
岩倉花園町の三縁寺はもともと三条大橋の東にあったのを昭和五十四年に現在地に移設したものである。池田屋事件のあと、置き捨てられた志士たち九人の遺体を三縁寺に運び込んだ。池田屋の女中清水うのに身元を確認させて手厚く葬った。


宮部鼎蔵は肥後国益城郡田代の人で、諸国の勤王家は競って宮部を訪ねた。清河八郎、吉田松陰とも交友があった。
松田重助も同じく肥後の出身で、十歳年長の宮部鼎蔵に師事した。勤王の志厚く、江戸、京都、大阪を西奔東走していた。

長州の吉田稔麿はこのとき二十四歳。吉田松陰門下にあって兵学を究めた。無駄口を叩かず謹直重厚な人物と伝えられる。久坂玄瑞、高杉晋作と稔麿とを称して「松陰門下の三秀」と呼ばれた。宮部鼎蔵とともに、その死を惜しむ声が強かった。
杉山松助は同じく長州藩士。桂小五郎の身を案じて池田屋の現場に駆けつけ遭難した。
石川潤次郎は土佐の出身。元治元年より京にあって三条家に勤番していた。当夜、会合には参加してい
なかったが、所用のため望月亀弥太を訪ねたところ変に遭った。年齢は不詳。
廣岡浪秀は長州大嶺神社の神主。八一八政変後は偽名を使って京大阪、更には江戸に潜伏して長州のために説いて回っていた。池田屋を脱して長州藩邸近くまで這っていったが、遂に路上で息絶えた。年二十四。

幼少の岩倉具視が預けられたのが、岩倉花園村の百姓九兵衛宅であった。のちに岩倉具視が岩倉村に幽棲した折、九兵衛はここから通って岩倉の世話をした。