大崎下島 T
大崎下島へは、今治港から高速艇で30分ほど。本当にあっという間に御手洗の港に着く。新居浜から最も近い広島県かも知れない。何しろ御手洗の町の対岸は愛媛県岡村島なのである。
今治からの高速艇
高速艇には自転車は載せられないので注意
歴史のみえる丘公園展望台から御手洗の町を見下ろした
七卿館
御手洗港といっても、小さな桟橋があるだけのものである。港から数分も歩くと最初の目的地である七卿館に到着する。
七卿(正確にいうと五卿である)が、御手洗に逗留したのは、元治元年(1864)七月二十ニ日から二十四日の三日間であった。入京するために多度津まで来ていた彼らに蛤御門の変で長州勢が大敗したという情報が届く。この報を受けて長州に引き返す途中に泊まったのが、御手洗竹原屋という庄屋であった。
七卿館内部
この七卿館(竹原屋)には、オランダ商館のテーレマン・パクという人が駐在して薩摩藩などとの密貿易をしていたこともあったという。
文久三年(1863)から慶応元年(1865)にかけて、広島藩は軍艦購入のために薩摩藩から十万両を借りて、その返済として米、鉄、銅、操綿などを御手洗で渡していた。これを御手洗交易と称する。
満舟寺
七卿館から少し内陸の方に進むと、大東寺というちょっと立派な寺があって、その裏手に満舟寺がある。満舟寺には琉球使節の残した扁額がある。朝鮮通信使と同様、琉球国も将軍の大代わりには慶賀の使節を送った。
星野文平の碑
満舟寺に隣接してふるさと学園という施設があり、グラウンドでは老人たちがゲートボールをやっていて、プレーを巡って激しい口論の真っ最中であった。その脇を小さくなって通り過ぎて維新の志士、星野文平の碑を見に行った。
この碑の存在を知るまで、私は星野文平という人のことを知らなかった。星野文平は御手洗の出身で、江戸に上って昌平校に学んだ秀才であった。やがて広島に戻って藩校で教鞭を取っていたが、時勢が沸騰してくると教職に飽きたらず、同志らと語らって京都に上って国事に尽くそうとした。しかし周囲から引き止められ、星野は悔しさの余り切腹を企てた。同僚に取り抑えられ一命を取り留めたが、彼の熱意を汲んだ藩が遂に上京を許した。
京都では高杉晋作ら諸国の志士と交わり活躍したが、文久三年二月切腹したところの傷が破れ、二十九歳の若さで没した。