七大陸の最高峰を全て制覇した登山家のことをセブン・サミッターと敬意を込めて呼ぶらしい。私は登山に関しては門外漢であるし、セブン・サミッターが身近にいたとしてもちっとも凄いと思わないが、このたび多磨霊園の壬生基修の墓を訪ねることで、八一八政変で長州へ落ち延びた七人の公卿の墓を全て訪問することができた。幕末史跡訪問家中のセブン・サミッターとなったわけである。誰も凄いと言ってくれないが…。
七卿に関する史跡が、彼らが集合した妙法院から始まって、鞆の浦、御手洗、防府、下関そして山口県各所、大宰府に至るまで、呆れるほど数多く残されている。七卿は、特に長州藩にとっては抗幕の象徴的存在であり、幕末史を肯定する立場を取れば維新後もその顕彰は欠かせなかったに違いない。
象徴的存在である七卿ではなくて、生身の七卿はどういう存在だったのだろうか。一口に七卿と呼ぶが、実はそれぞれが個性的であり、特に維新後の経歴などを見るととても興味深い。以下に七卿のプロフィールを比較表にしてみた。
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名 前 |
生 年 |
没 年 |
明治元年時の年齢 |
維新後の主な役職 |
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三条実美 |
天保八年二月七日(1837.3.13) |
明治二十四年二月十八日(1891) |
30 |
議定、副総裁、輔相、関東監察使、右大臣、太政大臣、内大臣(公爵) |
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三条西季知 |
文化八年二月二十六日(1811) |
明治十三年八月二十四日(1880) |
56 |
参与、侍従(侯爵) |
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東久世通禧 |
天保四年十一月二十二日(1834.1.1) |
明治四十五年一月四日(1912) |
33 |
外国事務総督、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長、元老院副議長、枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長(伯爵) |
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壬生基修 |
天保六年三月七日(1835) |
明治三十九年三月五日(1906) |
.32 |
参与、会津征討越後口総督参謀、越後府知事、東京府知事、山形県権令、元老院議官(伯爵) |
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四条隆謌 |
文政十一年九月九日(1828.10.27) |
明治三十一年十一月二十四日(1898) |
.39 |
中国四国追討総督、大総督宮参謀、仙台追討総督、奥羽追討総督平潟口総督、陸軍少将、大阪鎮台指令長官、名古屋鎮台司令長官、仙台鎮台指令長官、元老院議官、貴族院議員(侯爵) |
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錦小路頼徳 |
(1835) |
(1864) |
29にて病没 |
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沢宣嘉 |
天保六年十二月二十三日(1836.2.9) |
明治六年九月二十七日(1873) |
31 |
参与、九州鎮撫総督、長崎府知事、外国官知事、外務卿 |
■ 三条実美は、七卿の中でも最も家格が良く、新政府が樹立すると当然にその中枢的な役職に就いた。我々が「公家さん」といえば連想するような、上品で温和な性格の人だったようである。その一方で、安政の大獄で処分を受けた父三条実万の影響を受け、極めて過激な尊王攘夷派公卿として名を馳せた。八一八政変前夜まで幕府に対して強硬に攘夷を求め、孝明天皇の大和行幸を推進する中心人物であった。恐らく実際には長州藩からの鼻薬が効いていたのであろう。自分の意思に反して乱発される勅書に孝明天皇は相当激怒していた。これが八一八政変の直接の原因となった。孝明天皇は生理的に異人を嫌っていたが、同時に三条ら過激な尊攘公卿も嫌悪していた。従って孝明天皇が生きている限り、長州藩の復権もなかったし、三条ら七卿の帰京も適わなかった。孝明天皇が幕府崩壊の一年ほど前に崩御したのは、三条らにとって誠に好都合であった。
明治新政府が樹立すると同時に、三条実美は議定、右大臣、太政大臣といった要職を歴任した。政治力を買われてその役に就いたというより、長州派の公家として薩摩派の岩倉具視に対抗する形で押し上げられた色合いが強い。実際には政治力のある岩倉に押されっ放しであった。三条の真価が問われたのが、岩倉具視が大久保利通、木戸孝允ら有力者を伴って外遊した時期である。三条は所謂留守政府を任された。留守政府は次々と新政策を打ち出したが、その最中に隣国である韓国に派兵する議論が持ち上がった。これに関し西郷隆盛は、いきなり兵を送るのは宜しくない、先ず使節を送り開国を迫り、韓国が使節を殺害するようなことになれば、その機を捉えて兵を起こすべきであると主張した。所謂征韓論である。
閣議では西郷を韓国に送ることが決定されたが、これに欧州から帰国した、西郷の盟友、大久保利通が反対した。政府は二派に分かれて激しく衝突した。板ばさみとなった太政大臣三条実美は、西郷の派遣を決定した夜、人事不省に陥ってしまう。すかさず遣韓使節に反対する勢力は、岩倉具視を三条の代理に指名し、意見を付して天皇に奏上した。結局、西郷の韓国派遣は永遠に歴史の彼方に葬られ、征韓派と言われる西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは辞表を提出して政府を去った。明治六年の政変といわれる。
振り返れば、政局が転回する契機となったのが三条の昏倒であった。その意味で三条の役割は小さくなかったが、勿論これは本人が意図してひっくり返ったわけではなくて、進退窮まった末の醜態であった。三条はその後政務に復帰するが、事実上この政変で政治的な影響力は失墜したと言えよう。
■ 三条西季知は、七卿の中では一番高齢であった。維新を迎えた時点で既に五十六歳になっていたが、新政府の参与、続いて権大納言に任じられたのち、明治三年に辞官隠居。明治十三年に病没したため、維新後さしたる事績を残さないまま世を去った。
■ これに対し東久世通禧は、維新を迎えたとき三十三歳という壮年にあった。早々に新政府の参与兼外国事務取調掛に任用されたが、直後に神戸を守備していた備前兵が外国人と衝突し発砲するという事件(神戸事件)が起きた。明治新政府は尊王攘夷を標榜する政府であり、攘夷活動は政府の奨励するところであるという認識が広まっていた。しかしながら、未だこの時点では鳥羽伏見で勝利を収めたものの、江戸には徳川家が健在であるし、旧幕府勢力の抵抗も活発であった。神戸事件は、明治新政府が最初に遭遇した難題であったが、生まれたての政権にとって先ず諸外国に承認をもらうことが最優先事項であった。
神戸へ派遣された東久世通禧は、神戸の運上所でアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、プロシャ、オランダの代表を集めて会見し、日本の開国を宣言し、事件を起こした備前藩責任者の処分、居留民の生命、財産の保護を約して和解した。東久世はこの年の三月には横浜裁判所総督を命じられ外国事務総督の職を解かれるが、短期間であったが彼の果たした役回りは非常に大きかった。もともと攘夷のために都落ちまでして辛酸を嘗めてきた東久世通禧であったが、新政府樹立と同時に開国の先頭に立つことに戸惑いは無かったのであろうか。その辺りの心境は不明であるが、それを鮮やかにやってみせたということは偏狭な攘夷主義者ではなかったということであろう。若いだけに柔軟性はあった。その後も地方官や元老院、貴族院などの副議長などを務めるなど重用された。
■ 壬生基修と四条隆謌は、維新を迎えたとき共に三十台であったが、征討軍の総督として各地を転戦した。壬生基修は、会津征討越後口総督参謀として軍を率い、新潟平定後そのまま越後府知事を務めた。その後、東京府知事、山形県権令のあと、元老院議員。四条隆謌は、戊辰戦争での戦功を認められ、戦後陸軍少将に任じられた。軍人としてどれほど有能だったのかは不明であるが、東北から九州四国まで日本各地を転戦して動いたことは事実である。その後も大阪鎮台指令長官、名古屋鎮台司令長官、仙台鎮台指令長官など、軍人としてキャリアを積み、陸軍中将まで昇った。
■ 沢宣嘉は、七卿落ちにより一旦三田尻(現防府市)まで来たが、政変のわずか二ヵ月後には脱出して生野挙兵の首領に担がれた。三田尻滞在はほんの三日だったとも言われる。挙兵の時点で連携するはずの大和五條の天誅組は敗れており、生野の倒幕派は単独で反乱軍を起こすことになった。この時点で挙兵中止を判断することもできたはずである。その断を下すことができたのは首領である沢宣嘉であった。しかし強硬派の勢いに押され、結局挙兵と決まった。結果は惨敗であった。沢は、伊予小松藩田岡俊三郎、阿波森源蔵らに守られて再び長州に戻った。しかし他の六卿と合流することは叶わず、阿東生雲の庄屋屋敷に幽居した。維新後、九州鎮撫総督、長崎府知事、外国官知事を歴任し、ロシア公使を命じられたが赴任直前に病を得て世を去った。三十一歳であった。幕末、彼のために何人の若者が命を賭したかということに思いを巡らせると、誠に呆気ない最期であった。
■ 錦小路頼徳は、元治元年(1864)三月、赤間ヶ関(下関)の砲台を巡視中に発病し、翌月下関で死去した。吐血したというから結核かもしれないが、病名の確かなところは分からない。二十九歳であった。錦小路頼徳の墓は、山口市郊外の赤妻にある。ほかの六卿はいずれも維新後まで生き抜いたため、墓所はそれぞれ東京にある(四条隆謌のみ京都東山二条)。その気になれば東京の五卿の墓は、一日費やせば一回りすることができる。従って幕末史跡訪問家のセブン・サミッターになるための最大の難関は、錦小路頼徳の墓なのである。といっても山口市赤妻は秘境でも何でもなく、山口中心街から車で20〜30分の至近距離にある。結局のところ、セブン・サミッターになるための鍵は、「そこまでやる執念」を持つことなのである。
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名 前 |
墓 |
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三条実美 |
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護国寺 |
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三条西季知 |
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日暮里 谷中墓地 |
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東久世通禧 |
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目黒 長泉院 |
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壬生基修 |
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府中 多摩霊園 |
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四条隆謌 |
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京都東山二条 妙伝寺 |
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錦小路頼徳 |
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山口市赤妻 錦小路神社 |
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沢宣嘉 |
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小石川伝通院 |