駆 け 引 き

 東方司令部司令官、ロイ・マスタング。
 『焔』の名を冠する国家錬金術師であり、29歳という若さで既に大佐という地位にいる実力者。加えて、端正な顔立ちとよく通る声。
 これら全てが彼を形作る要素であり、そして多くの女性たちを虜にしている要因であった。
 本人の女好きもあって、彼の誘いを断るような者はおらず、その声で睦言を囁かれた日にはもう彼以外見えなくなる女性が多い。
 恋の手管において百戦錬磨の彼だが、実は落とせない相手がいた。それも身近に、二人も。
 司令部内では有名な事実。
 一人は彼の優秀な副官、リザ・ホークアイ中尉。デートのためとしょっちゅう仕事をサボるロイの手綱を握る彼女。実は東方司令部の陰の支配者ではないかとまで噂される彼女に手を出そうものなら命はない――と。皆、納得している相手だ。
 そして、もう一人。リザと同じくロイの副官を務める大尉だ。リザと共にロイの手綱を握っているのだが、司令部の人間には何故彼女がロイの魔の手に掛からずに済んでいるのかが不思議でならなかった。
 常にポーカーフェイスのリザと違い、はころころとよく表情を変える。気さくで、階級など気にせず誰にでも優しい彼女は司令部の癒しの女神とまで言われる人物。司令部の者から見たロイにとってのとリザは、まさにアメとムチ。
 そんな彼女に、当然の如くロイはいつものように言い寄っているのだが、はいつも軽くあしらって終わる。――逆にロイを手玉にとることもあるツワモノだ。
 ――実は既に恋人、ないし婚約者がいるのではないか、と。
 そんな噂も真しやかに流れていた。

 ――で、問題の二人の本日の様子はというと……

「大佐。手が止まってますよ」
 やわらかな女性の声が司令官執務室に響く。
 その声に反応し、重い溜息が洩れた。
「ここまで山になっていると、やる気も削がれるというものだよ。大尉」
 うんざりしたようなよく通る男性の声が答えた。
 言わずと知れた女性は、男性はロイだ。例によって例の如く、本日もまた溜まりに溜まった書類を消化するため副官の監視付で業務を行っているロイ。
「自業自得というものですよ。毎日きちんとその日の分をこなしていれば、山ほど溜まるなんてことはありえないんです」
 本来ならばないはずの机で裁可済みの書類をチェックしながら、スパッと切り捨てる
 ロイは本当にやる気がないのか、片手でペンを弄んでいるだけで、先程から全然進んでいなかった。――もっとも、本日はリザが中央に出向いていていないから、というのが大きな要因だろうが。
 くるくるとペンを回しながら、自分の前に持ってきた机で確認作業を続ける部下の姿を眺める。
 書類に目を通すため自然と伏し目がちになるその横顔は、何か憂いを秘めているようで、普段の明るい様とは違った美しさがあると思う。
 司令部の者が女神と称するほどの彼女を、一度その腕に抱いてみたいとは常々思うのだが、なかなかどうして。直球で行こうが変化球で攻めようが、全て軽くかわされてしまう。
 決まった相手がいるのではないか、という噂はロイの耳にも届いているが、ロイが見る限りではその可能性は低い。
 なのに、何故落とせないのか。
 理由はわからないが、逃げられれば追いたくなるのが男の性。
 書類に手をつけないでロイは、どうすれば彼女を落とせるのかということに頭を使っていた。
 不意に顔を上げたと目が合った。彼女はこちらを見て一瞬眉をしかめた後、嘆息する。
「……大佐、進めてください」
 再三の要求にも応えず彼女を眺めていると、再び溜息をついては席を立った。ロイのデスクを迂回し傍らに立つと机上の書類の山から一山取り出し、別の小山を作る。
「この分だけは今日中にやっていただきませんと、期限切れで上から苦情が来ますよ」
「そう言われてもね……」
「上を目指している方が、この程度のことでつまらない批評を受けてもよろしいので?」
「それは困るな」
「なら、きちんとやってください」
 言い捨てるように離れていこうとするの長い髪を一房手に取ると、当然頭が引っ張られる形で足を止めざるを得ない。恨みがましい目を向けてくる彼女に、悪戯を思い付いた子供のような笑みを向けて。
「……大佐」
「君のやる気を分けてくれないかい?」
 そう、言ってみた。
 は目を丸くして、その白い手をロイの額へと伸ばす。
「……大尉?」
「熱はありませんね。体調も問題なさそうですし、『焔の錬金術師』ともあろうお方がこの程度でオーバーワークするはずもないでしょうし……」
 額にしばらく当てていた手を今度は首まわりへ移動させて触診した後、は自分の顎に手を当てて悩みのポーズをとりながら嫌味と取れなくもないことをさらりと言った。
 彼女が言うと嫌味もそうとは聞こえないから不思議だ。
「冗談?」
「いや。大真面目だが?」
「やっぱり頭壊れました? 『やる気』なんて分けられるものではないでしょう?」
「そうでもないさ。君からキスひとつもらえれば、私のやる気は補充されるよ」
 にっこり笑ってさらりと。
 ロイの口から出た言葉には固まってしまった。理解するのに時間が掛かったのか、かなり経ってから溜息と共に言葉を吐く。
「……ふざけないでください」
「ふざけてなどいないよ。キス一回してくれれば、この仕事を全てサボらず片付けよう」
 は何も言わず、ほんの少し眉根を寄せてロイを見据えている。
 後もう一押し。
「どうかね?」
 指に髪を絡ませたまま、極上の笑みと共に彼女を見上げる。
 しばらく両者そのまま動かずにいたが、が諦めと取れる溜息を洩らしたことで動きは再開される。
 落とせた、と。そう確信したロイは絡めていた髪を引く形での顔を近付けさせる。やがてロイの顔に影が落ちて――……

 ――ゴスッ。

「――ッ!?」
 脳内に直接響くような鈍い音と痛み。
 ロイは反射的に項垂れるようにして額を押さえた。
「なに……を……っ」
 然して間もなく顔を上げて発した抗議の言葉は、その全容を見せることなく呑み込まれた。
 目に映るのは白い肌、長いまつげ。微かに香る花の匂い。やわらかい――唇の感触。
 驚きに固まったのも一瞬のこと。ロイは額の痛みも忘れ目を閉じた。そして、すぐに離れていかないように……完全にを手中に収めるために、深く唇を合わせようとした矢先。自ら舌を差し入れてきた。
 軽く舌先をつつかれ、絡めとられて吸われる――激しい口付け。
 ロイはへと手を伸ばした。今まで幾人もの女性にそうしてきたように……
 しかしロイの腕はの体を抱くことはできなかった。唇の熱が消えると同時に空を切る。
 欲望に火をつけかけられての流れの中断に、さしものロイも目をしばたかせる。
「た、大尉……?」
 ロイの呼びかけに、は何事もなかったかのような涼しい顔を向けて。
「隙だらけですね、大佐。そんなんじゃ、大総統になる前に首取られますよ」
 言った。
 はじめの頭突きのことだと気付き、再び額が痛みを訴えてくる。
 何故かその痛みがを落とせなかった自分を嘲笑っているような気がして、ロイは肩を落とす。
「さて、お望み通りキスしたんですから仕事、ちゃんと片付けてくださいね。少なくともその山は、後一時間以内に処理したほうが身の為ですよ」
 何故時間制限つきなのか。
 訝しげな視線に気付いたのか、はたまた初めからわかっていたのか。はにっこり笑って言った。
「後小一時間ほどで、中尉が戻ってくるそうですから」
「それを先に言いたまえ!!」
 先程連絡がありました、と。そう告げられた言葉に、ロイはすぐさま机にかじりついた。
 ころころと鈴を転がすような笑い声が耳を打ち顔を上げれば、実に楽しげな様子で扉へと向かう部下の姿が見えた。
「では、私は集中力が増す効果のあるハーブティでも淹れてきます」
「ああ……そうしてくれたまえ……」
「……大佐」
 溜息と共に返答して書類へと目を落とした途端の呼びかけ。
 再び顔をあげた先には、やはり楽しげな顔のが扉の前に立っていて。
「ごちそうさまでした♪」
 人差し指を自分の唇に当てて、そう言った。
 そうして、そのまま彼女の姿は扉の向こうへと消えていった。
 訪れた静寂の中、かなりの間呆けていたロイは項垂れる。
「また、からかわれただけ――か……」
 もう何度目かわからぬ言葉をこぼして、書類へ大人しくペンを走らせ始めた。


「……びっくりした……」
 給湯室。お茶を淹れる為やかんを火にかけているその前で、台に手をついたままはしゃがみこんでいた。台についた手でさり気なく隠している顔は、朱に染まっている。
 周囲には誰もおらず、また近くに人の気配もないことに安堵して、息をつく。
「もー……まだ感触、残ってるじゃない……」
 唇を手で覆って呟くその顔は、これ以上ないくらいに真っ赤になっている。とても、先程濃厚な接吻を男にかましておきながら、あっさり涼しげに笑っていた人物とは思えない状態。
 自分からしたこととはいえ応えてきたあの感触を……熱を、そう簡単に忘れられるものではない。
 まして、それが……想い人のものだったなら、尚のこと。
「やっぱり、油断できないわよね……あの人……」
 ロイが自分をモノにしたいと思っていることを、当然も知っていた。何しろ、ロイがをそういう対象に見るよりもずっと以前から、はロイを想っていたのだから。
 でも――
「簡単には落ちてなんかやらない」
 ロイが今まで付き合ってきた数多くの女性たち。その中の一人になるなど、冗談じゃない。
 一時の恋などいらない。そんな殊勝な女じゃない。
 欲しいのは悠久の愛。
 愛しい男の、本気の想い――……
 けれど……
 は溜息をついた。
 ロイ・マスタング。あの女好きを本気にさせるのは容易じゃない。少なくともは、未だかつて女性関係で本気モードに入っている彼を見たことは――ない。
 それはつまり、そこらのごく普通の女では本気にはならないということ。
 幸い自分は軍人で、ロイの副官でもある。――彼に一番近い位置にいる、この状況を利用しない手はない。
 誘われてすぐに乗るようじゃ行きずりの女と変わりないし、かといってつれないままではあっさり他へと目を向けられる。
 ポイントは……そう、寄せては引いていく、波。
 近くにいるのに――近くに寄るのに、決して捕まえられないモノ。
 恐らくそれは彼の中にある女性たちの、どれにも当てはまらない。そしてきっと彼の内に焔を灯す。――眠る心を呼び覚ます……
 が、欲しているモノが……浮上する。
 ――そう……落ちてなんかやらない。落として見せよう。
 欲しいものはたったひとつ。
 それを手に入れるためならば……
「演技でもなんでもしてやるわ!」
 決意を新たにそう言ったの顔は、もう赤くなどなってはいない。
 ただ、不敵な……妖艶な笑みを刻んでいた。


 司令官執務室に、が去ってから休みなく続いていたペンが走る音が、ふと途切れた。
 三分の一ほど片付けたロイは溜息をつくと、机の引き出しから鏡を取り出して覗き見る。そこには唇に変に赤い色のついた自分の顔が映っていた。
 去り際のが唇を指し示した理由は、コレだ。
 すなわち、移った口紅を落としておけ――ということ。
 落としたい相手に逆に襲われたような情けない気分になって、ロイはもう幾度目かわからぬ溜息を洩らす。
「やれやれ、この私が落とせないなんて、な……」
 自嘲気味に笑って口紅を落としながら、ロイは考えを巡らせる。
 次はどの手でいこうか。どうすれば落とせるか。
 最近、気が付けば彼女を手に入れることばかり考えている気がする。今は特に……
「……まいったな」
 先程、扉の前で見たの顔が忘れられない。
 いつも明るく、多少子供っぽいところもある。その彼女が見せた、妖艶な笑顔が……女としての男へ向けるあの色香が……脳裏に焼きついている。
 普段、色恋沙汰とは無縁のような……いくら言い寄っても、まるで相手にしない彼女の意外な一面を見た感じで。
 今までなかった手応えが今回はあった。ただそれだけで、喜んでいる自分に気付かされた。
 それは、つまり……
 ロイは額を押さえ、天井を仰いだ。
 胸の奥に熱を感じる。
 が欲しいと想う。その気持ちは今までと変わらないようでいて、全く違うもののような気がする。
 が、欲しい。彼女の全てを見てみたい。
 全てを、手に入れたい。
 その、想いは……
「本気になりそうだ……」
 久しく忘れていた感覚に、珍しくロイは戸惑っていた。
 大きく息を吐き出して、再び書類へと向かった。
 その頭の中は、を手中に収めるための策を講じることに全てを使って……



 一人の男と、一人の女と。
 互いに欲するモノを手に入れるための駆け引き。
 その結果がわかるのは、きっとそう遠くはない未来――……

END