
宝鏡寺は臨済宗相国寺派の門跡尼寺で百々の御所とも呼ばれる。近世初期、後水尾天皇の皇女が入室して以来、皇女が住持することになった。
光格天皇のご遺愛の人形を初め、多くの人形を蔵し、人形の寺とも呼ばれる。玄関前には人形塚を建てて、毎年人形の供養が行われる。宝鏡寺には和宮愛用の文箱、湯沸しも伝えられる。
公武合体の名の下に和宮の降嫁が進められると、和宮は宝鏡寺に逃げ込んでは庭を眺めて時を過ごした。幕府は、婚儀を成立させるために鎖国と攘夷を約束し、遂に和宮は政略結婚の犠牲となった。
惜しまじな 君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも
この歌は都を出るときに和宮が詠んだものとされているが、異説もあって定かではない。夫家茂との結婚生活はわずかに四年五ヶ月であった。夫婦仲は睦まじかったと伝えられるが、そうであれば少し救われる気がする。和宮は明治十年(1877)32歳で病没。遺言により芝増上寺の徳川霊廟の家茂の隣に葬られている。