衣 笠



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(等持院
等持院山門

 衣笠山南麓の等持院は足利尊氏により暦応四年(1341)に創建された。霊光殿には足利歴代の将軍像が徳川家康像とともに一堂に安置されており壮観である。

 幕末の動乱を象徴する事件が文久三年(1863)二月二十三日に起きた。三条大橋に等持院の足利尊氏、義詮、義満三代の将軍木像の首が晒されたのである。いずれも目がくりぬかれていたという。足利将軍に託して徳川幕府を批判したものであった。
等持院庭園と清漣亭
 等持院庭園は夢想国師作と伝えられる名園である。方丈の北には清漣亭と呼ばれる茶室を配している。
足利尊氏木像

 足利三代の木像は修復されて現在も霊光殿に安置されている。

 将軍家茂の上洛を前に起きた事件だけに幕府は総力を挙げて犯人逮捕に乗り出した。京都守護職松平容保は密偵大庭恭平を使って犯人を割り出した。三輪田元綱、師岡正胤ら十名が捕らえられ、各藩に預けられた。
足利尊氏の墓
 方丈の北の庭に足利尊氏の墓がある。今からざっと六百年前に建てられたものである。
河田小龍の墓
 等持院北側に隣接しているのが立命館大学の衣笠キャンパスであるが、そのキャンパス内に等持院墓地がある。大学の中に墓地があるというのも京都ならこそかも知れない。その墓地内に、坂本竜馬にも思想的影響を与えたと言われる河田小龍の墓がある。河田小龍は、ジョン万次郎からの聞き書きにより「漂巽紀略」を著した学者であると同時に、画家としても腕が立った。明治後、画家として招かれ京都に住んだため京都に墓があるのである。

(金閣寺

金閣寺

 いつの時代でも金閣寺は京都を代表する名所である。幕末の京都を訪れた志士たちも金閣寺を目にしたことであろう。安政二年(1855)に清河八郎が記した「西遊草」にも金閣寺が登場する。倒幕を志した清河であるから、時の将軍足利義満が建設した金閣寺には批判的である。

「百姓塗炭の苦しみを患ひずして、己れ壱人奢りを極め…尤も憎むべきの甚だしき者なり。俗人は当時の事を知らずして、徒に庭の綺麗に感服するはいらぬ事。是皆、其時の百姓たるものの血を用ひて築きしもの也」