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(防府天満宮)
防府天満宮

 防府という地名より、幕末では三田尻という名前の方が通りが良いだろう。三田尻は古代から海運の基地として、また製塩や漁業で発展した。近世に入ると商業港として一段と飛躍し長州藩の表玄関となった。幕末には長州藩が海軍局を置いた。

 防府といえば防府天満宮である。延喜四年(904)に小祠を建立したのが始まりと言われ、大宰府、北野天満宮を凌いで日本最古の天満宮である。
野村望東尼の歌碑

 防府天満宮には野村望東尼の歌碑が二つ並んでいる。望東尼は慶應三年(1867)九月、討幕の船出にあたり天満宮に籠り七日間絶食して戦勝を祈願した。

 向かって右の歌碑には、

ものゝふのあたに勝坂越えつゝも 祈るねきことうけさせたまへ

 と刻まれている。左手の石碑には、高杉晋作が死の床で詠んだ一首が刻まれている。晋作が病床にあって詠んだ辞世である。それに望東尼が下の句をつけて辞世を完成した。二十八歳にて生涯を閉じてしまった高杉晋作にとって、人生そのものが下の句がなかったようなものであり、辞世にも下の句など不要だったと思えてしょうがない。

 面白きこともなき世をおもしろく 東行

 すみなすものはこころなりけり 望東尼
大専坊
 防府天満宮の境内には九つの社坊が立ち並んでいたが、その中の一つ大専坊は天満宮創建当時の草創と言われる。幕末にはこの地域を警護した諸隊の屯所として使われた。
芳松庵
 防府天満宮の門前には芳松庵という茶室がある。庭内の一角には暁天楼と呼ばれる一室があり、幕末志士たちがここで密議を交わしたと伝えられる。私が訪ねたとき、既に開席時間を過ぎており、残念ながら中に入ることはできなかった。
春風楼より防府市を展望する
 防府天満宮境内に春風楼と呼ばれる二層の楼閣があり、ここから防府市内が一望できる。
(野村望東尼の墓
正五位野村望東尼之墓
 慶應三年(1867)九月、防府天満宮で七日間の絶食と水垢離をして戦勝祈願した野村望東尼はそのとき既に六十二歳の老齢にあった。無理が祟って同年十一月六日、防府で亡くなった。墓は市内桑山の南麓にある。

(野村望東尼旧宅跡
野村望東尼旧宅跡
 野村望東尼が息を引き取ったのは荒瀬家の離れであった。防府高校の南西角に旧宅が移築されている。

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