清 水 U
清閑寺
清閑寺鐘楼堂
「大西郷月照謀議旧址」の石碑が建つ
清水寺の境内から、一本の参道が清閑寺まで伸びている。私が久し振りに清水寺を訪れたのは大晦日で、三年坂から清水寺境内までは人で混雑していたが、清閑寺はウソのように人影が無かった。
清閑寺の小さな門を背を曲げて入ると左手上に鐘楼堂がある。その上に郭公亭と呼ばれる茶室があった。月照と西郷はここで密談を重ねた。
(三年坂・明保野亭)
明保野亭
現在もレストランとして営業している
三年坂から八坂の塔を撮影
この地域は、祇園坂、長楽寺坂、下河原坂、法観寺坂、霊山坂、山の井坂、清水坂、三年坂の八つの坂があるから八坂と呼ばれた。
産寧坂から興正寺別院に向かう坂の途中に三国大学の碑がある。三国大学(幽眠)は、越前三国の豪商の家に生まれた。最初は彦根の中川漁村に儒学を学び、部屋住み時代の井伊直弼と同門であった。学成って京都で塾を開き、やがて鷹司家の儒臣となった。安政五年の条約勅許問題のときは、太閤鷹司政通や右大臣鷹司輔?を勅許反対に導いた。福井藩の橋本左内が入説に接近すると、将軍継嗣は一橋慶喜を支持するが、条約は反対と転化させた。安政の大獄で鷹司父子は辞官落飾という公卿では最も思い処分を受けたが、三国大学は中追放で済んだ。それからほぼ三年の間、近江石山に寓居していたが、文久二年(1862)の年末、赦免されて京都に戻ることができた。
三国大学の碑
安祥院(日限地蔵)
清水寺から五条坂の方へ下りてくると、右手に安祥院がある。この寺の地蔵堂は、日数を限って祈願するため日限(ひぎり)地蔵と呼ばれる。安祥院には梅田雲濱とその妻信子、池田屋事件ののち捕らえられ斬殺された大高忠兵衛の墓がある。
雲濱先生の墓
墓となっているが、雲濱の死の三年後、姪の登美子が雲濱元服時の前髪を小浜からこの寺に移したものである。
大高忠兵衛は、播磨の林田藩の出身。赤穂義士大高源吾の子孫として名高く、具足師としても知られていた。義士の子孫として遇されているうちに尊攘思想が高じ、長州系浪士として活躍することになった。
司馬遼太郎先生の『新選組血風録』「池田屋異聞」では、赤穂浪士大高源吾の子孫大高忠兵衛と、義挙に加わらなかった奥野将監の子孫山崎烝とが池田屋で対決する姿を描いている。小説では山崎が大高忠兵衛を討ち果たすことになっているが、山崎は池田屋の討ち入りに参加していなかったとする説が濃厚である。更に言えば池田屋で討死したのは大高忠兵衛の従兄である大高又次郎である。