
坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地(近江屋跡)
坂本竜馬、中岡慎太郎の暗殺のシーンは、これまで幾度となくマスコミも取り上げ、小説の題材にもなっているので、今更説明の必要もないだろう。
時は慶応三年(1867)十一月十五日。王政復古を目前に控え、まさに幕府の命運が尽きようとしていた時期に起きた悲劇であった。坂本竜馬33歳、中岡慎太郎30歳。下手人は見廻組と言われている。
坂本竜馬の暗殺は、当時から犯人が特定てきなかった。明治になってから、元見廻組今井信郎が自白したため、一応決着を見たかに見えるが、不自然な点を指摘する声もある。
@ 死の寸前、中岡の証言によると、刺客は二人だったというが、今井の口供書では三人となっていること
A 新撰組の犯行を示唆するような遺留品(鞘と下駄)があったこと。当然ながら新撰組が疑われたが、近藤勇は明確に否定していること。新撰組としては当然の職務であり、事実とすれば隠す必要はないはず。
B 竜馬は事前のほんの三日前に近江屋に移ったばかりであったが、犯人は新しい潜伏先を知っていたこと。
C 今井の裁判がごく内輪で行われ、世間に知れなかったこと。ずっと下手人を追っていた土佐の谷干城は三十年ものちに今井の自供を知っている。
竜馬の暗殺については、色んな方が推理を働かせており、これといった定説があるわけではない。醒めた言い方かも知れないが、私としては犯人が誰だってあまり興味はない。ただ動かせないことは、坂本竜馬が突如として天に召されたということである。
高瀬川は、豪商角倉了以が開削したものである。角倉了以は源流に別邸を建てたが、そののち明治の元勲となった山県有朋が買い取り、無鄰庵と名付けた。
現在はがんこ寿司の一店舗になっている。


加賀藩は最大の雄藩の一つでありながら、幕末には自主的な活動はなかった。一つには前田家が徳川家と遠戚関係にあったこと、更に藩士に政治的な感覚が乏しかったことが挙げられる。元治七年(1864)七月、長州藩が禁門の変を起こした際、藩主前田慶寧は京都にあり、長州藩のために斡旋の労を取ったが失敗し退京することになった。以後、藩内の勤王派はほぼ全滅した。