壬 生 U
八木邸前 菓子屋鶴屋
八木邸前の鶴屋という菓子屋では屯所餅を売っている。壬生菜が入っていて小さな大福餅みたいでなかなかうまい。
お金を払って八木邸に入ると、芹沢鴨、平山五郎らが斬殺された場面を、まるで昨日のことのように説明してくれる。
芹沢鴨が殺されたのは、文久三年(1863)九月十八日の深夜であった。この夜、例の如く島原の角屋で新撰組の会合があり、芹沢は大酒をあおって前後不覚の状態で壬生八木邸に戻った。そのまま妾のお梅と寝てしまった。その横に桔梗屋の小栄を連れた平山五郎、そして平間重助と輪違屋の糸里が寝た。彼らが寝静まったところを土方歳三、沖田総司、原田左之助らが襲った。芹沢は屏風をふとんの上にかぶせられ、その上から無茶苦茶に刀を突き立てられて死んだ。平山も喉を刺されて死亡した。平間と糸里は生き延びた。そのために糸里は間諜ではないかという説もあるくらいである。翌日、近藤勇より会津藩に局長芹沢は賊のために殺されたと届け出て、これで新撰組の近藤局長体制が確立した。
八木邸には芹沢暗殺当時の刀傷が残っている。また芹沢が隣室に逃げ込んだときに躓いて転んだと言われる子供の手習机も残されている。
NHK大河ドラマで新撰組を取り上げるというので、つい最近近藤勇役の香取慎吾が八木邸を訪れたという。
前川邸
八木邸の向かいに前川邸がある。前川荘司邸も新撰組が屯所として使用した。芹沢が
「八木のところだけでは手狭で困るから当家も拝借する」
と宣言して、否応もなかったらしい。仕方なく一家は家を明け渡して別宅に移ったという。
新徳寺
前川邸に隣接して新徳寺がある。江戸から浪士隊が京都に着くと、ここ新徳寺を本部とした。京に着いたその晩、清河八郎は浪士一同を新徳寺に集め自ら正座につき、傍に刀を引き寄せて重大な発表を行った。
「京都へ来たのは近く上洛する将軍家茂公の守護というのは名目のみのことであって、真実はただ尊王攘夷の先鋒たらんとするにある。」
一同の驚愕は想像するに余りある。
結局、浪士たちが壬生にとどまったのは二十日ばかりに過ぎず、ほとんどが清河とともに江戸に逆戻りした。袂をわかったのが芹沢、近藤らの一派十三名であった。
肥後藩屋敷跡
肥後藩屋敷跡の石碑が仏光寺壬生川の街角にある。
肥後藩は、開明派である横井小楠を抱えていたが、藩の主流は公武合体を主張する学校党が握っていたため、二度の長州征伐にも参加。思想的には尊王でありながら、行動は佐幕と旗色曖昧なままであった。維新政府樹立に及んでようやく討幕に決した。