岡 崎 U



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(南禅寺
南禅寺 山門
 南禅寺と言えば「湯豆腐」である。大村益次郎は豆腐が大好きだったそうだが、生憎私は豆腐が嫌いである。南禅寺門前に軒を並べる湯豆腐屋を見るだけで気持ちが滅入る。自ずと南禅寺を訪ねたのは久し振りであった。

 南禅寺は巨大な伽藍といくつもの塔頭から構成されている。塔頭の一つ、金地院は慶長年間に「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院宗伝を生んだ。宗伝は時の権力者徳川家康に近侍し、天海僧正とともに幕議に参画した。家康没後、金地院内に東照宮を造営した。その東照宮に近接して戊辰戦争の幕軍戦没者の碑があると聞いたので、金地院を訪ねることにした。その日たまたま春の特別公開日に当たっていたため、拝観料を払って金地院境内を歩き回ったが、結局戊辰戦争戦没者の碑は発見できなかった。受付に戻って確認してみると
「その石碑は一般の方は見られないところにあります。」
とつれない返事が返ってきた。残念ながら石碑を確認できないまま、撤収することになった。

南禅寺金地院 東照宮
南禅寺天授庵

 南禅寺山門の横にある塔頭、天授庵は南禅寺の開山塔とされ、数ある南禅寺山内でも最も由緒ある寺院である。

 天授庵墓地には、梁川星巌、紅蘭夫妻と横井小楠の墓がある。拝観可能であったので寺に入ってみたが、墓地には入れない。ここでも目的地まで辿り着かないまま撤退することになった。湯豆腐の里、南禅寺とは終始相性が良くないようである。

(青蓮院
青蓮院

 青蓮院は天台宗の門跡寺院。嘉永五年(1852)尊応法親王が門跡を襲った。親王は将軍継嗣問題で慶喜擁立に動いたため、安政の大獄で隠居・永蟄居という重い処分を受けた。文久二年(1862)四月、処分が解かれると再び青蓮院に復した。孝明天皇の信任が厚く文久三年(1863)正月には中川宮と称して国事に奔走する。中川宮は公武合体派であり、八一八の政変では中心となって急進派公卿排除を成功に導いた。元治元年(1864)四月より賀陽宮(かやのみや)と改称した。

 中川宮は最後まで佐幕主義から離れられなかったため、王政復古後は参朝を停止され、更に親王を廃して広島藩預かりとなった。のち明治三年に伏見宮に復し、久邇宮(くにのみや)家を興した。幕末期、これほど浮き沈みの激しい時間を過ごしたのは、この宮様が一番かも知れない。

(知恩院
知恩院 三門

 浄土宗総本山知恩院は幕末イギリスの外交官パークスが宿舎としていた。知恩院の三門はわが国最大の楼門で、元和七年(1621)の竣工。

 知恩院門前には人力車がたくさんたむろしていて客引きをしている。私が地図を見ながら思案していると一人の人力車の青年が声をかけてきた。
「おっさんを相手にせずに、若い女性を狙った方が良い。だいたいおっさんが一人で人力車に乗っているなんて絵にならんぞ。」
と助言してやったところ
「いやご主人のような味のあるおじさんの方が良いんです。」
と妙なナンパに遭っているようであった。とにかく人力車は振り切って知恩院をあとにした。


(琵琶湖疎水
琵琶湖疎水
 哲学の道に沿って琵琶湖疎水がある。琵琶湖の水を京に引くためのものである。田辺朔郎の設計、施工により明治二十三年(1890)に完成した、当初の目的は通船路の確保にあったらしいが、疎水の貫通に伴って日本初の水力発電所も設置され、この電力を用いて日本初の市街電車を走らせることになった。

(京都府立図書館
奉拝鳳闕詩石碑
 平安神宮の鳥居前にある京都府立近代図書館前庭に吉田松陰の「奉拝鳳闕詩」石碑が建っている。吉田松陰が、嘉永四年(1851)藩主に従って東遊した際、神戸湊川神社へ参詣したときの感激を詩作したものである。この詩は勤王派の志士たちが好んで吟じたもので、松下村塾門下生野村靖ら長州藩出身者の手により石碑が建立された。
傍らの石柱には「吉田松陰山先生河襟帯詩碑」と刻まれている
(平安神宮
平安神宮

 平安神宮は、平安遷都1100年を記念して明治二十八年(1895)に建立された。建設当初は桓武天皇を祭神としていたが、昭和十五年(1940)には孝明天皇も合わせて祀られることになった。つまり京の地を都と定めた天皇と、京都に居住した最後の天皇とを合祀することになったわけである。

 どうでも良いことであるが、私の両親が結婚式を挙げたのが、ここ平安神宮であった。式の最中に修学旅行の生徒に冷やかされたらしい。
旧京都守護屋敷門
 平安神宮の応天門西側の駐車場に接して京都守護職屋敷門が移築されている。よく見ると軒瓦に菊の紋が刻まれている。孝明天皇の京都守護職松平容保に対する信任の厚さを垣間見ることができる。


(蓮月茶屋
蓮月茶屋
知恩院門前に太田垣蓮月尼ゆかりの料亭蓮月茶屋がある。蓮月茶屋は豆腐料理を出す店で、豆腐の嫌いな私とは無縁であるが、蓮月は豆腐が大好物だったそうである。蓮月は幼くして知恩院の寺侍太田垣光古(てるひさ)の養女となった。二度の結婚、子供にも相次いで先立たれ剃髪して知恩院で暮らした。蓮月という法名を授かったのもこの頃である。

(聖護院
聖護院門跡
聖護院といえば八つ橋発祥の地として有名で、付近を歩くとほのかに八つ橋の甘い匂いが漂っている。光格天皇のとき、御所が炎上した際、聖護院を仮皇居としたのが始まりで、以来、当寺院は仮御所として使われることになった。安政元年二月にも御所が炎上すると、孝明天皇は皇子祐宮(のちの明治天皇)を連れて聖護院に避難した。
徳川家に降嫁した和宮は、維新後静寛宮と称し本人の希望を容れて京都に帰ることになった。帰京した静寛宮が住殿と定めたのが聖護院である。その後、東京に戻ったが明治十年(1877)脚気のため箱根塔ノ沢で病死した。行年三十二歳。