



江國寺 招魂碑
旧家臣によって明治二十七年に建てられたものである。稲田家は、藩主蜂須賀家の草創期から仕え、阿波と淡路に合せて約一万五千石という大名並の知行地を有していた。稲田家は代々洲本仕置家老や洲本城代に任じられる筆頭家老の家格でもあった。明治新政府の禄制改革により、藩士は士族と卒の二階級に分けられることになったが、陪臣ということで卒に編入され藩から薄禄が給付されることになった。
この処置に不満を抱いた稲田家家臣は、分藩運動に走った。その背景には、日頃から陪臣と軽く見られており鬱憤が堪っていたことと、幕末において蜂須賀家が幕府寄りだったのに対し稲田家およびその家臣は積極的に尊王攘夷活動に参加し明治新政府の樹立に貢献したという自負があったこともある。
こうした稲田家の動きは蜂須賀家臣を憤激させた。明治三年(1870)五月十三日未明、蜂須賀の家臣たちは約八百の農兵を率いて城下の稲田屋敷、別荘である武山邸、学問所である益習館などを次々と襲った。稲田家側は無抵抗であったこともあり、自決二名、即死十五名、重軽傷二十名、焼失家屋多数という大きな被害を受けた。
この事変に対する明治政府の処分は苛烈であった。蜂須賀家の家臣十名が斬罪(うち八名が切腹で、このため稲田騒動は最後の切腹事件と呼ばれている)、二十六名が終身流罪、禁固・謹慎に処された。一方、稲田家も当主以下北海道の日高郡静内に送られた。このとき第二陣を載せた薩摩船平運丸が沈没して八十三名もの行方不明者を出したという。
洲本市内の寺町界隈は今も藩政時代の風情を伝える一角で、多数の寺院が軒を並べている。その一つ江國寺の門前には稲田騒動に散った稲田家家臣の霊を慰める招魂碑が建てられている。


古東家は佐々木源氏の流れを汲み、江戸初期より淡路島津井にて代々庄屋を務める名家である。現在、屋敷跡には下水道処理場が建設されているが、ほぼこの敷地が庄屋屋敷に当たり、相当の豪邸であったようである。十一代当主、古東領左衛門は勤王の志を抱いて上京し諸藩の志士と交わった。文久三年(1863)の天誅組の挙兵に加わったが失敗し、京都六角獄舎に捕らえられ刑死した。
巨大な精忠碑の傍らには、領左衛門の辞世が刻まれてた石碑が建てられている。
君の為 盡せし事も 水の上の 泡と消えゆく 淡路島人