伏 見 W



HOME  戻る
明治天皇陵 昭憲皇太后陵 参道碑
(桃山御陵
明治天皇 伏見桃山陵
 伏見桃山陵は、京都を愛した明治天皇の遺志により旧伏見城本丸跡を陵墓としたものである。少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后(明治天皇の皇后)を葬る桃山東山陵がある。また桃山陵への参道途中には、平安京を開いた桓武天皇陵がある。参道を歩いてみたが、とにかく広い。泉涌寺孝明天皇陵、武蔵野大正・昭和天皇陵よりもずっと広いというのが実感である。

 慶應三年(1867)十二月十八日、二条城での永井尚志との会談を終えた近藤勇は、伏見墨染の藤森神社の南北に二組に分かれて潜伏していた高台寺党の残党によって狙撃され、馬を飛ばして辛うじて逃げた。高台寺党残党は篠原泰之進、阿部十郎、富山弥兵衛ら。近藤の警備についていた石井清之進と近藤の下僕の久吉が闘死した。

この事件を聞いた薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)は「何故、先に馬を撃たなかったのか」と惜しんだという。近藤は左肩に深手を負いながら落馬せずに帰陣した。徳川慶喜は侍医の松本良順を伏見に差し向けて治療に当たらせた。

藤森神社
(藤森神社


(悲願寺墓地)
悲願寺墓地
 京阪(もしくは近鉄)丹波橋駅から西へ約2キロメートル。竹田街道、油小路、更に京阪国道(国道1号線)を越えてようやく悲願寺墓地に行き着く。悲願寺墓地には鳥羽・伏見戦争の幕府軍戦死者の墓がある。
戊辰役東軍戦死者埋骨地

(法伝寺)
法伝寺
 悲願寺墓地から南西に300メートルほど、鴨川沿いに法伝寺がある。
戊辰東軍戦死之碑
 法伝寺正門横には戊辰東軍戦死之碑が建つ。もともと法伝寺は鳥羽街道沿いにあり、その門前でも激戦が繰り広げられたという。

(伏見桃山城
伏見桃山城
 伏見桃山城は、本来明治天皇陵の場所にあった。さすがに天皇陵に再建するわけにいかないので、昭和三十九年(1964)隣接した土地にキャッスルランドと称する遊園地のシンボルとして建てられたものである。そういう意味では熱海城と変わりはない。城郭には歴史的な価値はあまりないものだが、洛中洛外図にある絵をモデルとして、大天守と小天守を備えた立派なものである。その後、キャッスルランドは閉園され、伏見桃山城も取り壊されるところであったが、市民の運動の結果、保存されることになった。現在は市営伏見桃山城運動公園に引き継がれている。