三井寺
琵琶湖疎水取水口
京阪電車三井寺駅を降りると、目の前に琵琶湖疎水が横たわっている。ちょうどこの辺りが琵琶湖疎水の取水口である。この地点から全長約12kmの運河を経て、琵琶湖の水を京都へ運んだ。疎水の計画を具体化したのは京都府知事北垣国道である。北垣は伊藤博文、松方正義、山田顕義らに請願し、明治十八年(1885)にようやく着工にこぎ付けた。完成は明治二十三年(1890)のことであった。
三井寺観音堂、大津市内、琵琶湖を見下ろす
琵琶湖疎水に沿って進んで、行き当たりを右折すると巨刹三井寺(別名園城寺)の仁王門、金堂に行き着く。が、私の目的地は三井寺観音堂方面にあったので、ここを左折しなくてはならない。
息を切らして階段を上り詰めると、観音堂の境内である。更に観音堂の左脇の道を昇ると高台になっており、三井寺から大津市内、琵琶湖までを見下ろすことができる。明治天皇玉座の石碑が残っているが、明治二十四年(1891)ロシアのニコライ皇太子もここで眺望を楽しんだことであろう。
この広場には幾つか石碑が建っている。変わったところでは「大津そろばん」の碑などもある。維新関係では、広場の少し高くなった場所に西川耕蔵の招魂碑が建てられているのを見逃してはならない。
贈従五位故西川耕蔵君招魂碑
西川耕蔵は京都三条通りの書肆で、梅田雲浜に学んで勤王家となった。元治元年(1864)池田屋事件では現場に居合わせなかったが、聖護院の寓居に隠れているところを新選組に襲われ捕らえられた。翌慶應元年(1865)斬罪に処された。
御幸山 西南戦争記念碑
石碑には「記念碑」とのみ刻まれている
更にここから密林の中の獣道(のような道)を昇っていくと、少し小高い丘(御幸山)の上に西南戦争記念碑が現れる。大津の第九連隊戦死者四百四十一名の霊を慰めるために建立された記念碑である。日本を震撼させた大津事件の「起点」となった石碑だけに大切に保存してもらいたいが、訪れる人も少ないせいか、石碑の周りには鬱蒼と雑草が生い茂り、石碑自体も苔むしている。
ロシアのニコライ皇太子は、観音堂を訪れた際、この西南戦争記念碑まで足を伸ばした。皇太子は記念碑に敬意を払わず、柵に腰を下ろした。これを見た津田三蔵は皇太子に危害を加えることを決心したという(津田は観音堂で皇太子一行の警備を担当していた)。津田は西南戦争に従軍して傷を負っており、勲七等を賜っている。西南戦争への思い入れは人一倍のものがあった。
大津歴史博物館
観音堂から三井寺境内を横断して、大津歴史博物館へ行く。大津歴史博物館まで行けば、大津事件のことが何か分かると期待して常設展示を見た。大津事件の展示はごくわずかで期待したほどではなかった。唯一、目を引いたのは、事件の直後ニコライ皇太子が運ばれて治療を受けた呉服屋永井長助宅訪客の名刺である。永井宅には皇太子の血染めの手拭いなどを見るために、多数の来客があったという。中にはロシアの著名な作曲家リムスキー・コルサコフの名前もあった。リムスキー・コルサコフが日本を訪問したのが何時頃なのか未だ調べがついていないが、わざわざ日本まで来て、あまたの観光名所を差し置いて大津事件の史跡を訪ねた意図は何だったのだろう。
【HPリムスキー・ダイスキーhttp://homepage3.nifty.com/rimsky/を運営しておられる竹内様より以下情報を戴きました】
私は古代史に興味があって大津歴史博物館を訪れたことはありますが、そのような資料があるとは気付きませんでした。企画展だったのでしょうか?
お尋ねの件ですが、作曲家のニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)は日本を訪れたことはありませんので、永井長助宅を訪ねていったのは彼ではないと思います。
彼の22歳年長の兄ヴォイン・リムスキー=コルサコフ(1822-1871)は幕末にかのプチャーチンと共に長崎に来航したことがありますが、大津事件(1891)が起きたときにはすでに故人になっていますから、こちらの可能性もありませんね。
私の知る限りリムスキー=コルサコフ家で来日経験があるのはヴィオンだけですので、ちょっと見当がつかないというのが正直なところです。
ちなみに、ニコライが帝室にどのような感慨を抱いていたかは、ちょっと複雑なところもあるように思われますが、晩年は批判的であったことは間違いないようです。彼の最後のオペラである《金鶏》は、帝室批判の作品として知られていますよ。