御茶ノ水
湯島聖堂入徳門
この地に壮大な聖堂を建てたのは五代将軍徳川綱吉であった。その後、寛政二年(1790)に及んで、老中松平定信が朱子学の振興を図り、施設の拡充をはかるとともに幕府の正式な学校とした。やがて昌平坂学問所(昌平黌)と呼ばれるようになり、諸藩の俊才が集まる最高学府となった。幕末に活躍した人材としては、幕臣岩瀬忠震や清河八郎更には高杉晋作もここに学んだ。
東京医科歯科大学
維新後、明治政府は昌平黌を接収して昌平学校と改め、明治二年(1869)には開成所、医学所などと合わせて大学校とした。明治十年(1877)には東京開成学校と医学校が合併して東京大学へと発展することとなった。この地は文部省博物局の陳列場(東京国立博物館の前身)や書籍館が造られ、師範学校(筑波大学の前身)、東京女子師範学校(御茶ノ水女子大学の前身)も創設されることになり、この地は日本近代近代教育発祥の地となった。
近代教育発祥の地と説明がある
小栗上野介邸跡
御茶ノ水駅から南側に歩いて数分のところにYWCA会館のビルがある。この地は小栗上野介忠順が生まれ育ち、終生の住居とした跡地にあたる。ビルの南側に千代田区の建てた説明板が建てられている。小栗上野介は万延元年(1860)の遣米使節に監察として随行したが、そのとき小栗に課された要務の一つは、日米両国の貨幣交換比率をアメリカと交渉することにあった。ハリスと締結した日米和親条約に基づく交換比率では日本から一方的に金貨が流出することになったため、アメリカで日本貨幣の分析を行うことになった。フィラデルフィアの造幣局で貨幣分析に立会い、日米両国の貨幣交換比率を確定させるに至った。小栗の真摯な態度はアメリカ人の賞賛を集め、当時のマスコミは挙って小栗を絶賛した。