
寺田屋事件は、伏見の船宿を舞台とした薩摩藩内部の党争である。現在も寺田屋は当時の面影を残しており、400円を払えば内部も見学することができるし、宿泊することも可能である。
文久二年(1862)、島津久光は率兵入京に追従して、尊攘派志士は参集して霍乱を企てた。佐幕派の関白や京都所司代を襲撃しようという過激なものであった。
これを知った島津久光は鎮撫使として、奈良原喜八郎、大山格之助(綱良)、鈴木勇右衛門、昌之助父子、森岡清左衛門、道島五郎兵衛、山口金之進、江夏仲左衛門ら、いずれも示現流の剣客を選りすぐって派遣した。
薩藩急進派の有馬新七、柴山愛次郎、田中謙介、橋口壮介らが鎮撫使と応対したが、もとより説得に応じるつもりなどない。結局、押し問答の末、壮絶な斬り合いとなり、双方死者を出す惨事となった。
寺田屋の庭に建つ薩摩藩九烈士遺跡表の碑

坂本竜馬が寺田屋を使うようになったのも薩摩藩からの紹介があったからである。その竜馬が警吏に襲われたのは、慶応二年(1866)正月二十三日のこと。その二日前に西郷、桂小五郎の間に薩長同盟が取り交わされたところであった。
寺田屋の二階にいた坂本竜馬は、伏見奉行所の追っ手に囲まれていた。入浴中であったお龍は異変に気が付き、裸のまま階段を駆け上がって急を告げた。竜馬は手傷を負いながら辛うじて難を逃れることができた。
実は、私は竜馬が寺田屋に襲われた事件が今一つ腑に落ちないでいる。確かに竜馬は反幕思想の持ち主であったが、薩長同盟に暗躍したほか、直接的に幕府に危害を与えるようなことはしていない。増してこの時点で幕府は薩長同盟の事実を全く関知していないはずである。なのにどうして竜馬を捕縛しようとしたのか。竜馬が頻りに京・大阪を往き来し不穏の動きがあるというだけではないかという気がするのだが…。とにかく捕まえて、締め上げて何を企んでいるのかを吐かせようという魂胆だったのであろうか。



