播 磨
新聞の父 ジョセフヒコ生誕の地
野球大会の会場の一つである新島グラウンドは、播磨町の工業地帯の一角、巨大な工場が立ち並ぶ人工島新島にある。新島に通じる播磨大橋の北詰めにジョセフ・ヒコの生誕地碑が建てられている。
ジョセフ・ヒコの生家跡
ここから数百メートル東に行った民家の片隅に実際の生誕地を現す説明板が建てられている。ジョセフ・ヒコは、天保八年(1837)、播磨町小宮村に生まれた。本名を彦太郎といった。嘉永三年(1850)十三歳のとき、江戸見物の帰途、遠州灘で暴風雨に遭い漂流すること五十日、米船オークランド号に救助されてアメリカに渡る。アメリカの国籍を取得して、安政六年(1859)六月、神奈川の領事館通訳として帰国を果たした。時は物情騒然とした幕末である。命の危険を感じたヒコは、再びアメリカに渡ることになった。文久二年(1862)に横浜に戻って商売の傍ら、日本初の新聞を発刊する。このことからヒコは「新聞の父」と呼ばれるようになった。
ジョセフ・ヒコ胸像
播磨町役場の隣に中央公民館があるが、その玄関前にジョセフ・ヒコの洋服姿の胸像がある。
新聞の父 浜田彦蔵の碑
播磨小学校の南東隅に浜田彦蔵の碑がある。この碑は昭和三十五年(1960),日米修好通商条約百周年を記念して建てられたものである。ちょうど小学校のグラウンドでは少年野球の子供たちが練習をしており、ユニフォームを着用していた私は関係者のような顔をして堂々と小学校に進入できた。
ジョセフ・ヒコは、明治になって日本人女性と結婚し浜田彦蔵と名乗るようになった。明治三十年(1895)五十九歳にて逝去。墓は青山墓地の外国人墓地にある。日本への帰化を望んでいたジョセフ・ヒコであったが最後まで外国人としての扱いを受けたのであった。
蓮花寺
明治三年(1870)、帰郷したジョセフ・ヒコは両親のために蓮花寺に墓を建立している。墓石の背面には英文が刻まれている珍しいもので、「横文字の墓」と呼ばれている。風化が著しく何と刻まれているか読み取ることができない。
ジョセフ・ヒコの両親の墓