朝 来


(山口護国神社
山口護国神社
 解兵が決まると、あとは脱出する者、農民らの落人狩に遭って斬殺された者、縄についた者と様々である。最も壮絶だったのが、南八郎以下十三名であった。彼らは生野北郊の山口にて自刃した。南八郎(河上弥市)は、長州藩出身で時に二十一歳。今般の挙兵では平野とともに総督に任じられた。彼らは山伏岩に「今月今日討死」と血書して八人は切腹。残るはこの近くで討死した。
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殉節忠士の墓 書は西園寺公望
南八郎の奉献額

議論より実を行へ なまけ武士

国の大事をよそに見る馬鹿

 南八郎は腹巻に「おくれては梅も桜に劣るらん 魁けてこそ 色も香もあれ」と書いていたという。躯幹矮小であったが、豪気は他を凌駕していた。
南八郎らが血書した山伏岩

 『生野義挙日記』によると、生野にて挙兵した理由として次の五つを挙げている。

@      但馬は古来、忠孝の志が厚いこと
A      但馬に農兵組織があった。これを利用しようとしたこと
B      生野代官所を討幕の血祭りにしようとしたこと
C      生野代官所、生野銀山の経済力、政治力
D      生野銀山が天然の要害の地であること

 更に挙兵が破陣に帰した理由について

@      農兵の訓練が徹底しなかったこと
A      農兵の理解が得られなかったこと
B      幹部の意見の対立
C      各藩の応援が得られなかったこと
D      代官所の臨機応変の処置

を挙げている。