日暮里 T
JR日暮里駅の南側一帯に墓地が広がる。史跡を巡り始めてこの方お墓巡りには慣れてしまって、墓場の気味悪さもワクワクするほどである。
谷中霊園には、最後の将軍徳川慶喜を始め、幕臣出身で維新後ジャーナリストとなった福地桜痴の墓など幕末維新期に活躍した人物の墓が多く建ち並んでいる。
流石に徳川慶喜の墓は、訪ねる人も多い所為か、矢印があり迷うことなく行き着くことができる。徳川家将軍の墓というのは、代々芝増上寺か上野寛永寺と決まっていたが、最後の将軍となった慶喜は、先祖に憚って一人谷中に墓を定めた。
徳川慶喜の墓
思えば慶喜が世の注目を最初に集めたのは、十三代将軍家定の継嗣問題であった。島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城ら、当時賢候と称されていた人たちや、幕府の有能な若手官吏は、皆「年長で英明なる」盟主の出現を望んだ。結局、これが安政の大獄の近因となり、その反動で井伊大老が桜田門にて殺害されることになり、維新史は多くの血で彩られることになった。慶喜が将軍後見職となり、更に十五代将軍に上り詰めると、強力な政治手腕を発揮し始めた。噂に違わぬ英明であった。賢候の下で慶喜を将軍位に就かせようと奔走した西郷隆盛らにとって、慶喜が最大の政敵となったのは、皮肉としか言い様が無い。
慶喜は維新後も長命し、狩猟や写真を趣味とした。元号が大正と変わってから世を去った。慶喜が明治の世の移り変わりをどのように見ていたのか、興味が尽きないところである。
行年77歳であった。
谷中墓地には、慶喜によって引き立てられ、慶喜の伝記を著した渋沢栄一の墓もある。
大原重徳(しげとみ)は、維新期の所謂過激公卿の一人である。安政五年の日米修好通商条約の勅許問題については、岩倉具視ら反対派の公家88人を率いて皇居に列参した(今日風に言えばデモである)。文久二年(1862)島津久光が幕政改革を求めて江戸に下ると、勅使として派遣され、勅命を幕府に伝達した。
大原重徳は、王政復古のクーデター(小御所会議)にも参加し、維新政府にも加わった。激情的でややヒステリックな印象すらあるが、こういう奇矯な存在も維新を推進するには欠かせなかったのである。
大原重徳の墓の裏には、薩摩藩出身の史学者重野安繹(しげのやすつぐ)の墓がある。重野は若い頃から秀才を発揮し、藩から昌平黌に派遣された。同僚の金を悪戯で使い込み、その責を一人負って遠島に処せられ、ちょうど菊池源吾と変名して奄美大島に流されていた西郷隆盛と出会っている。西郷に漢詩の手ほどきをしたと伝えられる。
維新後は文部省に出仕し、修史事業に専念し、世上流布している史伝を次から次へと「史実に非ず」と断じて、抹殺博士と呼ばれた。東京大学教授、文学博士となって1910年83歳でこの世を去っている。
西南戦争が終結した日、西郷の死の報に接して重野は大久保の自宅を訪ねている。司馬先生は重野のこの行動を「重野の大久保への接近の仕方はやや軽佻のにおいがあり、学者として無用のことかもしれない」と評しているが、敢えて重野を弁護すれば、史学者としての使命から強いてこの歴史的な日に大久保を訪ね、事実を歴史に刻もうとしたのかも知れない。大久保は短く「国家のために賀すべし」と答えたと重野は記録している。
後日、大久保は重野を召し出し、西郷の墓誌を書くよう依頼した。その際、若き日の大久保と西郷が奔走していた頃の逸話を語った。西郷の行動が久光の激怒を買い、それに絶望した大久保が兵庫の浜で「刺し違えて死のう」と西郷にいったというのである。大久保がわざわざそれを重野に話したということは、それを後世に伝えたかったからに他ならない。
谷中霊園には、薩摩藩出身で村田銃の開発者として知られる村田経芳の墓もある。
村田は渡欧して各国の銃を研究し、小銃を開発。明治十三年に軍の銃として採用された。村田銃はその後も改良を重ね、日清戦争や北清事変まで使用された。
一説には西南戦争吉次峠の戦いの際、篠原国幹を狙撃したのが村田経芳だとも言われている。
大橋一蔵は嘉永元年(1848)越後南蒲原郡新潟村下鳥の生まれである。反政府分子である会津の永岡久茂、萩の前原一誠、奥平謙輔らと親交を結んだ。明治九年(1876)の萩の乱に連座して自首して四年八ヶ月の懲役に服した。明治十九年(1886)には年来の夢であった北海道開拓に乗り出した。その矢先の明治二十二年(1889)東京で憲法発布の祝典の雑踏にあって、馬車に轢かれそうになった老婦人を助けようとして、重傷を負い没した。四十二歳であった。
福地源一郎(桜痴)は、肥前長崎の生まれ。十八歳のとき江戸に出て、外国掛森山多吉郎に師事して英学を修め、翌年外国奉行支配通弁御用御雇となった。以後、幕臣として2度の渡欧を経験した。明治二年(1869)、伊藤博文を知り貨幣制度視察のため渡米する機会を得た。明治七年(1874)から東京日日新聞の主筆を務め、明治十年(1877)の西南戦争では従軍記者として活躍した。一方、劇作家としても筆を揮うなど多方面に才能を発揮した。明治三十七年(1904)には衆議院議員に当選。明治三十九年(1906)没。
中村正直は天保三年(1832)幕臣の子として江戸に生まれ、昌平黌(しょうへいこう)に学んで、のち教授、ついで幕府の儒官。幕府遣英留学生の監督として渡英。維新後「西国立志編」「自由之理(ことわり)」を訳出して刊行、特に「西国立志論」は、立身出世を目指す若者に大きな影響を与えた。明治五年(1872)大蔵省に出仕。森有礼が発起人となった明六社の創立にも関わり、啓蒙活動や教育に力を注いだ。以後,訓盲唖院創立,東大教授,女子高等師範校長など,教育界に貢献が大きかった。勅選貴族院議員。
雲井龍雄は、弘化元年出羽米沢の生まれで、慶應元年(1865)江戸に出て、安井息軒の門下に入る。藩命により工作員として京都に出たが、そこで薩摩の政略的行動を目にして反感を抱き、その後維新政府が攘夷主義を放棄したことを非難した。政府転覆計画を立てたが、事前に露見して捕らえられた。明治三年小塚原で斬首。二十七歳。谷中霊園には一時雲井龍雄の墓が建てられたが、のちに米沢に移された。墓表のみが霊園の一角に残された。
長州藩士佐々木男也の墓である。
佐々木男也は、長州藩士で政務座見習、蔵元役などを勤め、上京して尊攘画策中、禁門の変により帰国。萩で南園隊を組織して総督となった。藩内の内訌では正義派に属し、四境戦争では石州口で戦い勝利に貢献した。戊辰戦争では振武隊総督として北越へ出征。維新後は百十銀行や郵政会社支配人となった。