京都大学



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(埋蔵文化財研究センター
尊攘堂
 京都大学のキャンパス内に埋蔵文化財研究センターと称する建物がある。普段は鍵を掛けられ閉ざされている。この建物は尊攘堂と呼ばれ、かつて高倉通錦小路にあったものが移設されたものである。

 松下村塾出身の品川弥二郎が維新後、恩師吉田松陰の遺書『留魂録』に記されていた尊攘堂を建設した。『留魂録』によると今でいう大学をイメージしたものであった。天皇、親王、公卿から武士、農商人に至るまで、あらゆる身分の者に入学を許し、入寮寄宿もできる設備を整える。品川弥二郎が松陰の遺志を継いで京都に尊攘堂を設立したのは、明治二十年(1887)。結局、維新関係の資料館となっている。

 吉田松陰の遺言である『留魂録』は、講談社学術文庫で読むことができ、入手し易くなっている。人に影響を与える人とはどういう人かを考えさせられる。

客観的に見ると、吉田松陰の言動というのは奇矯としか言い様がない。松陰が友人らと東北旅行に出発しようとしたところ、藩から手形が発行されない。藩主が長州にいるため、許可を得るのに時間がかかるというのである。この時友人に迷惑がかかるのを恐れた松陰は突如脱藩してしまう。この行動の飛躍。当時の感覚で言えば、脱藩というのは主君を裏切る犯罪行為である。松陰以外は誰一人としてこのような突飛な行動に出なかったであろう。

 その後も密航を企てて失敗したり、間部詮勝の暗殺を目論んだり、常識破りの行動は続く。客観的には「狂人」であるが、松陰は自らこれを「猛」と称していた。実家の杉という姓、或いは吉田という姓を分解すると「二十一回」となることから「二十一回猛士」と自称した。

 一種の狂人である松陰に何故これほどまでの影響力が備わっていたのであろうか。遂には長州藩全体が「狂」と化し、幕府をひっくり返してしまう原動力となった。松陰が単なる狂人ではなかった証左に、十一歳で藩主を前に講義をし、下獄以来三年ほどの期間に千五百冊以上の書籍を読んで、貪欲に知識を吸収している。恐らく長州に限らず、当時日本において有数の知識人であった。

人に優れた能力によって尊崇を集めた。松陰の場合、それは圧倒的な知識であった。坂本龍馬や桂小五郎、武市瑞山においてはそれは剣術であった。勿論、学術や剣術に優れただけでは人は従わず、それに加えて人的な魅力が備わっていたことは言うまでもない。