
六角獄舎跡
殉難勤王志士忠霊塔
平野国臣も生野挙兵に加わり元治元年(1864)一月、捕らえられて六角獄舎に収容された。ところが同年七月の禁門の変の際、京都市中の大半が戦火に覆われることになった。火炎が六角獄舎に迫ると幕吏は囚われていた尊攘派の志士たちを斬った。この難にあったのが平野国臣のほか、古高俊太郎ら三十八名である。
平野国臣は、「憂国十年、東走西馳、成否在天、魂魄帰地」と高吟して斬についた。三十七歳。


子母沢寛著「新選組始末記」によると、松原忠司は新撰組の柔術師範で頭を青々と剃り上げ、でっぷりとした男だったらしい。その頃、年は二十七、八。
ある夜、酔った勢いで言い争いになった安西という浪人を斬った。やがて安西の未亡人と懇ろになり、それが土方の耳に届いた。土方は松原を呼び出し言った。
「その妻女に恋慕していて、主人をだまし討ちにした上、巧みに事をごまかして、親切づらに妻女に近づいて、とうとう自分の物にしたというような武士があったら、君は一体どう思うかね」
屈辱を感じた松原は一旦切腹したが、取り押さえられて一命は取り止めた。しかし、やがて隊務にも不熱心になった。ある日、姿がないので安西の妻女の家に見に行くと、松原と女は心中して果てていた。
光縁寺墓地には沖田総司の縁者(戒名 眞明院照誉貞相大姉)の墓もあるが、沖田とどういう縁のある者の墓なのか、私には未だ調べがついていない。
この他、芹沢派の野口健司、大石造酒蔵(大石鍬次郎の兄、隊士により斬殺された)、河合耆三郎、谷三十郎、田内知、佐野七五三之助、茨木司、藤堂平助、服部武雄、伊藤甲子太郎ら二十八名の隊士の名が同寺の過去帳に見られる。
【沖田総司縁者の墓について】
『歴史と旅』昭和五十五年十一月号「特集 謎と異説の新選組」に、川西正隆氏(幕末維新史研究同人)による「沖田総司の恋人の謎」と題する「沖田総司縁者の墓」に関する長文のレポートが掲載されている。
光縁寺過去帳によると、この墓の施主は酒井意誠という人物である。酒井意誠は大和櫛羅藩酒井意章の養子として酒井家を相続した人である。養父酒井意章は禁裏守衛兵として京都に駐留していた。この酒井意章が町娘キンを巡って若い新選組隊士と刃傷沙汰を演じた。喧嘩両成敗の法に則って酒井意章も切腹を命じられるのが当然のところ、沖田総司の取りなしにより助命された。意章は禁裏守衛を解任されて、大阪湾警備兵として配置転換された。川西氏は「(意章の)処分が切腹を脱し得た陰には、姉キンと同名の女に対する総司の肉親愛による、大きな力が働いたものである」と推定されている。
川西氏によると、光縁寺に葬られている戒名 眞明院照誉貞相大姉なる女性は、沖田総司の“幻の恋人”石井秩であるという。池田屋事件で負傷した新選組隊士は新選組医料所浜崎新三郎宅で手当てを受けたが、その中に看護婦として働く石井秩という娘がいた。沖田総司と石井秩は恋仲となり、やがて慶応二年(1866)十一月五日、キョウという女の子が誕生した。秩は病を得て慶応三年(1867)四月二十六日に没した。葬儀に新選組隊士は列席せず、大阪から駆けつけた酒井意章、キン夫妻、医師浜崎新三郎夫妻、そして石井家の人々によってひっそりと行われた。
子供に恵まれなかった酒井意章・キン夫妻は石井秩の連れ子ユキと沖田総司の遺児キョウを引き取った。酒井家の養子意誠はユキと結婚した。意誠は代々子孫に“司”の名を伝えるように遺言したというから、沖田総司の恩を厚く感じていたに違いない。総司の遺児キョウも奈良県御所町の磯田家に嫁している。
以上が川西氏のレポートの要約である。沖田総司に恋人がいたとか、子供まで成していたということは、一般にはあまり知られていない。熱烈な沖田総司ファンにとっては抹殺すべきことなのかも知れないが、これはこれで色んな想像をかき立てる話である。