西 陣
浄福寺
私の母は西陣の出身である。私の子供の頃は近所から機織の音が賑やかに聞こえたものである。今ではすっかり聞かれなくなったが、街並は相変わらず狭い道と京特有の民家が軒を並べている。その一角に浄福寺がある。巨大な兵力を京都に常駐させた薩摩藩であるが、相国寺では収まり切れず、浄福寺に分駐することになった。浄福寺に駐屯した薩摩藩兵は乱暴な振る舞いが多く、いつしか「浄福寺党」と呼ばれるようになった。
佐賀鍋島藩屋敷跡
智恵光院上長者町東のマンションの一角に佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑がある。この場所は父の実家、即ち私の本籍地の近くである。父が
「確かこの辺りに何とか藩の屋敷跡があったはず・・・」
というのだけを頼りに探してみると、確かに石碑が建っていた。
西周が『万国公法』を翻訳した榎町附近
津和野藩の医師の子であった西周は脱藩してオランダ語、英語を学び、幕府開成所の教授になった。文久二年(1862)にはオランダに留学して法学や政治学を修めた。慶應二年(1866)九月西周に京都出張の命が下った。京都に到着しても将軍に就いた慶喜からの召集はなく、ここ榎町の柳屋甚七の宅に下宿して『万国公法』の加筆訂正を続けた。西周の『万国公法』そして公議政体は斬新な響きをもって迎えられ、攘夷鎖港を唱えていた志士の中でも方向転換の必要性を感じていたものは、競って柳屋の門を叩いたという(高野澄『徳川慶喜』NHKブックス)。
肥前藩の屋敷跡というと、大阪でも高等裁判所の敷地内とその隣接地に佐賀藩蔵屋敷跡及び小城藩蔵屋敷跡の石碑が建てられていた。蔵屋敷や藩邸跡など京・大阪の地に無数に存在している。にも関わらず肥前関係の跡地にことさら石碑が建てられていることに何か意図を感じる。肥前は、薩長土肥と称されながら、薩長の後塵を拝するのが現実の歴史であった。肥の存在を訴えるために何者かが京・大阪の肥前所縁の地に石碑を建てたのではないかと考えると、何か怨念を感じる石碑である。
唐津小笠原藩屋敷跡(正親小学校前)
唐津小笠原藩は、石高六万石の小国ながら、征長軍司令官小笠原長行(一旦は廃嫡されるが、三十六歳のとき自分より年少の藩主長国の世子となった)が前藩主長昌の子息であったため、藩の立場は苦しいものとなった。戊辰戦争では日和見主義をとり、幕府不利と見ると長行を義絶し、新政府に石炭献上を申し出たりして忠勤に努めた。
松林寺
智恵光院下立売辺りにある松林寺は、見廻組与頭佐々木只三郎が下宿していた寺で、ここで龍馬暗殺の密議がこらされたという。