油小路



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 京都と神戸の間に鉄道が開通したのは、明治十年(1877)二月五日のことであった。一番列車には明治天皇が乗車した。

京都駅に降り立ったのは、結婚式以来であるから十一年振りということになる。すっかり様子が変わっていたのには軽いショックを受けた。駅舎は平成九年に立て替えられ、まるで国際空港のようなモダンな建造物に生まれ変わった。駅ビルに入っていたレストランも姿を消していた。生まれて初めてメシを4杯もおかわりした食堂や、忘れられない鰻丼の味も消えて、昔日の面影はない。

駅前には相変わらず京都タワーがそびえている。この京都タワーは昭和三十九年に建設された。建設当時、古都の景観を損ねると侃侃諤諤論議があったらしいが、私の物心ついた頃には、駅前には京都タワーがあるのが当たり前で、個人的には特に違和感はない。車窓から京都タワーを見ると「京都に帰ってきた」と懐かしみを覚えるくらいである。

当時の雰囲気を伝える一文を矢野貫一著「京都の歴史案内」(昭和四十九年刊行)より紹介してみよう。

――― 反対者はいった。京都は街とそれをつつむ山川との全体がひとつの文化財だ、そこに近代建築の長大な塔を建てるのは、古都の調和を破壊するものだ、と。また営利事業のために、玄関先に醜怪な塔をつくるのは、京都の恥晒しだ、と。

京都の街はこれまでも幾度となく変化を遂げており、街の風景も都度変化している。その中に変わらないものもある。新しいものと古いものが混在して、何となく調和を保っているのが京都の街の特徴で、それはそれで良いのではないかと思う。京都ではホテルを建設するとか、何かできるたびに論争が起きる。確かに、例えば以前の京都駅のことを思い浮かべると、昔のものに郷愁を感じることも理解できるが、新しいものを受け入れる柔軟性も京都にはあると私は信じている。

さて京都駅から歩いて数分のところに油小路がある。

 油小路は京都の街を南北に貫いている道の中で最も長い通りだそうだ。通り沿いには京織物の店が集中している一角や仏具屋ばかりが並んでいる場所もあって、最も京都的な道かも知れない。幕末、天満屋事件と新撰組と高台寺党との血闘など、血生臭い事件の舞台になった。

(天満屋跡
中井庄五郎殉難地跡

 天満屋事件というのは、坂本龍馬暗殺事件の反動で起きた事件である。坂本龍馬は死の直前、いろは丸沈没事件で紀州藩と争った。龍馬は紀州藩から補償金を分捕ったが、紀州藩としては面目がつぶれた。坂本龍馬を暗殺したのはその紀州藩の仕業であると海援隊の連中は思い込み、慶応三年(1867)十二月七日、油小路花屋町の天満屋にいた紀州藩公用人三浦休太郎を襲った。三浦の方も襲撃に備えて身辺を新撰組に警護させていた。対する海援隊の方も十津川郷士、中井庄五郎を刺客に雇った。中井は三浦に斬りかかったが新撰組に倒された。三浦は頬に小さな傷を負っただけであった。


(油小路の血闘
本光寺

 司馬先生の「新撰組血風録」は新撰組を題材とした短編小説集であるが、その冒頭を飾る作品が「油小路の血闘」である。

 慶応三年(1867)十一月十八日、近藤勇は醒ヶ井通り木津屋橋の妾宅に伊東甲子太郎を招いて酒宴を催した。伊東が午後十時過ぎまで飲んで、上機嫌で帰宅の途に就いたところ、新撰組の人斬り鍬次郎こと、大石鍬次郎が槍を突き出して喉を刺した。伊東は本光寺の門前で力尽きて絶命した。
伊東甲子太郎外数名殉難之跡

 伊東の遺骸は七条油小路まで運ばれおとりとして置き捨てられた。これを引き取ろうとして駆けつけた高台寺党(伊東の実弟鈴木三樹三郎、服部武雄、加納鷲雄、毛内監物、藤堂平助、富山弥兵衛)を新撰組四十名が取り囲んで斬殺した。高台寺党は四人が死亡した。翌朝、現場には手指、肉片、血痕が飛び散っていたという。

 この時、近藤勇は藤堂平助の人柄を惜しみ
「藤堂だけは助けてやって欲しい」
と頼んでいたが、闇夜の乱戦で敵味方の識別もままならず、ここで討ち死にした。

京都駅
京都タワー