姫 路
姫路城天守閣
姫路といえば世界遺産にも指定されている姫路城である。姫路城は特に維新関係の史跡でも無いが、敬意を表して先ず姫路城を訪ねた。美しく均整の取れた城郭は一見の価値がある。
姫路城は、別名白鷺城と呼ばれる。羽柴秀吉が当時の姫路城主黒田官兵衛(如水)の言を入れ、毛利攻めに際して姫路城主となって三層の天守閣を築いた(天正八年 1580)。関が原の合戦後、播磨五十二万石の領主となった池田輝政が慶長六年(1601)から九年間をかけて城郭と城下町を築き上げた。以来、姫路城は美しい五層の大天守と三層の小天守を備えることになった。
西南役戦没者慰霊碑
本堂の裏に回ると、姫路藩勤王十二士の墓が静かに迎えてくれる。この墓の言われを調べてみたが、残念ながら良く分からない。時間をかけてじっくり調べてみる必要がある。
姫路城の南西、白鷺橋近くに船場本徳寺がある。東西本願寺があるように、姫路の本願寺別院も東本願寺派の船場本徳寺と、西本願寺派の亀山本徳寺がある。
船場本徳寺の本堂前には、がっしりとした西南役戦没者慰霊碑が建つ。この地域から九州の戦地に出兵し戦死した兵士の霊を弔うために明治十二年(1879)に建立されたものである。有栖川熾仁親王の揮毫。陸軍少将三好重臣の撰文による。
姫路藩勤王十二士の墓
亀山本徳寺 本堂
姫路駅から山陽電鉄で2駅目亀山駅のすぐそばに亀山本徳寺がある。本堂は京都西本願寺の北集会所の建物を移設したもので、かつて新撰組の屯所として使用されていたものである。廊下の柱には新撰組隊士がつけたと言われる刀痕も残っている。
一坂太郎著「幕末歴史散歩 京阪神篇」(中公新書)によると、この墓碑は藩の尊攘派弾圧により斬首された河合伝十郎、江坂栄次郎両名と切腹した河合惣兵衛、萩原虎六、江坂元之助、松下鉄馬、伊舟城源一郎、市川豊三及びその関係者らの招魂碑らしい。一連の弾圧運動を姫路では「甲子の獄」と呼ぶ。長州の内戦や土佐の弾圧は比較的よく語られるが、幕末のこの時期、日本中の至るところで、血で血を洗う藩内抗争が繰り広げられていた。改めてそのことを思い至らせてくれる。
姫路藩十五万石は譜代酒井家。鳥羽伏見の戦いにも幕軍に参加して薩長と激戦を交えた。藩主酒井忠惇も慶喜に従って江戸まで下った。藩兵が姫路に戻ったところに追い討ちをかけるように追討の命が下った。直ちに恭順の意を表して城を明け渡し、その後は明治新政府に協力した。
中村大佐顕彰碑
入場料を払って葵の門をくぐると、すぐ左手に中村大佐の顕彰碑がある。中村重遠は天保十一年宿毛の生まれである。明治六年(1873)太政官は全国125の城郭の廃棄を布達した。このとき姫路城は廃棄されることから逃れたものの、老朽化が著しく名古屋城とともに取り壊しが計画されることになった。当時、陸軍省第四局長代理であった中村重遠は、先人の築いた遺産を後世に伝えなければならないと陸軍卿山県有朋に建白し、両城は陸軍の費用で修理保存されることになった。中村重遠は姫路城を救った恩人として、城内に石碑が建てられた。中村重遠は明治十七年(1884)四十五歳で亡くなった。
姫路城に入場しようとすると、切符切りのおばさんに「Excuse me. Where did
you come from ?」と英語で尋ねられた。咄嗟にどう答えたものか言葉に詰まってしまった(あまりアドリブが効くタイプではない)。海外駐在から帰任してもう十年が経とうとしているが、未だ外国人に見えてしまうのだろうか。
姫路藩勤王志士終焉之地碑
塩町大蔵前公園内に姫路藩勤王志士終焉之地の石碑がある。公園のある場所にはかつて牢獄があった。甲子の獄にてここで斬首された八名の遺志を偲び建立されたものである。戦後の占領政策により一旦撤去されていたが、昭和四十三年(1968)、明治百周年を記念してこの場所に復元再建された。