御 池


HOME  戻る

(梅田雲濱邸址
 烏丸通り御池の交差点の東側を少し北上すると、梅田雲濱の旧邸跡の石碑がある。安政五年(1858)九月七日、小浜藩士であった梅田雲濱は、京都所司代に就いている藩主酒井忠義の忌諱に触れたため、士籍を除かれ藩主の命により烏丸御池の自宅で伏見奉行所の幕吏の手により捕らえられた。
梅田雲濱邸址


 三条富小路の散髪屋の前に石碑が建つ。
西川耕蔵邸跡
 西川耕蔵は京都三条の本屋の生まれ。学問を好み梅田雲濱の門下にあって勤王家になった。元治元年(1864)6月5日池田屋の密議に加わっていたが,新選組の急襲を逃れ,聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられ,慶応元年(1865)二月十一日、六角牢にて斬罪となった。
(西川耕蔵邸跡

 老中堀田正睦が上京して拠点としたのが本能寺である。堀田正睦は佐倉藩主。外交担当老中首座に任じられ、安政五年(1858)に上洛して勅許を得るよう命が下った。堀田は本能寺に投宿して孝明天皇に拝謁。通商条約への勅許を懇願したが、失敗に帰した。

本能寺といえば、「本能寺の変」。本能寺境内には信長の墓もあるが、当時の本能寺の場所は現在地と違った。その後移転したもので、幕末には現在地にあった。
本能寺
(本能寺

俵屋旅館
 麩屋町通りで今も旅館を営む俵屋は、長野主膳の定宿であった。
(俵屋旅館

 駐車場の看板と自動販売機の間に挟まれるようにして碑が残されていた。碑の存在に気づく人も少ない。
藤本鉄石寓居之址

 藤本津之助鉄石は、吉村寅太郎、松本謙三郎らとともに天誅組の首領として文久三年(1863)八月、大和にて決起したが、天誅組はたちまち包囲されて鎮圧された。

 藤本鉄石は、備前の出身。画技、書道は玄人、和漢の学問に通じ和歌漢詩にも堪能、武術にも長けていた。和親条約締結、和宮降嫁を契機に過激派に転じ、天誅組に参加した。こと破れた後は、従者一人を連れて紀州藩陣営中に突撃して阿修羅の如く斬り回って討ち死にした。

(藤本鉄石寓居跡

 当時、ここには顕本法華宗本山妙満寺があり、間部はそれを宿舎とした。安政の大獄の指揮者として悪名を馳せた間部であったが、その後井伊大老とは意見が合わず、老中を罷免された。

 現在の京都市役所の裏側、寺町押小路の駐車場の柵の中に間部詮勝の寓居跡の石碑が建っている。

 間部詮勝は越前鯖江藩主で、井伊直弼に用いられて、日米修好通商条約の勅許を得るために上京した。堀田正睦に続き間部も勅許を得ることができなかったが、彼は背後にある反幕勢力の動きを察知した。井伊直弼の国学の師である長野主膳の援護を受けて、間部は反幕勢力の一掃を図った。安政の大獄である。

 間部は反幕派の強い反感を買うことになった。吉田松陰は間部の暗殺を企てたほどである。
間部詮勝寓居跡
間部(まなべ)詮勝(あきかつ)寓居跡

(中沼了三先生講書の所碑
 中沼了三は、隠岐島後西郷に文化十三年(1816)に生まれ、早くから京都に出て鈴木遺音(恕平)の門下で儒学を学んだ。明治天皇の侍講を務めたこともある優れた学者であり、門下には、西郷従道、桐野利秋、中岡慎太郎、田原重助(肥後)らがいた。維新後も一時政府に出仕したが、三条実美らと意見が合わず官を辞した。位階を剥奪されたり、時には投獄されたりしたこともあるというから激しく衝突したことが想像される。

中沼了三先生講書の所碑

 石碑の建立は隠岐の中沼了三先生顕彰会によるものである。
 勤王の志の厚い十津川における文武館の建設に尽力し、文武館の初代教授にも就任した。また幕末に隠岐で発生した「隠岐騒動」においても精神的支柱となった。騒動というと何か血生臭いものを連想するが、隠岐騒動は一滴の血も流さず、三日三晩話し合いを続けた末に松江藩から送り込まれた代官を追放したという事件である。一時期、隠岐には共和政府が出現することになった。この辺りの顛末については、五木寛之『日本幻論』所収「隠岐共和国の幻」に詳しい。

(森寛斎宅跡
森寛斎宅跡
 蛸薬師の耳鼻咽喉科の前に「勤王画家森寛斎宅跡」と刻まれた石碑が立つ。森寛斎は長州藩萩の出身で、京都で画家として活躍する一方、多くの長州藩士と交わり尊王倒幕運動にも参加した。維新後は画業に専念し京都画壇円山派の第一人者と目された。明治二十三年(1890)、帝室技芸員制度が創設されると最初の技芸員となり、選者に任命された。明治二十七年(1894)六月81歳で没。

(三井越後屋京都本店記念公園
三井越後屋京都本店記念公園
 デパートの三越や三井財閥の起源となった、三井高利の開いた越後屋呉服店の跡である。
 私の五代前のご先祖は山崎屋平兵衛という京都の商人である。平兵衛は妻かしとの間に二男二女をもうけたが、娘が森寛斎に嫁いでいる。つまり森寛斎と私は遠い親戚ということである。