神 戸



(湊川神社

 楠木正成を祀る神社である。

 ここで楠木正成の事歴については省略するが、楠木正成という武将は誠に不思議な存在である。天皇への忠誠というのは、朱子学が輸入された江戸期以降の知識階級には常識となったが、武士が武士の世を謳歌していた十四世紀に、何の利害関係もない一人の武士が勤王のために戦を起こすというのは、唐突を通り越して異常な話と言っても過言ではない。

 楠木正成の墓はこの地にあったが、やはり勤王の家である水戸の光圀公が石碑を建てた。幕末期になると勤王の志士たちが競ってこの地を訪ね勤王の志を新たにした。西郷隆盛、坂本龍馬、高杉晋作、真木和泉らもここを訪ねたと伝えられる。
湊川神社本殿
明治天皇御詠石碑

楠木正成の墓 大楠公御墓所

水戸光圀の直筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」とある。傍らには水戸光圀の像もある
兵庫の初代知事は伊藤博文であった。明治五年伊藤博文は、明治天皇に請願して官幣社としてこの地に湊川神社を創建することを許された。
 私が訪れたのは、1月3日のことで、当然のことながら神社の前から本殿に通じる参道に両側には所狭しと露店が軒を連ね、折からの雨で傘を差して歩く人でごった返していた。初詣でなく「史跡巡り」でここを訪れていたのは、この大勢の人だかりの中で私だけだったかも知れない。
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(能福寺
能福寺
瀧善三郎正信碑
 神戸市兵庫区北逆瀬川町の能福寺には、神戸事件の責任を負って自決した滝善三郎の碑がある。
ジョセフ・ヒコの英文碑
 同じく能福寺の境内には、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の英文碑がある。ジョセフ・ヒコは、ハリス来日時の通訳として活躍した人であるが、明治になって外国人が能福寺に大仏を参拝に来るようになると、能福寺の住職がジョセフ・ヒコに依頼して英文碑を製作した。我が国最初の英文碑と言われる。
兵庫大仏
北風正造顕彰碑
 ジョセフ・ヒコの英文碑の隣には、北風正造の顕彰碑が建てられている。北風家は江戸初期の北風彦太郎以来、廻船業を営む兵庫津を代表する豪商であった。北風正造は、幕末の当主である。明治元年(1868)有栖川熾仁親王が征東の途につくと、駿馬と三千両を献上した。一方、姫路藩が官軍の攻撃を受けて姫路城が戦火に焼失しようという危機には、仲介に立って軍需金十五万両と引き換えに紛争を解決した。その後は草創期の神戸の実業界で活躍した。明治二十八年、六十二歳で没。能福寺の顕彰碑は明治二十九年に、伊東博文の揮毫で周布公平(周布政之助の子)により建立された。


(和田岬砲台
和田岬砲台
 和田岬にある三菱重工神戸造船所は、本年(平成十七年)創立百年を迎える。川崎重工の神戸造船所とともに神戸産業界の発展と近代化の象徴的存在であった。

 三菱重工神戸造船所の構内に和田岬砲台が現存している。工場の敷地内にあるため、勝手に見学することはできない。予め広報に電話して予約を取り、砲台まで会社の軽自動車で案内してもらう。

 嘉永七年(1854)九月にロシアのプチャーチン率いるディアナ号が大阪湾に進入したことで危機感を抱いた幕府は大阪湾沿岸の防備強化に乗り出した。兵庫開港問題が政局を左右する最重要問題に浮上すると、文久三年(1863)上洛中の徳川家茂が大阪湾を巡検し、20箇所に砲台を築くことを命じた。これを受けて軍艦奉行勝海舟の設計により和田岬に砲台を建造することになった。工事中には徳川家茂、姉小路公知、一橋慶喜らが見学に訪れている。湊川、今津、舞子の砲台も今は無く、西宮砲台も内部は焼失しており、内部まで保存されているのはこの砲台だけである。但し私が訪れた一ヶ月ほど前に内部の壁が崩落したため、残念ながら中は立ち入り禁止となっていた。阪神大震災にも耐え抜いたこの史跡を大事に後世に伝えてもらいたいと願う。

(大倉山公園
大倉山公園 伊藤博文銅像台座
 この日、神戸大学グリークラブの創立百周年記念演奏会が神戸文化大ホールで開催された。ここを訪ねるのは卒業以来久しぶりである。開演まで時間があったので近くの大倉山公園を散策することにした。大倉山公園は、この土地を政商大倉喜八郎が所有し、ここに別荘を建てていたことに由来する。実際には大倉喜八郎はここに滞在することは少なく、大倉と懇意であった伊藤博文が専ら利用していたという。伊藤博文がハルビンで暗殺されると、大倉は伊藤のことを悼んでこの土地に銅像を建設し、公園として神戸市に寄付した。伊藤博文の銅像は戦時中に金属供出で失われたが、その台座のみが残されている。この台座の巨大さからすると、伊藤博文の銅像も相当大きなものだったと想像される。

独立自学

天ハ人ノ上ニ人ヲ作ラズ人ノ下ニ人ヲ作ラズ
 大倉山公園には、県ごとに区画された森が作られている。大分県の森には、福沢諭吉の学問のススメの冒頭の一文が石碑に刻まれている。