神戸は、私が学生時代を過ごした懐かしい土地である。正月休みに親戚一同で宝塚に逗留しているすきに、一人抜け出して神戸の史跡を訪ねた。
久し振りに神戸を訪ねると、震災の傷跡らしきものはほとんど見当たらない。近代的なビルが建ち並ぶ風景は、すっかり昔の姿から一変していた。全く新しく生まれ変わったという印象である。
阪急電車の特急が、いつから岡本に止まるようになったのだろうか。そんなことから始まって見るもの全てが新鮮で、学生時代に何度も訪れた三宮の街であったが、ほとんど初めて訪ねる街と変わりなかった。
こんな様子で幕末・維新期の史跡を保存してくれているのだろうか。多少、不安を抱きながら駅を降り立った。

旧居留地下水道公開施設 15番館に隣接して、当時建造された下水道施設を見ることができる
神戸の外国人居留地は、幕府が安政五年(1858)に締結した修好通商条約に基づいて設けられたもので、神戸以外に大阪、東京、長崎、横浜などにも同様に作られたが、外国人による自治がうまく機能したのは神戸だけだったらしい。

68番館の門柱
この地にはレンガ造りの倉庫があったという
三宮駅から京町通りを南に下ると、阪神高速道路京橋入り口付近に旧海軍操練所跡の錨の形をした記念碑が建っている。
海軍操練所は、文久三年(1863)十四代将軍家茂がこの地を視察した折、勝海舟は海軍の興隆の重要性を説き、合わせてこの地が天然の良港であることから、大阪湾の警護のためにも神戸に海軍操練所を建設することを願い出て、許されたものである。
元治元年(1864)五月に開所となり、勝海舟は同時に軍艦奉行に任じられた。出身藩に関わらず塾生を集め、活況を呈したが、その直後、池田屋事件や蛤御門の変に関与した塾生がいるという嫌疑から、わずか1年足らずで閉鎖に追い込まれた。勝も軍艦奉行を解任され、江戸に召還されてしまった。
短い活動期間ではあったが、海軍操練所から、坂本龍馬や陸奥宗光といった逸材を生んだ。


神戸事件というのは、幕末期に頻発した武士と外国人の接触事件の一つである。生麦事件や堺事件と同類の事件と言ってよい。
時は既に王政復古が宣言され、年の明けた慶応4年(1868)1月のことである。警備のため行進していた備前藩兵の前を外国人が横切ったのがきっかけで発砲騒ぎとなった。交戦の末、一時外国人部隊が神戸を占拠した。新政府は、東久世通禧を遣わし外国人と折衝し、藩家老が謹慎、砲隊長滝善三郎が切腹となった。




近年ルミナリエで有名になった東遊園地。阪神大震災後、クリスマスの前になると神戸市役所の南側、東遊園地から南京町にかけてライトアップされて、このせいで殺人的な人込みになる。
東遊園地にある興味深い石碑やモニュメントを以下に紹介したい。