京都御所 V
下御霊神社
菅原道真や吉備真備ら政争に破れて非業に死んだ人々の御霊のたたりを恐れて、上御霊神社、下御霊神社などが建てられた。
横井小楠殉節地
その下御霊神社の東側に横井小楠殉難の碑が建てられている。横井小楠が当地で暗殺されたのは、明治二年(1869)のこと。横井小楠は当時、太政官政府の参与として重きを為していた。政府の開国欧化政策は横井小楠の建言によるものとされ、尊攘派の刺客に狙われることになった。
横井小楠が襲われたのは、正確にはこの場所ではなかった。しかし門前に暗殺の碑があるのを嫌う住民のため、現在地に移されたと言われる。
新島襄旧邸跡
新島襄は、幼名を七五三太といい、江戸上野安中藩邸に生まれた。十四歳にて藩主に命じられて杉田玄瑞に蘭学を学び、更に幕府の海軍伝習所に派遣された。元治元年に箱館の外国商館支配人福士宇之吉の周旋にて米国に密航を果たした。明治四年の岩倉使節団には通訳として同行。帰朝後、同志社を設立して教育に献身した。米国でJoeと呼ばれていたのに漢字を充てて、襄と称した。
新島襄旧邸
滞米中、路上で「日本に学校を設立したい」と演説して募金を集め、それを資金に同志社を設立した話は有名。募金で学校を建てたくらいだから、質素な生活を送っていたのかと想像していたが、残されている新島襄旧邸はなかなかの豪邸である。
新島襄旧邸は、明治十一年(1878)九月に竣工。外観はコロニアル・スタイルの洋風建築であるが、内部は日本的な造りであるところが特徴。伝統的な民家しか手掛けたことのなかった日本の大工が見様見真似で洋風建築に挑戦したものとされる。
(京都市歴史資料館)
京都市歴史資料館
新島襄旧邸の北に京都市歴史資料館が建てられている。入館は無料。
私が訪れた日、近代京都の記録と称して明治以降の京都市政史を語る資料が展示されていた。
墓石には、「贈参議左中将藤原公知朝臣之墓」と刻まれている。
御所の東側に隣接して清浄華院がある。幕末に活躍した公卿姉小路公知、玉松操らの墓がある。
姉小路公知の墓
玉松操は京都に生まれた国学者である。純粋な尊王攘夷論者であり、王政復古の企画立案者でもある。慶應元年頃より岩倉具視の片腕となり、王政復古、討幕の密勅に関与。錦の御旗も玉松の図案だという。維新後は開国、欧化の方針を取る太政官政府に反発して、いくたびの招きにも応じず在野を貫いた。明治五年、63歳にて没。
春日潜庵先生邸宅
烏丸一条から三筋北に上って少し西に入ったところ、民家の前に春日潜庵の邸宅跡の石碑がある。
水戸藩邸跡
戊午の密勅が水戸藩に下されたのが、安政五年(1858)八月八日。その前日の深夜、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門が近衛左大臣邸に呼び出され、勅諚が水戸藩に渡ることについて予告を受けた。八日早朝、武家伝奏万理小路正房の私邸に吉左衛門を呼んで勅書を渡した。当時、吉左衛門は六十一歳。息子の幸吉(当時三十一歳)に命じて自分に代わり勅状を江戸に護送することにした。幸吉が江戸の水戸藩邸に着いたのは八月十六日であった。命懸けで勅書を江戸に運んだ父子であったが、これが原因で安政の大獄で犠牲となった。