広 島



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 安芸広島藩は、隣接している長州藩の影響を受け、第二次長州征伐では親長州的立場を取り、その後薩長芸三藩同盟を結ぶなど、実は幕末史において重要な役割を果たしていたのだが、その割に目立った人物がいない。幕末に活躍した芸州人と言えば、九十六歳まで長命して“最後の生きた殿様”と呼ばれた最後の藩主浅野長勲、広島藩を倒幕に導いた辻将曹といった名前が浮かぶが、原爆投下のせいでほとんど史跡らしい史跡も残っていない。
(広島城

広島城天守閣 昭和三十三年(1958)再建

 広島城は、毛利輝元の築城により天正十九年(1591)に完成した。関が原の戦いの後、毛利家が萩に追いやられると、福島正則が入部した。正則が信州川中島に転封され、その後浅野長晟が入って以降、十四代浅野長勲まで浅野家が城主となった。

 広島藩は慶応三年(1867)には薩長と共同出兵の盟約を結び倒幕派の先頭を進んでいた。本来であれば維新政府においても薩長土肥に肩を並べる存在であるはずであったが、土佐藩に協力して大政奉還を建議したことが、武力倒幕を目指していた薩長から裏切りと取られ、新政府で重きを成すことができなかったと言われる。
広島大本営跡
 維新後、広島城には鎮西鎮台第一分営ついで明治四年(1871)以降広島鎮台が置かれ、明治二十七年(1894)の日清戦争では軍港である宇品港を擁することもあって大本営が置かれた。開戦一ヶ月後の明治二十七年九月から翌年四月までの七ヶ月余り明治天皇はこの地を行在所とした。やはりこの建物も原爆により焼失し、現在は礎石が残っているのみである。
(頼山陽史跡史料館
頼山陽史跡史料館
 広島城から南に真っ直ぐ伸びる道路は、鯉城通りと呼ばれる。袋町交差点を東に折れたところが、頼山陽の父、儒学者頼春水の屋敷があった場所で、現在は頼山陽史跡史料館が建っている。敷地内には頼山陽が幽閉されて、『日本外史』の草稿をまとめたと言われる居室が再現されている。
頼山陽居室
 頼山陽は安永九年(1780)に大阪で生まれたが、広島藩の招きで父春水が広島に迎えられると、寛政二年(1790)より史跡史料館のある場所に移り住むことになった。寛政十二年(1800)には脱藩して上京するが連れ戻されて邸内の一室に幽閉された。当時の居室は被爆により焼失し、現存しているのは昭和三十三年(1858)に再現されたものである。
(国泰寺跡
旧国泰寺愛宕池跡
 頼山陽史跡史料館から更に南に進んで平和大通りとの交差点、全日空ホテルの前に国泰寺の遺構である愛宕池の跡を見ることができる。国泰寺は安国寺恵瓊が創建したと伝えられるもので、浅野氏が藩主として入国すると浅野家の菩提寺として歴代藩主の尊崇を集めた。やはり原爆により跡形もなくなっているが、相当広大な敷地を有していたことが想像される。
 新選組近藤勇は、前後二回広島に下向している。一回目は慶応元年(1865)十一月、二回目は慶応二年(1866)一月。いずれも長州糾問使永井尚志に同行したものである。一回目は近藤のほか、伊東甲子太郎、武田観柳斎、山崎烝、吉村貫一郎、芦屋登、新井忠雄、尾形俊太郎、服部武雄。二回目は近藤、伊東、尾形、篠原泰之進。長州糾問使は国泰寺で長州藩代表宍戸備後助らと会談した。近藤は長州入国を試みたが断られ、空しく帰京することになった。

(比治山)
多聞院
頼家之墓

 広島市の東部、標高70bの比治山入口に多聞院がある。多聞院には頼一族(頼山陽の両親、春水と梅?、春水の弟杏坪、山陽の子聿庵、孫の誠軒、古楳、成一ら)の墓がある。

 更に多聞院のすぐ隣に頼山陽文徳殿という、頼山陽と関係のありそうな建物があるが、中を覘くと雑然とした物置のような状態で、結局何だか分からなかった。
(比治山陸軍墓地)
陸軍墓地
 比治山には日本最大最古と言われる陸軍墓地がある。この陸軍墓地が創設されたのは明治五年(1872)のことで、以来西南戦争から第二次大戦に至るまで、一万人を越える戦没者を葬ったものである。