大阪城公園




(大阪城
大阪城天守閣

現存の天守閣は昭和六年に再建されたものである

 慶應二年(1866)、七月二十日、十四代将軍家茂は大阪城内で息を引き取った。享年二十一歳であった。死因は脚気衝心と言われる。時は将に第二次征長戦の最中であり、当面将軍の死は伏せられた。家茂には和宮との間に子はなく、直ちに後継将軍を決めなくてはならなかった。

 家茂の死を口実に幕府は征長軍を撤退させた。徳川宗家の相続は一橋慶喜と決まったが、慶喜は将軍家を継ぐのを固辞した。結局、慶喜が十五代将軍の座に就いたのはその年の十二月であった。慶喜が将軍位に就いて間もなく、今度は最大の佐幕派であった孝明天皇が急死する。征長の失敗そして孝明天皇の死によって、幕府の命運は急速に衰えた。
 明治元年正月六日、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗れたことを知った慶喜は、夜陰に紛れて大阪城を退去。天保山より軍艦に乗って江戸に帰った。
(大村益次郎殉難報国碑
大村益次郎殉難報国碑
碑の建立は昭和十五年
 大阪城から南に十分ほど歩いた国立大阪病院の敷地南東の角に大村益次郎殉難報国碑が建っている。明治二年、京都で暴徒に襲われた大村は、治療を受けるために大阪まで運ばれ、脚を切断する大手術を受けたが死亡した。明治政府にとって稀有の軍事的才能持ち主というだけでなく、鎮台や軍制整備の中心人物を一瞬にして失った。大村はのちの西南戦争を予測して、大阪を対薩摩の軍事拠点として準備を進めていた。実際、西南戦争では大阪が弾薬や兵の供給基地として重要な役割を果たした。
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