを堅く決意し、とりあえずは目的を果たせたことに胸を撫で下ろす。
「トリスはこれからが大変だろーけどね。召喚術の勉強も始まるだろうし」
「一時期は減っていた嫌がらせの類も……増えるだろうな……」
「……でも乗り越えるのは割と楽でしょ。あんな辛いこと受け入れられたんだから。……泣いたり、怒ったり、笑ったり……いろんなトリスがこれから見れるわよ」
「本当の……トリス、か……」
いつかのミモザの言葉を呟いて顔を上げたギブソンは、思わず動きを止めた。
眠るトリスの髪を優しく梳くミモザの目は、ひどく暖かくて。
暖かく、優しく……深く笑む女としての横顔に、ギブソンは一瞬目を奪われると同時に、信じ難い考えに浸る。
「……ミモザ……」
「ん~、何?」
「そうしていると、姉妹と言うより母子に見えるぞ」
いきなり何を言い出すのかこの男は。
軽く青筋を浮き上がらせ、ミモザは半眼で相棒を睨む。
「ちょっと~? まだ十代のうら若き乙女に対して『母親』はないんじゃないの~?」
その反論に、ギブソンは胡散臭げに目をすがめた。
「うら若き……『乙女』?」
不用意な発言をかましてくれたギブソンには、ペンタくんを丁重に進呈して。
ミモザはようやく動き始めた小さな宝物を手に、宿舎へと戻っていった。
後日、実習棟の屋上で起きた爆発について、侵入者か反乱者かと騒がれていたが、真実は数名の胸の中だけにとどまり迷宮入りとなったのであった……
ラウルが授業用にと用意した部屋で、ネスティは一枚の紙に目を通していた。
最後まで見終えて、室内へと視線を転じ……思わず溜息を洩らす。――と、直後。ノックと共に隣室、ラウルの部屋への扉が開かれた。
顔を覗かせたラウルは室内を見、疑問符を頭に飾る。
「……おや? ネスティ一人かね? トリスはどうしたね?」
「逃げられました」
溜息と共に答え、ネスティは手の内の紙をラウルに見せた。
それは、ネスティが昨晩トリスへと出した課題用紙。召喚術の基礎を試す内容のそれには、空欄は全くない。ただし、半分以上は誤答だが。
「ほっほっ、仕方がないのぉ」
基礎の基礎すらままならないことを目の前に突きつけられても、ラウルはただ穏やかに笑うだけ。
予想の範囲内だった養父のその反応に、ネスティはまた溜息をついた。
部屋を抜け出したトリスがギブソン、ミモザと共にどこかで一夜を明かした翌日、彼女は感情を取り戻していた。
虚ろだった大きな瞳に、確かな光をほんの少しの不安と共に映して、真っ直ぐに前を見るようになった。のんびりと言葉を探すように話していたのも、はっきりと発音するようになったし、今まで無反応だったのが怒られれば頬を膨らませてすねてみせたり、口答えをしてみせたり……果ては悪戯を仕掛けてきたりと、年相応の行動をするようになっていたのだ。
心が戻ったということで、当然召喚術の勉強は開始された。
初めのうちは、あまり乗り気でないながらも授業を受けていたのだが、今までは午後が丸々自由時間だったせいだろうか。最近は良くサボるようになっていた。特に午後は。
やる気が皆無で不真面目一徹。そんな彼女に、しかしラウルは決して強制はしなかった。
賭けに勝利したことへの余裕か、嬉しさか。ようやく『普通』を見せてくれるようになった彼女を、しばらくは見守っていたいのか。
――否。
「仕方がないでは済みませんよ。このままでは、何年経っても彼女はここに縛られたままです」
最悪ともいえる事態になる可能性が多大にある。
そう提示すると、今度は苦笑を浮かべるラウル。
「そう急ぐこともあるまいて。あのようになるまで一年かかったんじゃ。もう少し待ってみようではないか」
ラウルがトリスに強制しない理由は――恐れ。彼女が再び殻に閉じこもってしまうのを恐れているのだ。
トリスは確かに感情を露にし、年相応の少女らしくなった。だが、それは完全ではない。
ただひとつ……『笑う』ということだけは、未だに取り戻していなかった……
そしてその事実は、まだ賭けが完全に終わっていない――ということでもある。
特にネスティにとっては、未だに答えが出せずにいた。
ネスティは溜息をつくと席を立ち、「トリスを探してきます」と言い残して部屋を後にした。
中庭にある一本の木の上。既に定位置となったそこにトリスはいた。
この場所のことはネスティも知っている。だからサボるなら場所を変えるべきなのだろうけど……トリスはいつもそこにいた。
――そこは彼女にとって特別な場所だから。
黒い感情の渦巻く『外界』で、曇硝子に囲まれた『箱庭』で。唯一、光の射した場所。惜しみない光を与えてくれる『太陽』と逢える聖域――
とはいえ、待ち合わせしているわけでもなければ、毎日会えるわけでもない。どちらかといえば、一人で過ごすことのほうが多くて。
それでもトリスは、『太陽』と会うために毎日そこに来ていたのだ。
今日もまた、一人の時間が過ぎていき――そして……
「トリス――――!」
待ちに待った『太陽』――ミモザとの再会が成った。
「ミモザお姉さん!」
自分の言いつけ通りの呼び名を、喜色の多大に含まれた声音で呼んできた少女。妹のような存在の彼女の頬を、同じ枝に着くなりミモザは両手でむにっと引っ張る。
「ひひゃひ、ひひゃひっ!」
苦情を受けてすぐに放すと、悪戯っぽく笑って。
「久し振り、トリス!」
「『久し振り』じゃないです! いきなり何するんですかぁ!」
引っ張られた頬を両手で押さえての抗議。
少し涙目でむくれた、その感情を露にした様に、ミモザは笑ってぽすぽすとトリスの頭を軽く撫でた。
「いや~……トリスの笑ったところ見たことないな~と思ってね」
途端にトリスは暗い顔つきになり、俯いた。
頭を撫でる手はそのままに、ミモザは優しく問う。
「何で笑わないの? あたしと会えるのは嬉しいことなんでしょ? あたし、トリスの笑顔見たいわ」
トリスは俯いたまま何も言わない。答えの返らないことに苛立つこともなく、ミモザはトリスの頭をゆっくりと撫で続ける。
――隠している気持ちを吐露するのは、かなりの勇気がいることだから。
それでもトリスは最も辛い記憶を――想いを告白した。一番高いハードルは既に越えている。それを知っているミモザに恐れはない。
後は、最後の階段を上るように促すだけ……
「…………笑えない……」
ポツリ、と。小さな呟きがこぼれた。
ミモザは手を止め、耳を澄ませる。
「こんな真っ黒いトコロじゃ、笑えないよ……」
「真っ黒って、何のこと?」
「……人の……目…………前の町にいた大人が、あたしたち浮浪児に向けていたもの……ここの人たちもおんなじ目をしてる」
トリスの口からこぼれ出た言葉に目を細める。
――本当に、人の負の感情に敏感な子だ。
己に向く悪意に満ちた瞳。その冷たさを、その醜さを、その昏さを。彼女は、よく知っている。そして、自分の行動が全て相手にとっては目障りで、悪意を増長させるということも。
ふと、ある疑問が浮かび、ミモザは問いかける。
「その『真っ黒な目』をしている人の中に、あたしとギブソン、ネスティにラウル様も含まれてるの?」
トリスはかぶりを振った。ただし、修正も入ったが。
「お姉さんは違う。けど……ん……ギブソン先輩は少しだけ。あとの二人は、みんなと同じ」
返ってきた答えは、ミモザにとって更に疑問の残るものだった。
名を挙げたものたちは皆、トリスに対して悪くは思っていないはずだ。それなのに、はっきりと否定されたのはミモザだけ。一番トリスのことを想っているだろうラウルは『害なす者』に分類されている。
少し考えて……ひとつの可能性に行き着いた。
再び手を上げ、今度は少し乱暴にトリスの頭を撫で、そして――
「それじゃ、その真っ黒なモノがないトコに行ってみよっか?」
本日、彼女のもとを訪れた目的を遂行すべく、ミモザはひとつの提案を出した。
「ぅわぁ~……キレー……」
眼前に広がる光景に、トリスは感嘆の声をあげた。
整えられた遊歩道がのびる先、大きな噴水が水しぶきを陽に反射させている。周囲には緑の芝生や木立の他、美しい花の咲き乱れる花壇もあり、それらをゆっくりと楽しむことが出来るようにベンチも所々に備えられていた。
中庭よりも広く、そして光に溢れている庭園。そこで思い思いに時を過ごす人々からは、あの黒い感情は何も感じられなかった。
――派閥の外に、こんなに暖かいところがあったなんて……
「『導きの庭園』っていうのよ」
丁寧に教えてくれてから、ミモザは入り口で立ち止まっていたトリスの手を引いて中へと導いてくれた。
手を引かれてるまま歩きながらふと下を見たトリスの目に、淡い桜色のスカートが映る。それは、今トリスが身につけているワンピースのものだ。派閥の制服では目立つからと、ミモザがあらかじめ用意していたものである。
黒いモノのないところに行ってみよう、と。提案したミモザに連れて行かれたのは、中庭沿いにある塀の一角。建物からも中庭からも死角となるその場所に、何故か無造作に積まれていた樽と木箱を足場にして、二人は派閥の外へと出たのだった。
『あたしも見習い時代は、よくこうして脱走したのよね~』とのお言葉つきで。
「どう? なかなかいい所でしょ?」
少し照れくさいような想いを感じながらスカートを見ていたが、ミモザの言葉で改めて周囲に目をやる。
「うん……すごく、あったかい……」
その答えにミモザは満足げに微笑むと、辿りついた噴水の縁に腰をおろして何かを取り出した。
それは、両の手を合わせたものより少し大きめの、青い楕円形をしたモノだった。側面には小さな穴がいくつかあり、上部にはひとつの突起がある。
「これはオカリナっていう楽器よ」
見たことのないそれに首を傾げていると、ミモザが答えをくれた。
そうして、彼女はソレに口をつけ……曲を奏ではじめた。
やわらかく深い音色。ゆっくりとした暖かい旋律。
初めて聴くそのやさしい音楽に、トリスは目を閉じて聞き入る。
高すぎず低すぎず。一番心地好い音階で奏でられる曲は、まるで母の子守唄のようで……覚えているはずもないのに、酷く懐かしく思えて――思わず涙がこぼれそうになったその時、曲は終わった。
――直後。わっと拍手が周囲から湧き起こり、あまりの唐突さに驚いて涙は溢れることなく消えてしまった。
動悸を抑えつつ視線を巡らせると、いつの間にか自分と同年代の子供たちが集まり、二人を囲んでいた。
「すごいすごい! とってもキレイな曲だった!!」
「お姉ちゃん、上手~!」
口々にミモザに賛辞を投げかける彼らの顔は、皆一様に嬉しそうな笑顔で彩られていて。
トリスには、それが眩しく見えた。
「ねえねえ、もっと聴きたいよ」
「聴かせて聴かせて!」
「よっし! 任せなさい!」
子供たちのアンコールを二つ返事で快く受けるミモザ。その後、ギブソンあたりが見たら「何をしでかす気だ?」と胃を痛めそうな企み顔をしたミモザに、しかしトリスは期待に胸を膨らませる。
「でも、ただ聴いてるだけじゃつまらないでしょ? 今度はもっとテンポいい曲にするから、みんなはそれに合わせて踊るっていうのは、どう?」
ミモザの提案は、子供たちにあっさり受け入れられた。
すっかり乗り気になっている彼らに合わせることもできずに困っていると、ミモザと目が合った。彼女は軽くウィンクして見せてから、演奏を開始した。
――キミも踊りなさい、と。
彼女の瞳は、そう言っているようだった。
曲に合わせて、子供たちは踊り始める。くるりと回ったり、ステップを踏んだり、数人で組んでみたり。
だが、トリスは動くことができずに困り果てていた。
音楽を聴いたのも初めてで、当然踊ったことなどなかったからだ。
立ち尽くしたまま、子供たちを眺める。
思い思いに踊る子供たち。彼らの顔には作り物ではない笑みがある。汚れを知らない、無垢な笑顔。
それが眩しく見えるのは、うらやましいから。自分にはもう、手の届かないモノだから。
――光の中の子供たちと、闇に堕ちた自分。
居たたまれなくなって、じりっと一歩後退った……その時、踊っていないトリスに気付いたのか、一人の少女が近付いてきて。
「いっしょに踊ろうよ!」
差し出された手に、向けられた笑顔に。トリスは大きく目を見開く。
真っ白な心、真っ白な笑顔。その手を、黒く――否。赤く染まった自分が取ってもいいのだろうか。
「……いい、の?」
多大な期待と、少しの恐れと。そんな想いから出た言葉は、小さく震えていて。
トリスの葛藤を知る由もない少女は、きょとんとしたまま小首を傾げて。
「うん? だって、みんないっしょのほうが楽しいでしょ?」
その、言葉は。トリスの中に永らく眠っていたモノを思い出させた。
いつだったか、同じ孤児仲間に訊いたことがあった。ただでさえ困難が多いというのに、自分まで共にいてもいいのか――と。
――難しいからこそ一緒にいるんじゃないか。仲間がいれば、嬉しいことも辛いことも楽しいことも、みんな分け合えるだろ?――
それが、当時リーダー格だった少年の答えだった。
一人で生きることしか知らなかった自分。急にできた仲間に、正直戸惑い、また恐れを抱いていた。心を開いた途端に要らないと言われるんじゃないかと……誰かといる楽しさを知ってしまうのが、その後独りに戻るのが怖かった。
だからこそ、少年の言葉はトリスにとってかけがえのないものになった。
――そして、今も……
自分は必要のない人間だ、と。そう思っておけば、他人に何を言われても耐えられた――否。諦められた。逃げ道が……できた。
けれど、心のどこかでは望んでいたのだ。あの『幸せ』を、もう一度手に入れたい、と。
望みながらも、恐れが勝って何もできずにいた。『光』を与えてくれたミモザに、ただ甘えて満足しようとしていた。
手を伸ばす勇気が、持てなかった……
「あれれ? どうしたの? なんで泣いてるの?」
言われてはじめて頬を濡らす涙に気がついた。同時に止められないこともわかって、両手で顔を覆ってかぶりを振った。
色々な感情がごちゃ混ぜになっていて、何で泣いているのか自分でも判別がつかなかったからだ。
他の子供たちも踊りを中断して寄ってくるのが気配でわかって。
トリスも子供たちも困り果てていると、ミモザがそっと耳打ちしてきた。
その言葉に再び目を見開いて、そして強引に涙を止めて目元を拭うと、トリスは声を掛けてきてくれた少女に向き合った。
「あたしも……仲間に、入れてくれる?」
トリスの問いかけに、少女は一瞬目を丸くした後、にぱっと笑った。
「うん! 踊ろう!」
笑顔で差し出された手を、今度は躊躇わずに取った。
再開した演奏と子供たちのダンス。
その中でトリスは、『箱庭』を囲う曇硝子が砕ける音を――聞いた、気がした。
中庭のいつもの場所でトリスを見つけられなかったネスティは、内心焦っていた。
派閥にいる大多数の者は『成り上がり』を嫌っている。そんな者たちがトリスに対して何をするか……想像するのは難しいことではなかった。
面倒なことにだけはなっていてくれるな、と。
祈るような気持ちで派閥内をくまなく探していると、意外な人物から情報を得られた。
何も訊くことはなくネスティの様子だけを見てその人物、ギブソンは彼をとある場所へと案内した。
それは派閥の正門。
あっさりと自分を連れ出すギブソンに、ネスティは眩暈を覚えながらついていく。
出会った時から破天荒な人だとは思っていたが、まさか派閥の外に連れ出すとは思わなかった。ギブソンもよくミモザと組んでいられるものだと、感嘆せずにはいられない。
とにもかくにも。己の先輩の事情よりも、今は妹弟子のほうが問題だった。
授業をサボった上に派閥の外にまで行くとは……
どう説教しようか、と。考えていたネスティの耳に、オカリナのやわらかな音色が届いた。顔を上げてみると、思い思いに踊る子供たちとオカリナを吹くミモザが見えた。
そして……子供たちの中に混ざって踊る、トリスの楽しげな姿が。
思わず言葉をなくして佇むネスティ。いつかの、落ち着かない感覚が蘇る。
知らず知らずのうちに己の腕を強く掴んでいたらしく、俯き加減になっていた視界に淡い桜色のスカートが映ったことでそれに気付かされた。
心情を悟られないように努めて平静に顔を上げた。こちらの様子を窺うように覗き込んできていた紫水晶と視線が絡む。
「……何だ?」
そわそわと、何かを言いたそうにしているトリスに、促すように言った。
一瞬怯えるかのように身を震わせた彼女は、後ろからやってきたミモザに肩を叩かれて、意を決したように一歩進み出た。
そして――
「……ネス」
ネスティの名を呼んで……笑った。
初めて見た笑顔に、大きく目を見開いた。言葉は何も出てこなくて、ただようやく全てを取り戻した妹弟子を見つめる。
色々と……そう、色々と考えていたことは、見事にすっ飛んだ。
白紙状態の脳の中、たったひとつわかることは――この上なく『嬉しい』と思っている自分だけ。
完全に思考回路が停止したまま、ネスティはその抱えている気持ちの示す通りに動いた。
そのことに本人が気付くのは、かなりの時間が経ってからだった。
「おかえり、トリス……」
抱きしめられたまま告げられた言葉に、トリスは目頭が熱くなるのを覚えた。
――その子たちにもネスティにも笑ってあげなさい。そうすれば、彼らの『黒いモノ』はなくなるから――
あの時、ミモザが耳打ちした言葉。
半信半疑だったけれど、今ならわかる。ネスティとギブソン、それにラウル。この三人が発していた黒い感情は悪意あるものではなく、『心配』。
自分のことを、ただ一心に思っていてくれるが故に凝り固まってしまったモノ。
安堵をもたらせば、こんなに簡単に溶けてなくなってしまう……
それを気付かせてくれたミモザを振り仰いで。
トリスは、手に入れた幸せを知らせるように、泣き笑いになりながらもピースサインを送った。
「そんなことがあったんですか……」
木洩れ日が優しく降り注ぐ午後。ティーカップを片手に、柔らかな茶色の髪の少女がそう言った。
昔話を語っていた紫紺の髪の少女は、同じように手にしたカップに口をつけて、頷く。
「初めてアメルに会ったときね、『要らない人間なんかじゃない』って言ってもらえて嬉しかった。でもね、あの時の……ミモザお姉さんに教えてもらったこと、すっかり忘れてたの思い出して自分に呆れたのよね」
紫紺の髪の少女――あれから随分と成長を果たしたトリスは、苦笑して告白する。
アメルと呼ばれた茶髪の少女は、優しく微笑んだ。
「でもそれは、消えてなくなっていたわけではないと思いますよ。思い出すことがなかっただけで、トリスの心にはしっかり根付いていたはずです」
「……そうかな?」
「そうですよ。今こうして話してくださったのが、何よりの証拠です」
にっこり笑って断言する親友に、トリスもつられて笑う。それから、すぐ側にそびえ立つ大樹を見上げた。
それは『聖なる大樹』と呼ばれるモノ。かつて禁忌の森と呼ばれ、クレスメントとライルの罪の結晶である機械遺跡のあった場所に立つソレ。
大悪魔メルギトスが自分を封印した者たちへの復讐がてら、リィンバウムを手中に収めようと画策した。それを阻止すべく戦った折、彼の最期の悪足掻きからこの世界を――否。トリスの生きる未来を守るために、唯一人メルギトスに向かっていき、見事目的を果たしたネスティの現在の姿。
今なお、世界を浄化し続けている……その彼の根元。いつ頃からか、トリスとアメルは真っ白なテーブルと椅子を持ってきて、そこで午後のティータイムを送るのが日課になっていた。
強い陽射しをその葉で遮り、やわらかな木洩れ日に変えてくれている大樹を仰いで――ネスティへと笑みを向けて。
「うん……そうかもね」
トリスは、呟いた。
彼女の穏やかな笑顔に安堵が広がって……アメルは浮かんだ疑問を口にした。
「トリス。その『箱庭』は今、どうなっているんですか?」
問われたことにトリスはきょとんとして、次の瞬間にはくすくすと心底おかしそうに笑い出す。
アメルは、そのトリスの反応の理由がわからず小首を傾げたが、あまりにも笑い続けるものだからむぅっと頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
そんな彼女に気付いて、トリスは何とか笑いを治めてアメルに向き直る。
「ごめんごめん。――はい」
差し出された手とトリスとを交互に見て、再び首を傾げる。
トリスは片手で頬杖をついたまま笑って。
「直接見たほうが、説明するより早いしわかりやすいでしょ」
――それはつまり、聖女の力を使って心を覗け、ということ。
逡巡した後、アメルは差し出されたトリスの手に自分の手を重ねた。そして……
鮮やかな緑と美しい花々に囲まれた庭園。ハンモックの吊り下がった樹木。白い丸テーブルと椅子。
そのテーブルの上、ふたつの小さな額にはまっているのは……アメルが知るよりもずっと若いネスティとラウル、ミモザにギブソンの似せ絵と――自分も含めた共に旅をしてきた仲間たちの似せ絵。
それらが、眩しい……あたたかな光に抱かれて、静かに鎮座していた。
目を開けて見えた現実では、満面の笑顔のトリスがいて。
「見えた?」
「……はい。とても綺麗でした。それに、どこかこの場所に似ていましたね」
「うん」
素直な感想を口にすると、トリスは笑みを深くして席を立った。そして大樹へと歩み寄る。
「今は休憩所、みたいな感じかな」
完全になくなったわけではなく、けれど閉じこもるための場所でもなく。
ただ、疲れを癒し英気を養うための揺り籠だと。
「……でも」
辿り着いた大樹に手をついて、トリスは体重をそれに預けきり。
「早く戻ってきなさいよね。じゃないと、また箱庭に引きこもるわよ」
そんな気などさらさらない、悪戯な笑みを浮かべて。
トリスはネスティへと話しかけた。
まるで彼女に応えるかのように、ざわざわと葉が鳴り……
一筋の木洩れ日が、彼女を包んだ。
それはかつて、眠っていた彼女を起こした光のようで。
現実で、箱庭で。
太陽の光は惜しみなく降り注ぐ。
トリスが、自分の力で見つけた太陽は、かげることなく彼女の心にあり続けるから……
はこにわのたいよう・完