
木戸孝允別宅は現在、京都市厚生会職員会館“かもがわ”に当時のまま保存されている。木戸孝允は明治十年(1877)西南戦争のさ中、明治天皇に従って京都まで来るが、そこで病に倒れた。危篤の床にあって
「西郷、良い加減にせぬか」
とうわ言を繰り返したと言われる。明治十年五月没。遺言に従って京都霊山に葬られた。



山紫水明処
鴨川河原から撮影
頼山陽の山紫水明処の場所とちょうど鴨川をはさんで向かい合わせているのが梁川星巌の寓居跡である。梁川星巌は「文は山陽、詩は星巌」と謳われるほどの詩作の名人であった。安政の大獄では幕吏に追われることになったが、当時流行のコロリ(コレラ)に罹って逮捕の直前に死亡した。世間では“死(詩)に上手”と皮肉った。
梁川星巌は、自分の居宅を「鴨沂小隠」と名付けて、ここで諸国の志士と交わった。梁川星巌邸址の石碑は傾き、近くには自転車が捨てられている始末である。史跡は大切に保存してもらいたいものである。
舎密とは、オランダ語のシェミーの訳語で化学のことである。東京遷都により沈滞した京都の産業振興の目的で京都府が設立した理化学研究所のことである。明治三年(1870)槙村正直により仮設立、同六年(1873)本建築が完成した。ドイツ人ワグネルらの外国講師を招き、広く受講生を集めた。京都の近代産業発達の基礎を築いたが、明治十四年(1881)、槙村の転任により閉鎖されることになった。建物もその後焼失し、現在は銅駝校が建てられている。
槙村正直は例の小野組転籍拒否事件により圧政の府知事という印象があるが、京都の民政に一生懸命尽くしたことも事実のようである。京都の学校設立や殖産興業に関して槙村の功績を忘れるわけにはいかない。
山紫水明処から数十b北の駐車場前に立命館草創の地の石碑がある。明治三十三年(1900)に立命館大学の前身、京都法政学校はこの地にあった料亭清輝楼を仮校舎として中川小十郎によって開始され、翌年広小路校舎に移転した。この地に石碑が建てられたのは立命館大学開設100周年を記念してのものである。
この場所では、平成九年(1997)まで清輝楼と呼ばれる料亭(旅館・大和屋)が営業していた。清輝楼は三本木料亭吉田屋のあとを引き継いだものである。幕末、この附近は花街として賑わっていたらしい。吉田屋は維新の志士が密会の場所としてよく利用した料亭で、かの桂小五郎も出入りしていた。吉田屋に籍を置いていた芸妓幾松が新撰組に追われた桂小五郎を匿って逃がしたという有名な逸話もここで生まれた。
私が吉田屋跡を訪れたのは夜であった。家族が南禅寺附近の宿で休んでいる隙に、夜陰をついてここまで歩いてきた。史跡訪問にも人知れぬ苦労がつきまとう。