三条大橋
高山彦九郎像
幕末の京都というと、何か陰惨なイメージがつきまとう。三条大橋は、長野主膳とともに大老井伊直弼に協力したという理由で村山たか女が生き晒しにされた場所でもある。文久八年(1863)二月十三日早朝には等持院の足利三代(尊氏・義詮・義満)の木像の首が三条河原に晒されたこともあった。当時から三条大橋は人の往来が多かったので、そういった舞台に利用されることになった。
高山彦九郎像台座
三条大橋には、寛政の三奇人と称された高山彦九郎の「皇居望拜之址」の像がある。流石に奇人と言われるだけのことがあって、天下の公道で跪座している様子、面構えは異様である。
高山彦九郎は尊王の志厚く、当時の天皇家の衰微を泣いて嘆いたと伝えられる。単なる奇人だったのかも知れないが、わずかに時が下り、尊王の世となるとたちまち偉人に仲間入りした。
鴨川
小川亭之跡
京阪三条駅の南、京阪三条南ビルの敷地内に小川亭跡を示す石碑が建てられている。小川亭の女将ていは、勤王ばあさんとして有名で、特に肥後藩の志士と親交が深く、その世話をした。当時、小川亭に出入りした志士として名を記録されているのは、住江甚兵衛、河上彦斎、轟武兵衛、宮部鼎蔵、山田信道、高木元右衛門、藤村紫朗、桂小五郎、平野國臣ら。のちに平野國臣の銅像を建てるに当たって銅像の顔の検証役にもなった。大正十二年七月十日、九十歳で逝去。